〜 vol : 11




 それからというもの、私は塾と学校の行き来以外に家から出してもらえず、季節は秋を迎えた。

 父は浜村に働く若い職人に暇を与えては私の監視をさせているから、則子さんがどこの病院に入院しているのかもわからず日々を過ごしている。この時既に、父との会話もなくなっていた。しようとしなかったし、父も私を避けるような態度だったから、すれ違う日々だった。

 寂しいとは思わない、ただ、義孝の事ばかりが気になって、父の背中を見つめる事が多くなった気がする。

 出るのは言葉ではなく、溜息ばかりだ。

 それでも、義孝がいつか会いに来てくれると信じていた。私はいつも窓の外を眺めて、いつかのように義孝が窓の下で笑顔を向けてくれる日を待った。

 秋風が漂う空には、赤い身を自在に操る集団が飛び交う。何度、私もこの空を飛んで義孝に会いに行けたらと願った事か……叶わぬ思いに、やはり毎日が溜息の連続。

 義孝、今どこにいるの、則子さんは大丈夫なの。そんな言葉を吐き出す事も出来ず、心の底に溜まっていく。

 秋も終り掛けた頃だっただろうか、ふと、離れが綺麗に片付けられている事に私は気付いた。

 そして、年配の新しい使用人が離れを使っている。

 誰?

 私は動揺を隠しきれず、訳がわからないまま胸騒ぎを押さえて、店先で客を送り出す母に問い詰めた。

「誰かが離れを利用してる!」

「そうね」

「新しい人を雇ったの?」

「ええ」

「どうして! 義孝が帰って来たらどうするの?!」

 私を見る事もなく淡々と話す母は、客が見えなくなったのを見計らって振り向き、いつかのように寂しげにポツリと言った。

「義孝君はもう……いないのよ」

「う……そ……」

 わななく唇を抑えるように私は唇を噛んだ。

「嘘じゃない。あの親子は、もうここには帰ってこない」

 初めは母が、何を言っているのか理解できなかった。でも、だんだんと心が光を遮断し、暗い闇の中へと引きずり込まれていく感覚に襲われた。

 絶望感とはこういう感じか……私は信じられない現実から背くように、固く瞼を閉じた。

 いつ、どうやって自分の部屋に戻ってきたかさえ解らなかった。気がつけば、私はベッドに横になり、呆然と冷たい天井を見つめていた。

 どうすればいいのか、もう解らない。このまま、私は義孝を待っていてもいいの?

 そんな疑問ばかりが心に渦巻く。どんなに信じようとしても、母の言葉が邪魔をする。おぼろに聞こえた母の言葉はこうだった。

 則子は良い方向に回復せず、痺れを切らした父は、今まで働いてくれた分と手切れ金だと言うお金を渡した。

 結局、父は則子を解雇したのだ。

 それに付け加えるように父は則子さんに「義孝が紫音の近くにいては困る」とも言い、則子の遠い親戚がいるという北海道の病院に、誰に相談もなく勝手に手続きを済ませ、転院させたらしい。義孝は則子だけを一人で行かせる事も出来ず、一緒に北海道へと行ってしまったのだと……。

 私はそれを聞いて腸が煮え繰り返るというのを初めて体験した。どうにも居た堪れなくなり、すぐさま父の元へ走り責め立てた。

「お父さん、どう言う事? 説明してよっ!」

 ちょうど昼休みを終え、仕事場に戻ろうとしていた父の袖口を私は廊下で強く引っ張り怒鳴った。形振りなど構っていられない。他の従業員がどんな視線を向け様とも怯みはしなかった。

 でも、それは父も同じ事だった。

「何の事だ?」

 とぼけたような言い草に、開いた口が塞がらなかった。

「知ってるくせに……義孝の事よ!」

「ああ、彼の事か?」

 わざとらしく思い出したような口調で言ったと思った瞬間、父は私の両肩を掴むと、ギュッと握り締めた。

 視線は真っ直ぐに私の目を見つめていた。

「いいか? 紫音。彼の事はもう忘れなさい」

「忘れられるわけないじゃないっ! 私達は愛し合ってたんだよ? 私達を引き裂くような真似はお父さんだからって許せないっ!」

「愛なんて言葉を子供が軽々しく口にするもんじゃない。お前はまだ十五だろ? 愛の何がわかるっていうんだ? 彼だってそうだ。まだ若いから遊びとの区別が出来ないんだよ」

「そんな事ないっ!」

「これからじゃないか」

「義孝のいないこれからなんて意味ないっ!」

 一歩も引かない私には何を言っても無駄だと感じたのか、父はゆっくりと肩から腕を離した。

「もう仕事に戻らなきゃいけないんだ」

 そう言って父は私に背中を向けた。

 逃げる気なの?!

