〜 AVENGE 〜  迎えに来た友達




 アサミが家を飛び出した時を同じく、可奈は、携帯を耳にあてたまま動けないでいた。アサミの声は届くのに、可奈の声は届かなかったのだ。きっと、見えない何かに邪魔されたのだと可奈は失意の表情だった。

 

 その時、可奈の耳に低い声が響く。

 

『邪魔なのはあいつらだ』

 

 耳の奥にこびり付くような不快な声に、可奈は最早、恐怖を通り越し『あいつら』と言う、その言葉を放つ何かに、怒りさえ覚えたほどに血は逆流し始めた。

 

 可奈は携帯を床に思い切り叩きつけながら叫んでいた。

 

「アサミに何かしたら許さないからっ!」

 

 そう言いながら、何度も床に叩き付けた。

 

 その衝撃にピノキオは携帯から弾き飛ばされ、無雑作にゴロゴロと転がって行った。可奈は、それに睨みをきかせている。

 

「さっきから姉ちゃん、何の話しをしてるわけ? まだ夢でも見てんの? アサミって、いつも来てる人でしょ? 見た事無いけど……」

 

 そう言いながら広志は冷蔵庫に手をかけ、開けた。

 

「うわっ!」

 

 その時、広志は心臓が止まるほどの衝撃を受けた。ビクリと体を跳ね上げ、すぐさま硬直する。

 

 冷蔵庫の中に向けられた広志の目線に、鼻から上しかない腐敗した顔が、飛び出した目でギロリと広志を睨んでいたからだ。

 

 広志は「うっ!」と腹の底から込上げてくる胃液を我慢し、手で口を押さえた。そして、思いきり冷蔵庫をドンッと閉め、そこから、それが飛び出してこないように、後ろ手に寄りかかった。ごくりと唾を飲み込んだ広志は、全身が震え、あまりのショックに失禁してしまった。

 

「姉……ちゃん? 何か……いる」

 

 広志は、恐怖に震えた小さな声で呟いた。

 

だが、可奈にはまだ、広志の助けが聞こえてはいない。可奈は、転がった『ピノキオ』を見据えたままだった。

 

 可奈の視線に観念したかのように『ピノキオ』は、ユラリ、と歪んだ手足を持ちあげ、立ちあがった。木には無いしなやかさを持ち、ゆっくりと可奈に近付いて来る。

 

「……やっぱり……」

 

 可奈は呟いた。

 

最早、恐怖より怒りが勝った可奈は、驚きさえしなかった。

 

「姉ちゃん……冷蔵庫に何かいるってばっ!」

 

 広志は涙ながらに訴えて叫んだが、可奈は『ピノキオ』を睨んだままだ。

 

 そんな中、広志は妙な視線を感じ、恐る恐る目線を落した。そして、空洞になっているシンクの下に、膝を抱えて小さくうずくまっている黒い人影を見つけた。恐怖で頭が硬直した広志は、そこから目を離せない。

 

見たくないのに、そう思っているうちに、人影はゆっくりと体を少し這い出させた。

 

「ううっ……」

 

 広志の嗚咽が漏れた。

 

 口から上の顔が無い。 

 

――さっきのヤツの残りだ……。

 

 そう思った広志は強く瞼を閉じた。

 

『おれの顔……出してくれないか〜………』

 

 そう言って広志の足首を、冷ややかな手で掴む。

 

「ひいいいいっ……何なんだよ……気持ちわりぃよぉ〜……」

 

 広志は、情けなく、かすれた声を出した。

 

「そ、そ、そうか。僕まで夢、見てるのかも?」

 

 そう開き直ったように言いながら、震える手をゆっくりと自分の頬に近付け思いきりつねった。

 

「イテッ! 夢じゃないのかよぉ!」

 

 全身に冷や汗を掻きながら、足は動かず逃げる事も出来ない。

 

「姉ちゃん! 姉ちゃん! 姉ちゃんっ!」

 

広志はただ、泣き叫ぶばかりだった。

 

可奈は怯えながらも『ピノキオ』に睨みを利かせたまま立ちあがり、壁に建て掛けられた、広志が昔使っていた金属バットを手にした。

 

「ふざけんなぁ!」

 

 可奈は勢いよくバットを『ピノキオ』に向かって振り下ろした。バットは見事にヒットし、『ピノキオ』は砕け散った。だが、不気味な声は終らなかった。

 

『無駄だよ……可奈とはもう繋がったって言っただろう?』

 

 その声に伴い突然、部屋中の電気がショートしたようにバチバチッと火花を散らし、コードは蛇のようにうねりながら、まるで生きているかのように暴れ出した。

 

かと思うと、壁がグネグネと揺らぎ始める。

 

テレビの画面が突然激しい大きな音と共に粉々に砕け散った。煙のように舞い上がったガラス片で、目を開けていられないほどに曇った部屋の中に、冷たく腐った空気が漂い始める。

