一瞬、時間が止まったのかと思った。振っていた掌がピタリと宙に止まる。
ちょっと待って、今、この人、なんて言った?
これは新手のナンパか、それとも変な勧誘か。そう思っても不思議じゃないじゃない?
今じゃこんなに格好良い人をオトリに使うのね、なんて考えている場合でもなさそうなくらいに、この人の目は真剣だけど、信じられる訳がない。
「い、いきなり何ですか?」
これはもしや、ふざけた公開悪戯かもしれない。どこかに隠しカメラとかあるのかも、そう思って私は辺りを挙動不審に見回した。
こんな悪戯に引っかかる私じゃないわよ。
でも、何もない、誰もいない……どうするこの状況……どうやって乗り切ろう。
「あの、冗談ですよね? 未来からなんて」
この場をどう切り抜けようか悩む。だけど体は正直だ。一気に冷や汗が吹き出し、震えが止まらない。もうここは苦笑いを返すしかないと決め込む。
「な、な、何の収録ですか? 素人相手に……」
「いえ、冗談じゃないですよ。すぐに信じてもらえないかも知れませんが、迷子のあなたを連れ戻しに来たのは事実なんです」
「は? 迷子? 私の家、すぐそこですけど」
「未来では、ごく一部の家庭にはタイムマシンがあるんです」
「私の話聞いてます?」
「今よりも少し未来に、研究の為に過去未来を視察する事が出来るようになる。しかし、事故多発により廃棄決定しました」
「ちょちょちょ、ちょっと待って」
この人ってば人の話聞いてない。タイムマシンって何? 勝手にぺらぺら喋っちゃって。
「あの、だから私の家は……」
「あなたの家は未来にある」
え、なに? 私の家が未来にあるってどういう事? ダメ、上手く話が飲み込めない……いきなりすぎて脳内パニックだよ。
「え、い、や、で、でも……わかん、ない、どういう……」
「その未来では一部の人間の過去改ざんによる世界崩壊が始まった。僕はその修正に当たっています」
「で、ででで、でもそんな事、初めから対策とかなかったんですか?」
って、私ってばこの人の言う事を信じて質問なんかしちゃってるし……ダメダメ乗せられちゃ、これは絶対におかしい状況だっての。
「ありました、しかしそんなものは何の役にも立たなかった」
役に立たなかったって、随分お粗末な対策……いやいやそうじゃなくて……っていうか、この人も真剣に私の質問に答えてるし。
こ、こういう場合は、まず名前くらい名乗りなさいよ、と言いたいけど、ダメ、怖くて言えない。早く逃げなきゃまずい……きっとこの人は頭おかしいんだよ。
「多くの子孫たちが姿を消していきます。政府はこの事態を重く受け止め破壊に踏み切った。でも、未来にはタイムマシンがただ一つ残されています。任務遂行の為の、僕が使っているものだけなのです」
淡々と喋るこの隙に……そう思って私は目の前の人を回避しながら壁伝いに歩き出した。ここは話を聞く振りをしながら……。
「で、でもどうやって破壊をしたの? 既に作られている可能性だってあるんじゃ」
「ええ、勿論既にこの世のどこかで開発は進んでいました。でも、その作りだした人間の特定はできましたから……もう終わりました」
そう言って暗い影が落ちた顔色に、思わず寒気が背中に走った。
終わりました? どういう事……え、えっと。
「ま、まさか……終わったって事はつまり、その……作った人を?」
「ええ、もうこの現世にはいません」
「う、う、うそ、あなたが……?」
「はい、仕方がなかったんです。一人の人間のせいで未来が危うい。だからその人間を抹消……でも大丈夫、その人間に子孫は存在しないから」
子孫が存在しないとか関係ないでしょ。違う違う、そうじゃない、この人、誰かを殺しちゃったって事だよね!? いや、まずいでしょ、こんな話聞いちゃいけないんじゃないの?!
「そ、そう言う問題じゃないんじゃない、かな?」
うわ、思わず冷静に反論しちゃった、気持ちはパニックなのに、まずい……もしかして私も、こ、こ、殺……。
「でも、そのお陰で未来は修復した。勝手なのは解っています。でも一人の人間と何十億もの人間を天秤にかけた時の結果は歴然」
絶対に、この人頭おかしいんだって!
「そしてあなたは最後の時空迷子です。あなたのご両親がずっと探していますよ」
「私の両親は……だから、すぐそこに」
なんだか急に怖くなって、足が竦んで動かない。逃げたいのに、信じちゃいけないってわかってるのに動けない……でも、この人の言う事が本当なら、人を殺してきたって事だよね。ど、どうしよう。
「あなたが最後の一人なんです。迷子を回収できないと時空閉鎖も出来ないままなので」
いいながら、彼は私に手を差し伸べてきた。
拉致される?!
「な、なな、な、何言ってるか全っ然わからないんですけど、け、けけけ、警察呼びますよ!」
死に物狂いでその腕を振り切って叫んだけど、彼は叩かれた手を擦りながら小さくため息を漏らした。
ちょ、何その態度……なんでそんな冷静なのよ!
