〜 vol :12
父が何を考えているのかわからないままに、私は淡々とした生活を送り、いつのまにか高校を卒業していた。勿論、父には製菓専門の学校をと促されたが、私は断固として行かなかった。
浜村を継ぐ気は更々なかったし、家に残る気もなかった私は、短大生活のほとんどの時間を、バイトに注ぎ込んだといっても過言ではない。
父を避ける為だけに浜村の店先にも近付かず、バイトと言っては家を離れていた。
父に反するように、私の心から義孝は絶対に離れていかない。それどころか、日増しに恋しく、愛おしくなっていくばかりだ。
逢いたい……ただそればかりを思っていた。
短大を卒業間近に控えた頃でも、やはり、私と父の関係は変わらなかった。
『バイトは家ですればいいじゃない』
と、母に言われたこともあったが、それもきっと父に言われたからだろうと思う。私は父との会話どころか、目を合わす事もなかったのだから。それでも、母には社会勉強だと言い訳をした。それで誰もが納得したかどうかは知らないけど、とにかく私は浜村との接触を避けていたと思う。
どうしても知られたくなかった。
バイトをしているのは、実際は義孝に逢いに行く為の資金だったからだ。こんな事を知られたら、父の事だ、きっとバイト先まで乗り込んできて辞めさせられるに違いない。そして、貯めた資金も必ず没収される。それどころか、家から一歩も出してもらえなくなるだろう。
そこまで父が執着するのは、私ではなく浜村だ。どうしても守ろうとする気持ちなど、私には到底わからない。いや、わかりたくない。
父が私の存在を知るのは、いつも母や従業員を介しての接触だけ。何も知らなくていい。知られたくない。
こんな親子の在り方は間違っているのかもしれない。それでも私の中で、こうなったのは父のせいなのだと、責める一方だったと思う。
それからもずっと、頑なに浜村の家も父も否定し続けて生きていた。和菓子の「和」の事柄にも触れず、父の全てを否定し続けた。
短大では母にまで内緒でデザインコースの選択さえしていた。いつか義孝に会う日が来たら、今度は一緒に並んで絵を描こうと自らに誓っていたから……。
卒業したら家を出る決心も揺らがない。浜村には未練もない。失うものもない。だから、すぐさま北海道へ行って愛する義孝を探そうと決めていた。
だが、そんなある日、母が沈痛な面持ちで部屋に入って来たかと思うと「ちょっと下に下りて来なさい」と静かに言った。
「いやよ」
「紫音……」
「だってお父さんがいるんでしょ。私は何も話す事ない」
「いいから来なさい」
母がそこまで強く言ったのは初めてだったかもしれない。
私は嫌々ながらも腰を上げた。
この際、もうすぐ卒業だし、家を出る決意があると伝えるチャンスかもしれない、と思いつつ母の後について居間に入った。
するとそこには案の定、ずっと無視し続けた父がいた。その横には見知らぬ男性が肩を並べている。
おかしい。そう感じたのは、父が今までにない程の笑顔で私を居間に迎え入れたからだ。
なにかある。そう勘繰っても私の気持ちは変わらないからいい、そう安易に考えた。
そして、機嫌の悪い私はすぐさま視線を反らし、父の前ではなく、見知らぬ男性の向かいに腰を降ろした。父の姿を視界にすら入れたくなくて体を少し斜めに座る。
それでも容赦なく視界に入り込んでくる男性は、私より少し年上だろうか、真新しいスーツを着こなして背筋をピンと伸ばし、緊張した面持ちで私を見据えている。
きっと私は思いきりの仏頂面をして、失礼かもとは思ったけど、父の手前では直しも出来ない。でも、愛想を振りまく必要もない。そんな私の様子を気にしながらも母は、機嫌のいい父の後ろに回ると遠慮しがちに両膝をついた。
そんな光景を見計らって私は余所余所しく、
「何か用でしょうか?」
と父に聞いた。
すると、父は私の冷たさを無視するかのように、横に座る男の人ににこやかに話し掛けた。今まで、私にだってそんな笑顔を見せた事なかったくせに……。
「これが娘の紫音です」
「こんにちは……はじめまして……」
男性は顔色一つ変えず、私を見据えたままに答えている。
それから、やっと父は私を見て言った。
「紫音。お前もそろそろ卒業だろう。店に顔も出さないお前だが、表に立ちさえすれば愛想の一つでも振り撒けるだろうし、この辺で彼と二人で浜村の看板を背負ってみないか」
「は?」
突然の話に、私の頭の中は真っ白になっていった。
「何言って……」
浜村の看板をこの人と……目の前にいる見知らぬ人と?
と言う事は、私に初めて会ったこの男性と結婚しろって事?
冗談じゃない。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
と、私が口を挟もうとすると、父は勝手にまた喋りだす始末だ。
「武雄君の実家も昔ながらの製菓店でな、お父さん同士も昔からの友人なんだよ。それで、お前も年頃だし良い人はいないもんかと相談したら、そこは男ばっかり三人だから一人養子にくれるってんだ。こんな良い話はないだろう? 紫音」
「だからって勝手に結婚なんて」
「それに武雄君は、もう五年もお父さんの元で職人の腕を磨いてたんだよな?」
「はいっ」
なんでそんなに明るく返事が出来るの?
