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もう少しだけ
あきじ?
須賀野……秋路? 本当に? うそ、信じられない……。
あんなに小さかった秋路が、今、こんなに大きくなって目の前に居るなんて――……。
また頭の中が混乱する。でも、主治医って事は、何もかも把握してるんだよね……ってことは、私が秋路の家族だったって事は知ってるって事?
でも、記憶は、ないのかな?
いろんな事が脳内を駆け巡って、かなりパニックだよ。
どうしよう、何て言えばいいの、何を聞けばいいの。いろんな記憶が渦巻く。
「すみません!」
そうこう思っているうちに、背後から声が聞こえた。
徐に振り向くと、白衣を着た男の人が息を上げて近付いてくる。
「あの!」
「……は、い?」
その人が、私の目の前で立ち止まった。まだ若くて、年も近そう。
「……これ」
そう言いながら差し出された手の中の物を見て、私は目を見開いた。
「あ……」
それは、過去から持ってきた本と、小さな箱。
唐突に、頭の中に風が舞い込んできた感覚に襲われる。
隆哉と最後に向き合った場面が、霞みがかって蘇った。
「すみません、渡すのが遅れてしまって……あなたと同時に過去から送られてきた物です。大事なものなんでしょう?」
男の人は笑って、手渡してくれて、震える手が、それらを受け取った。
忘れていた記憶……大切な思い出……それが一気に脳内に吹き込まれていく。
「あ、ありがとうございます!」
こんなに大切な物を忘れていたなんて……でも、思い出せてよかった。そう思いながら、私の手に帰ってきた本とピアスの入った小さな箱を、そっと胸の中に抱きしめた。
隆哉から借りて返せなかった本、最後に貰ったプレゼント……失くしてしまわなくて、本当に良かった。
「大切なものなんだね」
ふいに、秋路が呟いた。
私は「はい」と、言いながら秋路を見やった。すると、懐かしく温かな、それでいて愛しい想いが込み上げてきた。
そこにあったのは、優しくて、昔と変わらない、笑顔。
小さかった秋路は、よく私に纏わり付いてきて、いつも笑顔を絶やさなかった。甘えん坊だった秋路が、こんなに大きくなってる。これが――……ここが現実なんだ。そう、思い知らされる。
なんだか、嬉しい半面、複雑。そして、少しの違和感。
この小さな引っかかりは何? 曖昧な記憶の中に、ふっと湧き出る喪失感。何かを……まだ、何かを忘れているのかもしれない。でも、思いだそうとすると、頭にチクリと僅かながらの痛みが走る。
秋路だって認識しているのに、どこかでまだ、拭えないのはなぜなんだろう。
ついさっきまでいた世界、別れて数時間しかたっていないのに、物凄く遠い昔の事のように感じるから……だからかもしれない。
でも、秋路や、お父さんやお母さんにしたら、本当に何十年も前の事になるんだ。しかも記憶がないんだから、懐かしいのは私だけ――……。
そう思っていると、秋路が「では」と言って踵を返した。
「あ」
でも、ここに秋路がいるなら、きっと、お父さんとお母さんも近くに居るはずなんだよね……会いたいな。それに、せっかく会えたのに、このまま別れてしまうのは寂しい、そう思った途端、身体が先に動いてた。
「え?」
と秋路は振り向いて、私よりも高くなった目線から見下ろされた。
思わず、私は秋路の服の裾を掴んでいたんだから自分でもびっくり。
「あ……の……」
主治医だって言ってるんだから、明日も会えるって解ってるのに……でも、何かが私を突き動かしたんだと思う。
まだ話したい、なんて迷惑かな。
「その……」
困ったような表情が見て取れる。どうしよう、やっぱり、今日は……。
「少し……話でもする?」
私の言いたい事が解ったのか、秋路は、ふっと口端を上げて、そう言ってくれた。そのまま、秋路の手が、まだ裾を掴んでいる私の手に重なる。
温かい――……思いながら、私はこくりと頷いていた。
少し……うん、少しだけでもいいんだ……。
「では、私はまた後ほど……」
傍らに居た沙織さんが、軽く会釈して秋路に言った。だけど、秋路は素早く私から手を離すと、沙織さんに向き直った。
「いや、いいよ、沙織も同席してて」
「え、でも」
「少しだから、そしたら彼女を部屋に案内して欲しい」
「……はい」
沙織って呼び捨てにするほどだし、彼女、なのかな? うん、居てもおかしくない年だよね……なんて言ったって、今は、私よりも年上だし……ホント、複雑過ぎて困る。
「じゃ、こっちで」
言いながら、秋路と沙織さんが肩を並べて歩き出す。
なんか、お似合い、かも……そう思いながらも、頬が紅潮していくのが解った。
あれ? なんで私が赤くなってんだろ……なに、なんか胸がドキドキしてる? え、なんだろう……?
