〜 vol : 10




慌ただしく締められた後部ドアの中に義孝の背中が消え、私の不安な思いを置き去りのまま救急車は走り去っていく。

声をかける事が出来ないまま放心した私は、その場にへなへなと座り込んでしまった。父も頭を抱えはしたものの、呆れたような短い溜め息を吐いただけで、怒りは収まっていないような態度だった。

「紫音を家から一歩も出すな。病院への面会も禁止だ!」

そう母に吐き捨てるように言うと、まるで我侭な子供のように足を踏み鳴らしながら目の前を横切った。父は私を見る事もなく家の中へ入って行ったのだ。

母は私を気遣う様に両脇を優しく抱えて立ち上がらせてくれたが、何も言わず、そっと寄り添って部屋まで付き添ってくれた。

ベッドに私を横にした後、布団をゆっくりとかけてくれる母。

どうして何も教えてくれないの? 

そんな蟠りが膨らんでいく。

小さな声で「もう、今日は休みなさい」と言った母の腕を私は徐に掴むと、緊迫感に押されずっと閉ざしていた口を開いた。

「お母さん、さっき離れで何があったの?」

 しばらく俯いた母だったが、私の掌を腕から離すと、しっかりと両手を握り締めて話し始める。

「お父さんって何でも上から見下したような物の言う方をするような部分があるでしょ? 戻ってきた義孝君を一方的に責め立てたのよ」

「違う、義孝は何も責められるような事はしてない」

「でも、最初は紫音とは何もない関係だと言い張ってた義孝君も、とうとうあなたを愛してるって言ってしまったの」

「え? 義孝が?」

 母は、私の言葉にコクリと頷いた。

 義孝が私の事を……そう思うと今にも胸がはち切れんばかりに軋んだ。

「今日二人が抜け出していた事実よりも、義孝君が使用人の分際で娘を好きになったというのがお父さんには許せなかったのね」

「そんな」

「それにも増して義孝君はあなたと結婚したいとまで言ってしまった。もう、お父さんの怒りも押さえられなくなって、義孝君が紫音をたぶらかしたって思い込んじゃって……もう、そうなると誰も止められなかった。我を忘れて義孝君に殴りかかろうとしたの」

 義孝が私と結婚したいと言ってくれていた。好きだと言ってくれた事を信じてはいたけど、父の怒声を聞くなりどこか逃げ腰なんじゃないかと感じた事は間違いだったのだ。母の言葉が、義孝の想いが本物だったと教えてくれた気がした。もう、既に誰にも止められないほど胸は焦がれ熱くなる。だけど、自然と涙は流れる。

「私……たぶらかされてなんかいない」

「そう……でも、お父さんには大事な娘ですもの」

「大事な娘? 嘘……お父さんは私を浜村の家を守る為の道具としか思ってないよ」

「そんな事ない……子供が可愛いと思わない親なんかいない」

 母は更に強く私の手を握って唇を噛み締めた。

 可愛いと思ってくれているなら、親ならどんな事でも応援するはずなのに、と喉まで出かかった言葉が、熱くなっていく喉を通らず呑みこんでしまう。

 母は、更に優しい眼差しを向けてきた。

「則子さんもそうだったはず……則子さんも大事な息子が殴られるって思って咄嗟に体が動いたんでしょうね、二人の間に割って入った則子さんは、お父さんに初めて反抗した」

「則子さんが……」

「ええ。誰かを好きになる事がそんなに罪な事ですか……って」

 私は震える唇をどうにも抑えきれなくなっていた。あんなに父に忠実で、弱音すらも吐かなかった大人しい則子が歯向ったのだ。それこそ、子供の為なら何でも出来るという則子の気持ちが手に取るように解った。

