〜 AVENGE 〜 エピローグ
「和夫。今日の分の薪割り、早よやっとけよ」
奥の襖を開けて入ってきた女の人が言った。世話になっている家人で、どうやら厳つい男の母親らしい。
「ああ」
和夫はそう言ってアサミに見向くと、髭を撫でて笑った。
「ホントに人使い荒いでなぁ、ウチのお袋は。まぁ、ゆっくり休むと良いで、昼飯でも食ってけや」
アサミは会釈を返した。
再会の喜びもつかの間、まだ疲れの見える可奈を気遣い、そっと布団に寝るよう促す。ゆっくりと可奈は目を閉じる。
「ほら、武もボケっとしてないで、しゃっしゃと畑仕事に行け。おなごは私に任せとけばええ」
母親は、色白の男に向かって、しっしと手で払う真似をする。
「へぇへぇ」
武も渋々と部屋を後にしていく。
すると今度は、太郎を見流し、無言の威圧をかけているようだ。どうやら、太郎にも部屋を出ていくよう言っているようだった。
「ほんに気が利かんのぉ、男って奴は」
「え?」
「ほれ、この子の体を拭いてやるんじゃから、さっさと出て行きなされ」
そう言って持っている手桶を見せた母親は、太郎の背中を押し、障子を閉めた。
「あの……」
アサミが言うと、母親が満面の笑顔で振り向いた。そして、手桶に入った手拭いを絞り、可奈の布団を捲った。
「こうやって体を拭いてやるんだよ」
母親は、可奈の首筋に手拭いをあてる。
「まだ弱ってるからね、風呂に入るにも体力がいる。だからって体は清潔に保たにゃならんで、ほれ、あんたも見てないで手伝いなさい。友達なんじゃろ」
アサミは頷くと、言われるがまま、遠慮しがちに可奈の衣服に手をかけた。
可奈は、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。やはり、まだ弱っているらしい。
「……可奈」
こんな状態の可奈が、立って歩けるとは到底思えない。あの幻は、やはり幻であり、可奈本人ではなかった。
「あの、どうして可奈は、ここに?」
アサミの言葉に、母親は手を止めないままに視線だけを送ってきた。
「ほんに不思議でな……あの山の麓に倒れてたんじゃよ」
「一人で?」
「ああ。滅多にこの村の者も入らん山だが、その日は村祭りがあった日でな。とは言っても、お社に旗を立てて酒を飲むだけの静かな祭りじゃがね。そのお社に祀る花は、あの山にしか咲いてなくて、毎年村の若い衆が一人で採りに行くんじゃよ。そこで、この子を見つけたらしい……まぁ和夫じゃったから、ウチに連れて来た」
「あの、なんてお礼を言っていいのか……」
「ええよ、礼なんて……でも、良かったな」
優しい母親の言葉に、アサミは「はい」と答えた。
「でも、それから不思議な事だらけじゃった」
「不思議な事?」
「ああ、この子を見つけた時はほんに弱っててな、でもこの村には医者などおらんで、隣町へ連れて行こうとしたんじゃが、唯一の道が落石で塞がってた。おまけに直したばかりの車さえ動かなかくなった。そんでも、目も覚まさんし、だんだん弱っていくばかりじゃったから、今度は遠回りになるが獣道に沿って医者に来てもらおうと思った……じゃが、今度は電話さえ繋がらん始末じゃったよ」
母親はその時の事を思い出しながら、首を傾げて言った。
「電話がなけりゃ警察にも届けれんし、ほんに困ってな……だからって放っても置けずじゃ」
「色々と、本当にありがとうございます」
アサミは深々と頭を下げた。
「ええって、困った時はお互いさまじゃ……人間は本来、昔からそうしてきたんじゃから、当たり前の事だよ」
そう言って母親は笑った。
可奈の服を整え、母親は手拭いを桶に浸した。そして、ぽつりと漏らす。