私はそう訝しく眉を寄せ、父を睨んだ。
私だけじゃなく、この人だって知らない人と結婚なんか出来る訳ないじゃない。なのに、なんで……こんな嬉しそうに笑っているんだろう。
「そら見ろ紫音。お前の結婚相手にピッタリじゃないか」
「ピッタリだなんて決め付けないでよ」
「これで浜村の家も安泰だな」
そう言って父は私の話を聞こうともせず、ましてや顔さえまともに見てはくれなかった。まるで、今まで無視していた私に対しての嫌がらせのように、父からの視線も絡ませてはくれなかった。
本当に呆れて物も言えないとはこの事なんだとつくづく思った。
「勝手すぎ……一人で言ってれば?」
私はそう言ってテーブルを強く両手で叩き腰を上げた。
どうせ、私自身結婚を拒んでいればいい事なんだ、と半分諦めでこの時はそれ以上何も言わずに居間を後にした。
なのに、父は承諾したものだと思い込み、私の知らない所で着々と結婚の段取りを進めていたなんて夢にも思わなかった。そりゃ、はっきりと返事をしなかった私が悪かったかもしれない。でも、それ以上に父の方が非常識だと思う。
事実、父が諦めたのだと思い込んでいた私が後に短大を卒業して、まだ日も浅い頃だ。義孝のもとに行く準備を着々と進めていた私の耳に、信じられない一言が飛び込んできた。
『結婚式は来週』
突然聞かされた言葉に、私は当然面食らった。
武雄に会った日から、私は結婚の話をしてこなかったくせに。
父は何を考え、何を思って娘の幸せを感じているのか、さっぱりわからない。
そして当然、結婚式が来週だと聞かされた私が黙っていられるはずもなく、その事実を知らせに来た母を真っ先に詰った。
「何を考えてるの? 今時、親の決めた結婚相手と結婚する娘なんていないよ!」
「紫音……」
「私は嫌っ! 結婚なんてしない! お母さんもお母さんよ、私が可愛かったらどうしてお父さんを止めてくれないの?!」
「紫音……それは」
「勝手に結婚決めるなんて最低!」
「聞いて、紫音。お父さんきっと焦ってたのよ……」
「焦るってなによっ! 私そんな歳でもないし、まだ二十歳だよ? なのに、お父さんが結婚に焦るっておかしいでしょっ?」
「そうじゃない、そうじゃないの……お父さんは…………もう長くないのよ」
長くない……何が……。そう言いたくても、母の思いつめた表情に心が引いた。何も声にならずに飲み込まれていく感情。怒りが頂点に達していた私は、母の言葉を理解するのに暫らくかかったと思う。
「……えっ……どう言う意味?」
戸惑う私に、母は申し訳なさそうに話し始めた。
「お父さんには言うなって言われてたんだけど……お父さんね、癌なのよ……」
「えっ?」
癌……ってなに、どういう事?
さらに混乱が加速していく。
「もうじき、和菓子も作れなくなるって焦ってたのね……」
「ちょ、ちょっと待ってよ、結婚の話もそうだけど、癌だって事も初耳……」
「口止めされてたから」
だからってそんな大事な事を隠して、何の意味があるのかわからない。それより、それが私の邪魔をする理由だったなら、尚更腹が立つ。
「でも、だからって私に結婚させるのは結局、浜村の看板の方が娘の幸せよりも大事って事だよね……何の相談もなく、こんなこじれた時に言い出すなんて……ずるい……」
どんどん自分が醜くなっていくのがわかる。
父の病気を知っても、体の事より、自分を思ってくれない事を優先させてしまうなんて。
思えば、自分勝手は私の方なのかもしれない……それでも、義孝を諦める理由になるのだろうかと自問する。
「……」
母は何も言い返してはこなかった。
そうかもしれないとも、そうじゃないとも母は言ってくれず、私はすごく悲しくなった。
暫らく、私たちの間に重い沈黙が流れた。
そして、結婚の事は勿論許せない事だったけれども、それにも増して母の辛そうな顔、父がもう長くはないという現実に私は自然に涙を流していたのだ。
どんなに卑劣で憎たらしい父でも、その涙が、私にはたった一人の父なのだと知らしめた。
幼い頃は可愛がってくれた父も、私の思い出の中には溢れているのは確かだった。父が私に望んでいる事、その最後にしてやれる親孝行が、意に添わない結婚だなんてやり切れない。けれど、これから私が出て行った後に、病床に伏せる父の姿を思うと、もっと心は痛かった。
私は浜村の家に生まれ、浜村の家で育ち、そして浜村の家の為に結婚するしかないのかと、最早この時に心は諦めていたのかもしれない。
いつしか……私の責める相手が変わっていた。
義孝……どうして私を置いていったの? どうして逢いに来てくれないの? どうして、迎えに来てくれないの?
どうして……私を好きだと言ったの?
募り過ぎた想いが心に溢れて零れていく。掬いあげようにも、両手には抱えきれない。満ち過ぎた愛が流されていく。心の隙間から、零れ落ちていく。時間に身を任せて、流され続けた道に跡を残していく。
一度でもよかった。
たった一度、逢いに来てくれるだけでよかった。
義孝が待っていろと言ってくれれば、私の心がどんなに溢れても我慢できたのに。
溢れる想いを抱えて歩けたのに……。
そんな思いを胸に秘めながらも……気が付けば私は綺麗な打掛に袖を通していた。
そう……鮮やかな綺麗な紫色の振袖。
最後の最後に、これだけは譲れなかった。
周りは自身の名前に因んで選んだのだと思っていただろうけれど内心は違う。せめて、義孝が愛した一番好きだった色を私は着たかった。
それが、私の父に対する最後の反発だったのかもしれない。逢いに来てくれなかった義孝に対する反発。
遊びなんかじゃない、私は本気だった。本気で義孝を愛していたのだ……と。
それも今となっては虚しい抵抗に過ぎないけれど……私は、武雄の妻になった。
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