〜 vol : 1




「お母さん、海へ連れて行ってほしい」

 突然、後方から飛んできた声は少し荒々しく、涙混じりの言葉だった。

 その日は初夏にも関わらず、朝から真夏日に似た日差しに見舞われた昼下がり。今年十八才になる娘の結絵(ゆえ)が、台所で洗い物をしている私に話かけてきた。

 結絵は寂しくなるといつも海に行きたがる。それが、自分のせいであるのはわかっているつもりだ。

「どうした?」

 それでも私は、何も知らない振りをして聞く。

「別に……海が見たくなっただけ」

「そう」

 私も、昔から辛い事や寂しい事が重なって心が不安に押し寄せられる度に、小さかった結絵を連れて、よく海に行っていた。だから、そのクセが結絵にもついたのだろうと思っている。

 海に行って何をするでもない、ただ波を眺めているだけの事だったが、自然と心は落ち付きを取り戻す事が出来た。何もかも綺麗に洗われていくような感覚に、安らぎを感じるのだ。

 私はゆっくり振り返り頷くと、洗い物を早々に切り上げ、適当に水気を振り飛ばした手をエプロンに絡ませる。

 そして、戸棚の横に掛けられた車の鍵を握ると、ガラス戸で仕切られた居間を通り、玄関へと足を向けた。私の後ろを黙ったまま付いて来ている結絵の気配を背中に感じながら、ガレージに止めてある白い軽四の運転席に乗り込んだ。

 そこまではよかったが、いくらガレージの中で日差しをまともに受けていないとはいえ、車中の蒸し風呂状態には気が引け、異常な暑さに私は顔を歪めた。

 だが、結絵はそんな暑さにも文句どころか顔色一つ変えず助手席に座りシートベルトを締めると、そのまま前を見据えて、車が走り出すのを待っているようだった。

 その様子を覗いながら、私もまた無言のままエンジンをかけ、ゆっくりと車道に出て海を目指した。

 車窓からの景色に眉丈山(びじょうざん)の美しい山並みを覗う事が出来る。

 眉丈山は珍しい山で、その頂きは横一直線に連なり悠然としたものだ。その眉丈山に沿い、昔の田園風景などは消え去った町を走り抜ける。

 高校生達が楽しそうな笑顔を振りまきながら歩く姿を横目に見ながら、ふと、隣の結絵を見たものの、相変わらず不機嫌そうな態度のままだった。道行く高校生と同じ年代なのに結絵には活気が全く感じられない。

 その面持ちに私はやり切れない思いを抱えて短い息を一つ吐いた。

 それから車を走らせる事十分程。忙しそうに走る車を掻い潜り、消防署前の四車線の交差点を真っ直ぐに突っ切ると、頭上に有料道路が見えてくる。その下を潜ると町並は一転、広大な海がその姿を現す。

 今なら車で家からはどんなに道が混んでいても、それくらいの時間で着く距離だったけれど、昔は今のように交通状態も良くなかったから、私は自転車で一時間かけてよく来ていたものだった。

 今では自転車にはない車での特典があった。

 例え、泣いた後に腫れた目をしていても、誰かに見られる事なく波打ち際まで車のままで入ることが出来る事だ。

 そして、この千里浜海岸(ちりはま)は私にとって唯一、自分が自分でいられる場所だった。それが結絵にとっても同じ場所になったらしい。

 海岸に着くと、涼を求めて賑わう地元の親子連れや観光客等を避け、あいた砂浜に車を止めた。

 途端に結絵は、私を見る事もなく砂浜に降り靴を履いたまま足首まで波に浸すと、ずっと水平線を眺めながら立ち尽くした。

 真上からの直射に、海面がまるでビーズを散りばめたように煌いている。その眩しさに自分の過去が脳裏をちらつく。

 時折、沖に飛び跳ねる魚を見つけると、心の奥に眠っている想い出を突付かれているようで私の胸は締付けられた。

 結絵の後姿に昔の自分を重ね合わせながら、運転席に座ったままハンドルを抱え込み、同じように静かに海を眺める。

 今日、結絵が海に来たいと言った理由も本当はわかっている。

 結絵は昔から「絵」に興味を持った子だったから、高校も父親の反対を押しきり工業高校のデザイン科に入った。

 母親である私からすれば子供には自由を与えたかった。けれど、実家は老舗の和菓子屋だという事もあり、一人娘の結絵に婿を取らせたいと言うのが男親としての考え方なのだろう。

 時々耳にする「お前は浜村の後継ぎなんだ」という怒鳴り声が、今日も家中に響いていた気がする。

 気がする、とは何とも他人事のような言い草だな、と自分でも笑ってしまうほど情けないと思えた。

 私は、家に人生を縛られる結絵を見るのが辛くて目を背けようとしているのかもしれない。駄目な母親、と自分を責める事は毎日でありながらも、何もしてあげられていない。

 こんな風に言われた通り海に連れて来てあげる事くらいしか出来なかった。

 結絵に対して応援する素直な手を差し伸べられないのだ。









    







                

メッセージも励みにして頑張ります!!  inserted by FC2 system