「ずっと眠っていたはずのこの子が、昨夜、突然パチリと目を開けてな……」
そう言ってため息をひとつ零した。
「ほんで、暫く天井を見つめたたまま動かんかった。なのに、傍らにいた私と、ふと目があって言ったんじゃ」
「可奈が、何を?」
「友達が来てるから助けて欲しい……とだけ言って、再び目を瞑ったよ」
母親は言いざま、手桶を抱えて立ち上がった。
「半信半疑じゃったが、さっきの、ほれ、武の爺と婆があんたらを見たと言ったんでな」
「だから、私たちを探しに来てくれたんですね」
「そうさ、そうでも無かったら誰もあの山には近付かんからな」
母親はアサミに背を向け、奥の襖へと歩き出した。
「……あの山」
そう言ったアサミの言葉に、母親は振り向かないままに立ち止まる。そして。
「あの山には昔から『もののけ』が住んでおると伝わっておるからな、儀式もせずにあの山に入って帰ってきた者はおらんよ……あんたらが初めてじゃ」
そう言って母親は、後ろ手に襖をぴしゃりと閉めた。
「もののけ……」
アサミはそう呟きながら、お宮の事を思い出したのだろう。ぞくりと背中に走る悪寒に身振りをした。
◇
二人は、意識が戻った可奈の体の回復を待つ間、世話になった家人の手伝いをこなした。不思議な事に、可奈が目を覚ましてから、繋がらなかった電話も繋がるようになったのだ。
アサミは、心配しているだろう両親に連絡を入れると、可奈が見つかった事を話した。
そして、暫く可奈の傍に居たいとアサミは願った。結局のところ、落石が取り除かれるまでは身動きがとれないのだという事もあった。だが、両親は快く了承してくれたのだ。
意識を回復してからと言うもの、蒼白だった顔色もだんだんと良くなり、見る見るうちに可奈は体力を取り戻していった。しかし、あの森でアサミと出会った事は、可奈には記憶がなかった。
あの火災で、爆発が起こってからの全ての記憶が、可奈には抜け落ちていたのだ。
「ごめん、あれからの事、何も思い出せないの」
そう言って可奈は落ち込む。
「大丈夫だよ、別に思い出さなくても、可奈にはこれからがあるじゃない。家族の事は残念だけど……でも、可奈には前向きに生きて欲しいもん」
アサミの言葉に可奈は「そう、だね」と、苦笑いを浮かべた。
「私の……家族……」
火災後の事は思い出せなくても、それ以前の記憶はある。自分の家族が、もうどこにもないのだと知らされると、反発していたにも拘らず、やはり寂しさはあるのだろう。時折、何かを思い出しては泣き伏せる事もあった。
あんなに嫌っていた家族だったが、失って初めて、大切な存在だった事に気付いたのだろう。どうにもならない現実に、誰も何も出来ない。失った時間は取り戻せない。
アサミは、心を落ち着かせるように、静かに可奈の肩に手を乗せ、いつも一緒に泣いてあげる事しかできなかった。
「これから、可奈の悲しみも、寂しさも、辛さも苦しみも……どんな涙も一緒に背負うよ」
「……ありが……」
可奈は言葉を詰まらせた。
そして太郎は、ただ、今は泣く事しかできない二人を静かに見守る事しかできなかった。
一週間経った日だった。
落石が撤去されたその日に、太郎は、和夫に付き添われ、置いてきた車を取りに行った。その頃には、可奈も自力で立ち上がり、歩けるようにまで回復していた。
ようやく、自分たちの場所へ帰る日が来たのだ。
「お世話になりました」
深々と三人は頭を下げ、家人に別れを告げる。そしてアサミは、可奈に肩を貸し車に乗り込んだ。後部座席に、寄り添い座るアサミと可奈。二人は肩を寄せ合い、同じ車窓を眺めた。流れる景色に、おぞましい思い出のある山が遠くなる。