自分の感じている想いに混乱しながら、前を歩く秋路を見上げた。その横顔が、沙織さんを見て笑ってる。変な感じ……秋路に、彼女? 私の中ではまだ、5歳なのにな……。
大人になった――……当たり前だって言われればそれまでだけど、昨日まで子供だった秋路が、今はすごくいい大人になってるんだもん。
そ、そうだよね、さっきまでは可愛い弟だったわけだし、きっと……親の心境ってやつ? 心配って言うか……盗られたって言うか……。
そこまで考えて私は首を軽く振った。
違う違う、盗られたってのは違うよね……秋路は弟……あ、でも血は繋がってないんだっけ……いやいやだからって、そうじゃないんだってば。大人の秋路にときめいたとか、それはないない。だって、私は隆哉が……好き。
あ、でも――……こっちは血が、繋がってるんだっけ。
「外に出ようか?」
ふいに話しかけられ、慌てた私は「は、はい」と上ずった声を出してしまった。秋路は何気に首を傾げ、また、笑った。
ガラス張りのドアを開けて、外に出る。
遮るもののない澄んだ空気が、深呼吸すると一気に肺に入ってくる。なんて清々しいんだろう。そう感じながら、雲一つない空を仰ぎ見た。
来る時は夜だったけど、今は、昼過ぎかな……太陽があんなに高い所にある。
私は目上に手を翳し、眩しさを遮った。
何も変わらない……ここには過去と同じ空が広がっている。
変わったのは何?
私を取り巻く環境? そう思い、再び秋路を見やった。
やっぱり変な感じ……なんとなく面影があって、秋路だって解るのに……何だろう、何か違う感覚もあるんだもん。
「資料を見たよ、君は俺の家族だったんだね」
「え?」
急に立ち止まり、振り返った秋路が、私をまっすぐに見据えてきた。
「あ……あの」
「過去で……俺の家族だった?」
疑問形って事は、やっぱり秋路は覚えてないってこと。
「あ、はい……そう、です……」
言いながら、私は視線を外した。
なんか、寂しいな。だって「家族だった」って言う過去形もそうだけど、なんか、今は関係ないんだって言われてるみたいで……。
「どうした?」
秋路はそう聞きながら、一歩、二歩と近付いてきた。その横で、沙織さんが、秋路とは逆に、一歩下がる。
「いえ、別に、何でも……」
「何でもないって顔じゃないだろ? 何か不安な事とかあるのか? 聞きたい事でもいい、疑問に思う事でも……今はまだ心にも身体にも普通よりストレスがかかってる時期だ……」
なんか、お医者さんみたい……って、そっか、お医者さんだっけ……だから私を心配してくれてる……家族だった記憶がないんだもん、今の私が秋路と繋がっているのは、ただ、それだけの事なんだ。
「あの……お、お父さんとお母さんは、げ、元気、ですか?」
私は、目の前に立った秋路を見上げて聞いた。
「それは俺の? それとも君の?」
間髪入れずに、秋路は相変わらず優しい笑顔で、私の顔を覗き込むように聞き返してくる。
やだ、なんか調子狂う……こんな大人の秋路にまだ慣れてないんだから、近過ぎだよ。
「あ、それは、その……どっちもですけど、い、今は、その……あ、秋……いや、先生、の」
しどろもどろになりながら、視線を泳がせて精一杯答えてみた。
やだ、更に顔が赤くなってく……秋路は弟なんだよ! なのになんでこんな緊張するかなぁ……こんなとこ隆哉に見られたら……見られたら……?
ああ、それは大丈夫か……今の隆哉に見られても、私は娘なわけで……違う心配はされるだろうけど、嫉妬はされない。
前の隆哉なら? なんて言うかな?
『かぐやに触るの禁止な!』
ふいに蘇るぶつ切り状態の記憶。
そうそう、前はそんな事言ってたっけ……そうだな、私の知ってる隆哉なら……きっと、そう言ってくれるだろうけど……今は――……。
いろんな事を考えていると、目の前でぷっと吹き出す声が聞こえた。
秋路が、くすくすと笑ってる。
な、なんで今、笑われたの?! う、あ、赤くなってるからかな? 変に意識しちゃったとか思われてるのかな。
「な、な、なんですか突然? 私何も言って――……」
「顔が百面相してる」
秋路の言葉に、私は更に紅潮した。
「そ、そそ、そんな事……」
慌てて否定しようにも、そうだったかも知れないと思うと何も言い返せなかった。
恥ずかしい、めちゃくちゃ恥ずかし過ぎる。
秋路は「ごめん、ごめん」と、言いながら、咳払いを一つして答えてくれた。
「俺の親なら、すこぶる元気だよ。お袋なんかいろんな習い事をしてて、毎日が楽しそうだ」
「そう、ですか……元気なら、嬉しい」
そう言うと、今度は真剣な眼差しが私を貫く。
「聞いていい?」
「はい?」
「……俺の事、何て呼んでた?」
「え?」
「俺って、君の弟だったんだよね、確か、5歳までは一緒に住んでたはずだろ?」
「はい……秋路、ですけど」
そう答えると、秋路は「そうか」と言って私から視線を外した。憂いの表情を忍ばせ、誰もいない遠くを見やると、静かな溜息を零した。
ここには、私が存在していたはずなのに、存在しなかった空白の14年間がある。
何から、理解していけばいいだろう。何から、話せばいいんだろう。
「私は、本当に、過去のみんなに忘れられているんですね。先生の名前を聞いて驚いたけど、なんかピンとこないし……」
まだ遠くに眼差しを置く秋路の横顔に、私はひとり言のように呟いていた。すると、秋路がそのままの姿勢で「名前でいい」と、小さな声を漏らした。
「え?」
上手く聞き取れなくて、秋路の顔をじっと見る。
「先生なんて呼ばなくていい、君が呼びなれた名前で呼んでくれても構わない」
「えっと……でも」
困っていると、ようやく秋路は私に視線を戻した。そして、目を細めて言った。
「呼んでみて」
その瞬間、鼓動が高鳴った。
まるで、何かの魔法にでもかけられたように身体が硬直する。
「あの……じゃぁ、あ、秋路……?」
声だけが、弱弱しく飛び出してきた。でも、その言葉を拾った秋路は、更に優しく。
「なに?」
と、微笑んだ。
やだ、どうしよう……なに? このドキドキ感?!
