〜 vol : 13




 癌だと聞かされた父の病勢は、決して良いとは言えなかったが、何とかこの五年を生きている。

 そんな父の病名は前立腺がんで、私自身に知識が乏しかった為、手術すれば治ると安易に考えていた。でも、主治医の話では父の場合、リンパ節や他の臓器にも転移が見られる段階らしく、おまけに若くないとの事もあり、前立腺全摘除術は行われなかった。その代り、内分泌療法に併用して、放射線療法という医療が施された。

 前立腺がんは、他の癌に比べて進行も遅く、生存率も高いらしい。かといってゼロではないのだから、安心できる範囲ではない。

 私の事など思ってくれないあんな父でも、不安になるのだから不思議なものだ。

 そして今、骨にも転移したと知った。

 それでも明るく入院生活を楽しんでいるようにも見える。既に先の短い生を満喫する事によって恐怖から逃れようと必死なのかもしれない。

 ここまで来ると、私にすれば何だか騙された気分だった。

 早く死んでほしいと言う訳ではない。ただ、癌と聞いて動揺したのは事実で、もう会えなくなるのだと思うと、本当に悲しくなったから……だから最後に父の望みを、と思ったのだ。

 心のどこかに、父が生きている間は武雄との生活を維持していればいいと考えていたと思う。そして、もしも父が私を解放してくれた時、浜村から完全に離れられると思っていた。

 愚かにも、父も私自身も、悲劇のヒロインにでもなった気でいたのかと感じる。

 そんな父が最近よく言う。

 『孫はまだか』と。

 いい加減うんざりで、聞き飽きた台詞だった。前向きに癌と戦っていた父には目標があったのだ。まず一つ目は私の結婚。あの時、強引に進められた不本意な結婚だ。それがいまでも続いているのは、正しい選択だったと父は思っているかもしれない。

 母は、私が結婚してからは、父の表情が生き生きとしているという。癌だと知った時は、それはもうこの上ない落ち込みようだったらしい。

 なのに、私が結婚をした途端に、病気と向き合うようになったというのだ。

 でもそれは、娘が結婚して幸せになるという思いではなく、浜村が安泰だという思いだったに違いない。

 その父が、今度は更に目標にしたのが『孫』だった。

「孫の顔を見るまでは死ねないぞ」

 と、父は病室のベッドで毎日のように呟くが、私には子供を産む気はなかった。

「はいはい」

 そう言って、いつもはぐらかしていたのだ。そんな素っ気ない返事に、父はいつもムッとする。

「お前たち、ちゃんと夜の方は……」

「ちょっと、いくらなんでも親だからって聞いていい事と悪い事あるでしょ」

 私は父の洗濯物を整理しながら、不機嫌に言い返した。すると父は申し訳なさそうに「ああ、すまん」と、謝る。

 でも、その申し訳なさは私にではなく、武雄に向けてだと思うのは、捻くれているだろうか。

 私は黙々と父の身の回りを整理するだけだ。昔ほどではないけど、父を多少なり避けている。現に、会話はあっても視線が絡む事はほとんどないのだから。

「あ、母さんは?」

 父は、そんな私の態度に馴れたように振る舞う。テレビのリモコンを弄り、スイッチを入れる。たいして観たい番組もないくせに、暇を持て余しているようだ。

「今、先生の所に行ってる」

「何で?」

 互いに顔は全く見ない。

「この先の治療方針とか決めるって言ってたけど……何?」

「いや、別に」

 整理を終え、汚物の入った紙袋を手にすると、私はようやく父を見つめた。でも、父の視線はテレビ画面に向かっている。

「私、店があるから帰るけど」

「ああ」

「何か、今度持ってきてほしいものある?」

「いや」

 私は短く溜息を落としながら「そう」とだけ言うと、病室を出ようとドアに向かった。その背後で、微かな声が漏れる。

「紫音、お前……」

「え?」

 私はいかにも迷惑そうに振り向いた。だが、そこにはやはりテレビを見続ける父がいた。

「いや、別に……なんでもない……もうすぐ正月だし、武雄君も忙しくなるかな、と思ってな」

 そう言って口元が寂しげに綻んだ気がした。でも、ここでも父の心配は武雄なのだ。

「そうね、でも父さんは職場に立つのはまだ無理でしょ……じゃぁ帰るから……」

 私はいつものように、やる事だけをやり終えると、こうして何事もなかったように病室を後にする。淡々と過ごし、名残惜しむような仕草をみせたりしない。自分らしくいられない時間を消してしまいたくなる事に、心が空っぽなのだと気付く。