なのに、父はどうだ。私の事よりも家の事の方が大事だなんて可笑しくて堪らない。

「その時だった、則子さんいきなり胸を押さえて苦しみだして、そのまま倒れてしまったの」

 そう言いながら、母は憂う瞳で私を見つめ、流れる涙を細い指で何度もぬぐってくれた。

「さぁ、今日は何も心配しないで……則子さんもきっと大丈夫だから……ね?」

 そう言い立ち上がると、母は部屋の明かりを消した。部屋から出て行く際、母は少し振り向き呟く。

「紫音……あなたには、辛い恋はしてほしくなかった」

あまりにも小さな声で聞き取りにくかったけど、多分、そんな言葉だったと思う。薄暗い部屋に廊下の明かりを背に受けて立つ母の表情は暗くて見えなかったけれど、どことなく寂しさをかもし出していたように思える。

母が部屋を出てしばらく、私は眠りに付く事が出来なかった。

幸せな時間を共有できた喜び。互いの心を確かめ合った瞬間。結婚したいと父に言ってくれた義孝。そして今が走馬灯のように脳裏を過っていく。

嬉しさに覆いかぶさるように切なさが重なる。不安と悲しみが心を闇にへと誘う。夢のようで夢ではなかった四日間。

「……義孝……」

ふと寂しさに呟いた名前が虚しく部屋の暗闇に飲み込まれ響く。さっきまで隣にいてくれた義孝がいないと思うと、どうしようもなく苦しかった。

「義孝……」

 それでも名前を呼んでしまう。抑えようのない気持ちが止め処なく溢れだす。人を好きになる事が、こんなに苦しい事だったなんて、予想もしていなかった。両思いになれば楽しい時間が待っているのだと信じていた。なのに、この胸の軋みは何だろう。

 片思いではなく、互いの気持ちを確かめ合ったというのに……名前を呼ぶ度に恋しさは増し、息をする事もままならない。

私は、心苦しい中で瞼を開け、薄暗い月明かりに照らされる天井を見つめた。

すると、不意に仕上がった義孝の絵を思い出した。

万が一、今の父にあの絵を見られでもしたら、それこそただでは済まされないと思えた。

例えようのない身震いに襲われた私は慌てて上半身を起こし、自らの肩を抱きすくめる。

もし、あれが見つかれば今度こそ容赦なく父は義孝に襲いかかるかもしれない。それを思うと空恐ろしかった。

私は今まで以上に息を殺し、神経を尖らせ部屋を抜けだすと蔵へと急いだ。

愛と怒りの感情が交差したままの心は凄く苦しかった。きっと義孝は帰って来てくれる、また抱きしめてくれる、そう信じたかった。父のした事は許せない、でも、母を悲しませたくはない。そう思う気持ちが自分の中で揺れ動く事にも腹立たしかった。

いつものように裏木戸をそっと開け蔵にもぐり込むと、すぐさま絵にあのスカーフを巻き付け、更に持ってきたタオルケットを何重にも巻きかぶせた。二人がここにいたのだという痕跡を荒々と片付け終えると、早々に絵を小脇に抱え蔵を後にした。

忍ばせていた息を部屋に来てようやく解放する。大きく揺らぐ肩を落ち着かせると、私は持ちかえった絵を月明かりの中で暫らく眺めた。 根拠はないが、もう二度とこの絵を義孝と見る事が出来ないかもしれない、という感情が湧き上がる。心のどこにも置いておきたくない不安な感情に涙が溢れて止まらない。

持つ手は震え、義孝の温もりが残る絵に涙が滴る。

父に取られるくらいなら、ずっと私が隠しておこう、そう思い誰にも見つからないよう行動に移した。

押入れの上にある屋根裏への小さな天井板を外すと、大切な紫のスカーフをかけたまま、私は切ない気持ちと共に一心に絵を押し込んだ。

義孝と私の愛を誰にも汚されたくない。

いつか、堂々とみんなに二人を認めてもらえる日が来るまで、これは私と義孝の秘密になる。

きっと義孝は迎えに来てくれる。その日まで大切に私が仕舞っておかなくてはならないと思った。

そう……義孝が私を迎えに来てくれる日まで…………。








    







                

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