可奈もまた、顔面蒼白状態で、自分の両肩を押さえながら震えている。
暫らくして小百合は、真紀子がどこへ行ったかよりも、この事態を上司にどう説明しようか、という方を考えあぐねている素振りだった。
規則を破って面会させた小百合自身が、とがめられる事を恐れたのだ。
早速、内線で呼んだ恋人だろう男が現れた。
リーゼントで固められたテカテカの頭に、独身のくせに、やはり糊付けのされた白衣が『マザコン』だといっている、意かにも神経質そうなメガネ男だ。アサミはすぐさま白衣の名札に目をやった。
『心療内科 岩木志郎』
小百合の男を見る目の趣味を、この状況ながらにアサミは少々疑ってしまったのだろう。訝しく、アサミは岩木を見据えた
事の次第を聞いて慌てて飛んできたのだろう。岩木は切らした息を整えて話し始めた。
「いくら可奈ちゃんの頼みでも、早まったよなぁ」
「そうね。こんな事になるなんて思いもしなかったから」
「だから言っておいただろう? 精神病患者は甘く見ちゃいけないって」
「ごめんなさい」
「でも、いなくなったものは仕方がない」
「どうするの?」
「可奈ちゃん達の説明じゃ通らないだろう? 人間が壁の中に吸い込まれていったんだろ? 次はこの二人が、この病棟に入れられるのがオチだよ」
岩木は鼻で笑うように言った。
高校生の茶番なんかに付き合っている暇は無いんだ「どうせ逃げられたんだろう」と目が言っている。
それは、恋人の小百合を否定した事にもつながるのに、とアサミは思った。
細い指先で顎を撫でながら岩木は、空っぽの病室に入り見まわした。まるで、探偵にでもなったつもりなのか、何度も小さく頷く仕草を見せた岩木は、然も、全ての状況を把握したかのように、冷静な面持で振り向いた。
「ここの患者は元々リストカットの前歴があったんだ。自分を痛めつける事で自分の存在を確かめたかったんだろう。体に走る痛みだけが、本人に生きていると実感させたらしい。あの血痕が何よりの証拠だ」
岩木は自信満万に言ってのけた。
「それは……」
アサミが言い掛けた言葉を遮るように、岩木は話し続けた。
「君達がここに入る前に、彼女はこの壁に頭を打ち付けていたか、それか君の言うように爪で引っかいていたかしたんだろう。彼女の演技に気付かずに、君たちはドアを開けた。反動で飛ばされた君たちの目の前を、彼女は走り去ったはずだ。違うか?」
「違う!」
可奈は涙声で、間髪入れずに強く否定した。
「それなら、私も見ているはずだわ。誰も出て行ってない」
同じく、小百合も反発してみせた。だが、岩木は怯む事無く話し続ける。
「娘をかばいたい気持ちは解るけど、現実に患者はいない」
「何が言いたいの?」
小百合の眉が少し上がった。
「思いたくはないが、仕組まれたとは感じないか?」
アサミには、岩木の言っている意味がわからなかった。
「君は少しも目を離していないか?」
岩木は小百合に、にじり寄った。自分が言っている事は、常に正しいのだと押し付けているようにも見える。
小百合は泳ぎきった目をしながら考えていた。
「……そう言われると……自信ないわ」
アサミはその言葉に、小百合は娘よりも、こんなくだらない男を取ったのだと言う事だけはわかったらしい。同じく、可奈も幻滅した表情を見せた。
「お母さん! この人は私を疑ってるのよ!」
可奈が小百合の白衣の袖を引っ張り訴えたが、その声が届くはずもない。
「もういいよ、可奈ちゃん。友達を逃がしたかったんだよね?」
岩木の勝ち誇ったような言い草に、アサミの胸の奥から、例え様の無い怒りが込み上げてくるのを感じていた。
だが、どう言えばいいのかが解らず、言葉が閉まった喉を、簡単には通り抜けてはこなかった。
「違う違う違う! お母さん私を信じてよ!」
可奈にされるがまま、小百合は体を揺さぶられるだけで、それ以上何も言おうとはしなかった。
アサミもまた、信じてもくれない大人達に何を言っても無駄なのだと思ったのか、汚い大人の世界に足を踏み入れる事を、無意識に拒んだのだと思う。
ただ黙って俯いてしまった。
「まぁ。一歩下がって、逃がしたのは僕の憶測だったとしよう。でも事実、患者がいないのだから逃げた事に変わりはないんだ」
「血だらけの真紀子がこの廊下を走って行ったって言うの? 証拠はないじゃない!」
「可奈ちゃん側にも証拠はないだろう?」
「でも! 本当に見たのよ」
「これ以上言うと、僕の方こそ可奈ちゃんを病室に入れなきゃいけない羽目になるんだよ。そうしたくないから見逃してやろうって言ってるのにっ! 解らないかなぁ」