誰もが押し黙った車内。だが、車窓を眺めたまま、アサミがようやく口を開いた。
「私は、可奈が無事でよかった。失わなくてよかった。でも、可奈は家族を失ったんだよね……。でも、これからは私が可奈の家族になりたい」
唐突なアサミの言葉に、可奈は驚き、二人は顔を見合わせた。太郎はルームミラー越しに、ちらりとアサミを見遣る。
「ダメ、かな?」
アサミの言葉に、激しく首を横に振る可奈の目には、既に涙が溢れている。
噛みしめた唇が微かに動き、可奈は遠慮しがちに小さく「……いいの?」と聞いた。その言葉に、アサミは満面の笑顔を返した。
「当たり前じゃん……ウチに来なよ。可奈……うちの家族、うるさいけど」
優しく呟いたアサミの胸に、可奈は顔を埋めた。
◇
それから、アサミの自宅に戻った可奈は、自ら警察に赴いた。可奈を探していたはずの警察だったが、証拠も不十分なために、すぐさま釈放された。
そして、忌まわしい事件から幾日も経って、何事もなかったかのように行方不明の事件に関する世間の関心は薄れていった。次第に、それぞれの日常へと戻っていく。
勿論、アサミの家族は快く可奈を家族として招いてくれた。太郎もようやく仕事に復帰し、いずみの思い出を胸に忙しく働く毎日だ。
事件以来、変わった事と言えば、太郎が頻繁にアサミの家に出入りするようになった事だろうか。付き合い始めた二人の心の距離が縮まっていく。
笑いの飛び交う温かい家族の輪に、可奈も太郎も自分の居場所を見つけたのだ。
それぞれが悲しみを乗り越える日は遠きにしてあらず。それでも、優しさを胸に生きていく事を忘れはしないだろう。
失う前に、大切にしたい心がある事を知った。そうやって、一日一日を大切に刻んで、人生を歩き続ける。
憎しみの裏に隠された、哀しい事実も受け止めて……誰もが幸せを願う。
◇
相変わらず夜になると、人込みと賑やかさが漂う街は変わらない。
その路地の一角に、古びたテーブルが設置されている。そこには、黒装束を身に纏った人物が一人、座っていた。目深にフードを被り、静かに俯く。しかし、その瞳は、行き交う雑踏を上目使いで眺めている。
鈍く光を放つ『占い』と掲げられた小さな卓上ランプの看板に、誰も関心を向けはしなかった。足を止める者もいない。だが、やがて寂しさに心を支配された者が、いつか癒しを求めて吸い寄せられるだろう。
幸せへと導いてくれるはずの、助言を聞きに、人の心が動く。
「あのぉ〜」
そして、小さな声で囁くように一人の女が『占い』の前で足を止めた。黒装束の人物は少しだけ顔を上げ、口端を緩ませる。
「はい? 何かお困りですか?」
女だ。
同じく小さな声で、遠慮しがちに呟く。しかし、足を止めたはずの女は「うっ」と、両手で口を押さえ、そそくさとその場を立ち去った。
理由は、その女の顔だった。
女の顔は生々しく焼け爛れ、見ようにも、まともに見れない程の火傷で覆われている。
声をかける者はいても、その形相に慄き、怖くて近付けない。しかし、なかなか占いに発展しない状況でも、女はいつも笑っている。
「まぁ……いい。また、いつかは釣れるでしょう……」
そう言って女は再び俯く。
「人間は懲りない性分なんだからねぇ……私の傷が癒えぬように、人間の腐った心も癒えるはずがない……人間の心が荒み続ける限り、私の憎しみも消えぬよねぇ……」
女は、くくっと不気味に鼻を鳴らした。
その、おどろおどろしい笑い声は、夜の闇に低く木霊し続ける。
卓上の片隅に置かれた、小さな木彫りの人形の首が、かたり、と動いた。
了
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