「わ、私の中では、まだ秋路は5歳のままで……」
何言ってんだろ、私、何言って――……。
「君から見て、俺の5歳の時ってどんなだった?」
「も、もう、とにかく野菜が嫌いで、見るのも嫌って感じで……好き嫌いが激しいから、いつまでたっても同級生の子よりも小さくて……牛乳とかも飲めなくて、いつまでたっても甘えん坊で……」
やだ、これじゃ、悪口言ってるみたいじゃん?
「うん、それで?」
「いや、あの、イタズラ好きでね、この前なんかお父さんの靴の裏に接着剤付けて動けなくしたり……」
わぁ、これも良い事じゃなくない? どうしよう、もっと他に秋路の思い出……しかも『この前』じゃないし。
「あ、それ覚えてるかも」
「え? ホント?」
「ああ、あの日は親父が約束破って仕事に行くって言うから」
「そ、そうだったよね」
そういう記憶はあるんだ……でもそこからすっぽり、私だけがいないんだよね。やだ、更に動揺してきた。
「あ、ご、ごめんなさい。何かテンパッちゃって良い事が出て来ない……あ、でもなんだか、頭の回転は速かったって言うか、気は利くって言うか……すごく優しかったし」
目の前の秋路は「いいよ無理しなくて」って言いながら、私の言葉を聞いてくれている。
「本当に優しかったんだよ? あのね、テレビとか見て泣いてたりすると、そっとティッシュを持ってきてくれたり、背中さすってくれたり」
「テレビ見て泣くとか、泣き上戸?」
「いや、本当に感動するテレビでね……って、テレビの話じゃなくて……」
「俺は昔からあまりテレビは見ない方だったから……20年前は、泣くほど良いテレビ番組があったんだね」
「そ。そうよ、20年前は……ね……あ」
そうだった……私がここに居なかったのは14年だけど……私がいた過去はもう20年も前なんだ……それってすごく……長い。
「どうし……」
「ここではもう、何十年も前の事なのに、私には本当に昨日の事で……ううん、さっきまでいた世界で……だから、まだ――……全然」
忘れる事なんか出来なくて。
まだ、大好きで――……会いたくて、会いたくて。
「ごめん、なんか思い出させた……?」
「いえ、大丈夫です」
秋路には会えた……しかも、私の事を、覚えていなくても理解はしてくれてて。それは嬉しい……だけど、隆哉は?
隆哉はもう、私を娘としか思ってくれない。
そう思うと苦しくて……私は、手の中に返ってきたピアスの箱を握り締めた。
どんなに思い出があっても、やっぱり――……寂しい。
そんな悲哀に流されていると、目の前にふわりと風を感じた。私は驚いたように目を見開く。
秋路が、しなやかな指先で、まるで私に触れる事を恐れているように、優しく前髪だけを撫で上げてくれた。
「あ……秋路……だ」
「え?」
「秋路も……いつも私が寂しそうにしてると、そんな風に髪を撫でてくれてたの」
「俺が?」
そう言って、はにかんだ。
「うん。5歳のくせに生意気でしょ? でもホント優しかったんだから」
あの時の秋路も、やっぱり躊躇いがちに慰めてくれていた気がする。『お姉ちゃん、泣かないで』なんて言いながら、自分も涙ぐんでたり……。
そう思いだして、私は秋路の瞳を見詰めた。でも、今の秋路は、笑ってくれてる。
5歳の秋路とは見た目が違っても、秋路は秋路なんだ。何も変わらない、優しい秋路。
指先が、今度はゆっくりと頭の天辺に乗せられて、撫でてくれる。
まだまだ違和感だらけだけど……心は揺れるけど……でも……秋路に優しくされるのは、すごく心地よくて、安心感が湧いてきて、悪くない気がしてきた。
「とにかく今は、ゆっくり休んで。あまり考え過ぎると身体にも良くないから……そろそろ……」
そう言いかけた時だった。