岩木は苛立ちをむき出しにして、頭を掻き毟った。
「だったら真紀子はどこに行ったって言うの?」
可奈は力なく泣き崩れた。アサミはすぐに、可奈の目線にしゃがみ込み肩を抱き寄せた。
「岩木先生?」
小百合が口を開いた。
「逃げたって事もいいけど。それじゃあ面会させた事がばれるわ」
今更、何を言い出すのかと思えば、小百合は、やはり自分の面目の事でいっぱいだったのだ。
「診察にすればいい」
「私がこの子達と一緒の所、看護師に見られてるの。私は内科よ。あのエレベーターでここには、普通来ないわ」
「でも、壁に吸い込まれて行ったなんて誰が信じると思う?」
「信じないわね」
「だろう?」
小百合は暫らく考えていたが、何かを思いついたように、掌を拳でポンッと叩いた。
「そうよ、それを逆に利用するのよ」
「どう言う事だよ?」
「もし、百歩譲って、まぁ有り得ないけど、壁に吸い込まれたと言う事にしましょう、どちらにしても山根さんはもう出てこないわよね? 早い話、死んだって事よね?」
「おいおい、患者の家族に説明のしようがないじゃないか?」
「あなたも心療内科で、人間の考えられない行動を治療している側なんだから、一度くらい異次元の世界に目を瞑ってもいいんじゃないかしら」
どうやら、既に真紀子がどこへ行ったかではなく、その処理をどうするかだけに神経が向いているらしい。
「……患者の遺体はどうするんだ?」
「そんなの、どうにでもなるわよ……」
淡々と、冷めきった会話をする大人達に、アサミに吐き気が蘇った。
目の前で起こった真紀子の事実よりも、この二人の会話がアサミには理解出来なかった。
最後まで真紀子を『患者』と呼び続けた岩木。
――本当にこの人は医者なの? こんな男が人間の心の病を治せるわけがない。
アサミの不信感は募るばかりだった。
小百合の、自分さえとがめられなければ、後はどうなってもいいという考え。結局、真紀子がいなくなった事など、この二人にはどうでもいい事だったのだ。岩木にとっては、厄介な患者が一人減って清々した、といった感じだろう。
そしてアサミは、大人達の汚い社会の裏を見せ付けられる事になった。
真紀子は自殺。
病院側は、早々に真紀子の両親を呼び付けてそう告げた。
納得のいくようにと、両親には病室の血塗られた壁を見せ、手におえなかった事実を突き付けた。暴れた後のようなベッドに、シーツや壁についた生々しい血痕。無論、両親は言葉を失っていた。
自分たちの娘に何が起こったのか。一体何が、娘をそこまで追い込んだのか。そう言いながら、泣き崩れる真紀子の母親にかける言葉など、どう神経を研ぎ澄まし探した所で見つかるはずもなかった。
告別式でも、棺桶にすがる母親、流れる涙を止める事の出来ないままハンカチで拭い続ける父親、姉の死を理解する事がままならない歳の離れた弟。
どう言う顔で見ていられるものか。
その中に――……真紀子ではない、別の誰かが入っている事など、アサミには到底告げられない。
事もあろうに小百合と岩木は、真紀子だと偽って別の検体を家族に返したのだ。
理由はこうだ。
『真紀子の様子を覗いに行った時に逃げられた。そして、病院の屋上から飛び降りた』
軽々と、しかも涙ながらにそう言ってのけたのだ。
岩木は、真紀子の顔や体の損傷が激しすぎるのだと言い、検体を包帯でグルグル巻きにした。両親はそれを、真紀子であると信じて疑わない。
きっと、病院側は小百合と岩木のした事を見抜いているに違いないのに、それを突き止めようとはしない。病院に変な噂が広まっては、経営に響くと言ったところか。それならアサミと可奈に、口止め料を払った方が安くつく、と考えたのだろう。
事実、アサミは可奈の家に呼び出されたかと思うと、病院の経理課と名乗る男に金をちらつかされた。
勿論アサミは拒否した。
「そんな物。貰わなくても、喋りませんから」
アサミはそう反発するように言った。これは許される事ではないと解ってはいたが、アサミには、両親に事実を言う勇気もなかった。
家族の深い哀しみが痛いほど解るのに……勇気がない。いや、本音は怖かったに違いない。
あの病室での、恐ろしい光景を思い出したくはないと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
結局はアサミも自分を守りたかった。小百合と岩木のした事、それを全部否定する事など出来ない。権利もない。
どちらにしても、卑怯な負け組に違いはないのだ。
そう思い悩みながらも、アサミは貝になる事を選んだのだ。