「では、明日迎えに来ます」
「だからちょっと待って、しかも明日は困る!」
軽く頭を下げて立ち去ろうとした彼の袖口を思わず掴んで制止してしまった。彼は、ゆっくりと私に視線を向けると、今度は重い溜息を落とす。
「強制なので逆らえません。既にあなたの周囲の時空間はプログラムされている。タイムリミットは明日の午後八時です、それまでに……」
「勝手に決めないで!」
思わず叫んでしまった。だって、まったくもって納得出来ない。出来る訳ないじゃん!
「私は明日の夜には拉致されるって事? そんな犯罪を今からやりますって言う馬鹿な人いないでしょ」
「この世界からはあなたの存在も記憶も抹消されますので安心してください」
「だから! さっきから人の話聞いてる? 記憶の末梢って何よ! 私は私よ、どこにも行かないし……そんな嘘に騙されない!」
「騙す気はありません。本当の事ですから」
悲しげな瞳を従えて彼は目を伏せる。そんな表情を見せられるとこっちまで悲しくなってくるのは何でだろう。
「……そんな公開拉致みたいなの、警察に駆け込んだら終わりだよ」
「誰も信じませんよ」
「そうよ、だから私だって信じられる訳ないじゃない!」
そう叫んだ時だった。目の前に彼が人差し指を翳した。
その先に小さな空間が生まれモニターが映し出される。
なに、これ……なんでこんな何もないところに映像が……こんな技術はこの世界にはない。
そこに映し出された映像が本当か嘘かだなんて解らない。でも、彼の行動が映画の中でしか見た事のないもので、だからってすぐに信じられる訳もなく。
「これ、は……?」
「近未来テクノロジー。指先に埋め込まれたマイクロチップで自在に空中映像を操ります。今のところ限られた者にだけ許されたテクノロジーアセスメントの段階です。そして、ここに写っているのは、あなたが迷子になる瞬間。一四年前、悪戯にこの過去に飛ばされた」
全身がわなわなと震え始める。視界全てが色を無くしたように褪せていく。
「こ、ここには好きな人がいるの……離れたくない」
何言ってるんだろう、私はこの人の言う事を既に真に受けているの?
目の前の彼は目を伏せた。
「そう言うと思って何も解らない子供時代に来るはずだった。そして、ご両親に返すつもりだった……でも、エネルギーの残濃度が少なくてこの時代になってしまったんです。あなたの本当のご両親には、十四年間も子供と離れさせてしまう事実を作る事になってしまいますが……」
「そんなの知らない……関係ない……本当に明日、あなたに拉致されるんだったら」
「拉致ではないです」
「この想いだけでもいいの、伝えたい!」
なんかもう、諦めモードのスイッチが押されてる感じだ。嘘なのか、本当なのかもわからない。頭の中は空っぽだし、自分でも何言ってるのかわかんなくなってきた。
でも、想いを伝えたいってのは本当だもん。
「それは……無理なのです……」
「どうして!」
「あなたの好きな人と言うのは……有馬隆哉ですよね」
彼の口から飛び出した名前に、私は思わず息をのんだ。
「え? 何でそれを……」
「これは紛れもない事実ですから言っておきます。あなたは有馬隆哉と高嶺恭の娘です」
――……何、言ってるの……?
なんか、胸を一瞬で貫かれ、空気の流れが止まった気がした。瞬きを忘れた瞳が渇く……何……なんて言った……私が隆哉と恭の……娘?
そう言ったの?
「あなたが帰る事を拒否した場合、二人は結ばれない。そうなればあなたは生まれないのです。どういう事か解りますね?」
私はただ必死に首を横に振る事しか出来なかった。信じたくない。そこまでして私を騙そうとする理由は何なの!
「あなたは当然消えてしまう」
足の力が抜けていく。もう立っている事さえままならない。これは夢……。
「あなただけじゃない、全ての子孫も消える。未来が一番恐れている事が再び起こる」
もう限界。信じたくないのに、体の震えが止まらない。脳内の片隅に刻まれた幼い記憶が、真実を語る口を目の前に覚えているの?
「……ずるいよ」
「え?」
「急に来て『あなたは未来人です』なんておかしい。でも、百歩譲ってこれが現実だとしても、記憶が残らないなら想いだけでも伝えたっていいじゃない……こんなの酷い。そんな簡単に隆哉を諦めろって言うの? ずっと好きだったのよ」
「彼に……想いを告げてしまうと印象が強く残ってしまう。そうなれば隆哉の記憶を消すのは難しい。本来なら出会ってはいけない二人が出会っている。運命の悪戯としか言いようがない。これだけ長い間放置してしまった我々の責任も重大ですが、何とか避けたい」
「もし記憶が残ったら、どうなるの?」
「きっと、あなたを忘れられない隆哉は恭子と結婚しないでしょう。そうなればすぐに、それぞれの存在が消えて行く。それだけです」
「私自身も……消える」
「そうなれば記憶だけを残された隆哉も悲しむ事に……」
何もかも遠のいていく感覚が全身を包み込んでいく。誰かが私の名前を呼んでいる。
彼の言った事の全てを把握できないまま――……私は気を失った。