 

可奈は、かろうじて開けた片目に、あの時の光景が蘇えった。

 

壁の中に消えたはずの真紀子が、植物の蔓に巻かれた状態で、閉め付けられた体の苦痛に歪めた顔を、のそり、とテレビ画面から覗かせている。

 

やがて真紀子は、ぎこちなく頭を動かし始め、可奈を探している様子だ。その目は、あの時と同じだった。恨めしそうな、あの時と同じ目。

 

 そして、可奈と目が合うと、真紀子の口元はニヤリと上がった。充血し、ひんむいた瞳から、黄色い膿のような液体が垂れ出している。

 

「うっ……」

 

 可奈は吐きそうになった胃と口を押さえながら、逃げ場を探した。と同時に、可奈の目に広志が映る。

 

 顔の無い男にしがみ付かれたまま、広志は涙の溢れる目を思いきり閉じていた。

 

「広志っ!?」

 

 可奈の頭に言葉が過ぎった。

 

『あいつら』

 

 それはアサミだけではない、広志の事も言っていたのだと、可奈は悟った。

 

 フラフラになりながらも、壁伝いに可奈は広志の側に駆け寄り、思いきり手に持ったバットを横振りした。

 

「広志は関係ないでしょ!」

 

 言いざま、ドンッという鈍い音が、可奈の手に伝わる。

 

「うっ」

 

 と、広志の食いしばった歯の隙間から血が滴り落ちた。どこにも男の影はない。可奈は広志の腹にバットを叩き付けていたのだ。

 

「広志!?」

 

 可奈の手からバットが抜け落ちていく。

 

「姉ちゃん……痛いよぉぉ〜……」

 

 そのまま気を失い、倒れかけた広志の体を可奈は支えた。

 

「どうして? どうしてこんな事するのよ! 一体何者なの? 私たちが何したって言うの!?」

 

 姿のとらえられない相手に、取り乱した可奈は怒鳴り散らした。

 

『そいつ……いらないといった……』

 

『可愛くないって馬鹿にした……』

 

『ただの……木だといった……』

 

 どこからともなく木霊する不気味な声に、可奈は怒りを露わにする。

 

「たったそれだけの事で弟を巻き込まないで! 目的は何! いいなさいよ! どうして真紀子やアリサがこんな目に合わなきゃ……っ!」

 

 そう叫び終えるか終えないうちに、ドンッ! という音と共に、天井から何かが可奈の足元に落ちてきた。

 

真紀子だった。

 

曲がるはずの無い関節を、無気味に折り曲げられたような体。うつ伏せの全身を震わせながら、突然コキッと首だけを回した真紀子は、

 

『友達でしょう?』

 

 と、恨めしい目をして言った。

 

「友達なら……こんな事しない! 私は確かにあの時は怯えてた。怖かった。真紀子を見捨てたかもしれない! でも! どうしてあなたがこうなったのか……知りたくて、助けられるものなら、そう思って!」

 

 可奈は泣き叫んで真紀子に訴えた。

 

『……友達でしょう……』

 

 だが、真紀子は言葉を、インプットされた機械ように繰り返し言うだけで、可奈の声など聞くはずもなかった。

 

「真紀子………」

 

 そう呟く可奈の肩越しに、ユラユラと下から這い上がってくるような気配があった。可奈の背中に凄まじい悪寒が走り、同じく緊張も走り抜ける。

 

可奈は、恐る恐る息を飲んだ。

 

両肩に重く、そして冷たく、細い手がかけられる。

 

 次第に前に伸びてくる指先が、可奈の視界の隅に容赦なく入り込んでくる。可奈は震わせた首を横に向け、ゆっくりと振り向いた。

 

 恐怖なのか、哀しみなのか解らない涙に濡れた瞳で、可奈は唇を噛み締め、目を閉じた。

 

 焼け爛れたような頭部に、髪の毛と目玉だけが付いたような顔で、むき出しの歯が笑っているようだった。

 

腐りかけているのか、鼻を突く強烈な異臭に可奈の顔は歪む。

 

そうして、それは言った。

 

『迎えに来たの……』

 

「……アリサ………」

 

 重くかすれた低い声だったが、可奈にはそれがアリサなのだと確信できた。指に見慣れたエメラルドのリングが光っていたからだ。

 

 アリサが前に、誕生石を男に買わせたと自慢していたリング。

 

「アサミ。ごめん、こんな事になるなんてっ。せっかく親友になれたのに……」

 

 悔しそうに、そう言った可奈の目から、涙が枯れる事はなかった。

 

「でも……せめて……」

 

 可奈はそう呟き、腕の中で気を失っている広志に視線を落とした、瞬間だった。

 

 大地を揺るがすようなとてつもない爆音と共に、一瞬にして辺りは眩しい光で包み込まれた。









    









              

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