 そう思った私には、納得のいく余地など微塵もなかった。

 好きだと言って何が悪い。父だって母を愛したから結婚したはずだ。でも、こんな父の態度を見ていては、浜村の看板が欲しくて結婚したのかとも疑う。

 恋愛に年なんて関係ない、そう思う私は間違っているの?

「私! きっと義孝を探すわよっ!」

 その言葉に一瞬だが父はピクリと肩を震わせた。立ち止まった父の表情は見なくてもわかる、背中の威圧から伝わってくる。

 どうしようもなく怒っている、そう感じた時だ。

「言っとくが……あいつはお前を捨てたんだぞ」

 振り向く事なくポツリと言った父の言葉に、思わず「えっ?」と私は聞き返した。

「お母さんからどう聞いているのかは知らんが、確かに俺は金を渡した。それも半端じゃない額だ。でもそれは、今まで働いてくれた則子さんへの気持ちを込めた謝礼と、おまけに治療費と入院費だ。それに北海道に親戚がいるからそっちに転院させて欲しいと則子さん自身が言ってきた事なんだよ。それも世話した。何が悪い? 俺は頼まれた事をしたまでだ」

「うそ……でも……」

「結局、最後は金だったんだよ。その証拠に、あの日以来あいつはお前の所に来たか?」

「それは……」

 私の声を聞くなり、父は振りかえった。その表情は想像とは異なり、眉を潜め、酷く辛い悲しみに満ちているように感じた。何もかもが、痛く胸の奥まで突き刺さる。

「来ないだろう? 結局はお前より金だったんだよ。そんな奴に大事な一人娘をやれるかってんだ」

「違う……義孝はそんな人じゃないよ」

 私は後ずさりしながら否定した。

「そう思いたければ思えばいい。でも現に俺の手から金を持って姿を消したのはあいつだ。今、北海道の病院に問い合わせたところで、あの親子はいないだろうな……お前は騙されたんだよ」

「違うっ!」

「もういい……この話は金輪際なしだ……いいな!」

 父は勝手に自分の言葉に終止符を打つと、仕事場へと消えて行った。

「嘘……全部、嘘なんだから……」

 その答えがどこにあるのかもわからないままに、私は父の背中を追いかける事はなかった。

 それからの記憶は曖昧で、いつの間にか部屋にいた今に至る。

「……義孝」

 漏れる声が辛く、喉を突き刺すように通り過ぎていく。

 心の中で父を何度も否定し続けた。そうしていないと、自分が解らなくなる。

 いや、解らなくなる自分の気持ちが解らない。

 義孝が私を「裏切った」という父の言葉が引っ掛って離れない。それでも、私は心のどこかで義孝を待っていたかった。

「違う……違うよ……」

 何度も言っては流れる涙が止められなくなった。

 そう、違う……逃げているのは父ではなく私なのかもしれない。たった言葉一つ聞いただけで、心が揺らいでしまう私の気持ち。

 なんて浅はかで醜くて、悲しい。

 好きだという心の隅に、少しでも疑った自分がいるのだから。

「ごめん、義孝……」

 このままじゃダメなんだ、私が疑ったら義孝を好きになった自分さえも否定する事になる。義孝が好きだと言ってくれた言葉が霞んでしまう。

 互いの気持ちを確かめ合った夜が、幻になる。涙でぼやけて見えなくなる。

 そう思うと、無性に悲しみに打ちひしがられる心があった。

「好きになった事、後悔なんかしたくない」

 私は、そう、自分に誓い、再び義孝を信じて待つ道を選んだ。

 やるべき方向が見つかった今、納得のいかない私は、やはり真実が知りたくて毎日のように父に問いただしていた。

 だけど、父は義孝に対する話は聞く耳持たずで、結局は一人で泣き喚いていただけに終る事になった。

 どうしても父の話を信じられなくて、それからは当然のように家族を避け、ましてや浜村の店先にさえ一歩も足を踏み入れなくなっていた。

 時々、人の気配がしない時を見計らっては、押入れを開けてあの絵を眺めていた。

 けれども、無情に季節は過ぎ去り、私の心の中以外で誰も、義孝の事を思い出す者はいなくなっていた。

 私から義孝を奪った父でさえも、いつのまにか義孝の事を忘れていただろう。








    







               

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