 そして、外に出れば雪が降り出していた。しんしんと降り積もる雪を踏みしめ、車に乗り込むと、暫く呆然とハンドルを握ったまま動けなくなった。

 病院に来るのは好きじゃない。このまま帰るのも好きじゃない。私が行きたい場所は……そう考えながら、私は動き出す。

 いつも病院を出ると必ず海に行ってしまう。

 海は、一年中その姿を変えない。ただいつも引いては押し寄せる波だけがある。変わるのは情景と季節。

 広大な海を目の前にしていると、嫌な自分も、ここにいる自分も忘れられる。あるのは、脳裏に焼きついた思い出だけだった。

 思い出の中に浸る瞬間、私は胸が締め付けられる思いだった。目を閉じれば、今にも目の前にあの日の義孝が浮かぶ。

 逢えない分が恋しくて、想いが募る。そして、高鳴る。

 でも、現実に目を向けた途端に、抜け殻の自分に戻る事を強いられる。

 それでも、この穏やかな海の時間がある限り、私は私でいられるのだと安心するのだと思う。私の心だけは変わっていないという安心。

 家に帰ると、必ず合わす顔がある。自営の悪いところは、朝から晩まで同じ屋根の下に一緒だという事だ。これが好きな人ならば報われるのだろうけど、私はそうじゃない。

 もう五年も一緒にいるというのに、まだ慣れない。私は海へ行って気持ちが穏やかな時には、お昼には帰らないようにしていた。無駄な気を使わなくて済む。

 職人である武雄は昼時以外、職場から出てくる事がない。

 なのに、今日に限って私の足が、居間の入り口で止まった。

「た、ただいま」

 武雄がなぜか居間にいる。背中を向けて新聞を広げてはいるが、私は驚いた。

「ああ、お帰り」

 振り向く事もない武雄は、父に似て無愛想だった。あまり会話をして楽しいと思った事もない。ただ、淡々と過ごす日々に刺激すらなかった。

 これで、もう少し話が上手くて会話も弾めば、私は武雄を好きになっただろうか。

 そう考えて、心を溶かそうと思った日もあるけど、答えが導かれることはなかった。

「お義父さん、元気だった?」

「え、あ、うん……」

 私は隠し切れていない動揺を避けるように、居間を突っ切り台所へと向かった。

「また言われなかった?」

「何を?」

「……子供」

 一瞬、言葉を失い、どんな返事を返せばいいのか分からなかった。

「俺も、ここ最近休みに病院行くと必ず言われるから……孫はまだかって」

 いつもは無口な武雄が、今日は喋る。

「……そう」

 気にしない振りをしながら、賄いを食べ終えた食器が並ぶシンクに水を流す。打ち付けられる水流にも増して、鼓動が早くなっていくのがわかった。

 武雄もきっと子供が欲しいのだと思う。でも、この五年間、それを許さなかったのは私だ。セックスがなかった訳じゃない。ただ、子供ができやすい日を、嘘を吐いてまで避けてきたのだ。

 それを、武雄も勘づいているのだろうかと思うと少し怖い。

「明日も言われそうだな」

 震える手で洗い物をしながら「仕事は?」と、話をすり替えようと必死だった。

「ああ、昼入るのが遅かったから……明日は得意先のイベントでの注文があるんだ。昼納期だし、それが終わったら一緒にお義父さんの病院に……」

 そこまで言って武雄の言葉が止まった。動く気配がする。立ち上がった武雄は、ゆっくりと私に近付いてくる。

 そして……私を包み込むように背後から抱き締めた。

「ちょ、何?」

 振り払おうとする私の力を抑え込むように、武雄は更に力強く抱きしめる。

「さっき、紫音が帰ってくる少し前に電話があった」

「誰、から」

「お義母さん……先生の話じゃ、お義父さんの腎臓にも転移が見つかったらしいって……」

「転移?」

 そう聞く私への返事は、武雄の静かな頷きだった。

「転移なら今までもあったし、何度も乗り切ってきたし」

「お義父さん、もう体力ないって……だから、少しでも早く喜んでもらえるように、幸せな時を長く過ごしてもらえるように、俺たちも頑張って子供を作ろう」

 そう呟きざま、武雄は勢いよく私を振り向かせると唇を塞いだ。静かに、ゆっくりと……だけど、拒む私の唇を割り、無理やり入ってこようとする。

「やめて」

 私はそれが嫌で、思わず突き放した。武雄は寂しげに眉根を寄せる。

「こ、子供ってそんな、物を作るみたいに作る物じゃないし……あ、それに、だ、誰かに見られたら、嫌だし……」

「……じゃ、俺、今日は夜遅くなると思うから……明日一緒に行こう」

 そう言って武雄は、私に背を向けて職場へ向かった。

 返事も聞かないままなのが武雄だった。そんなところも父と重なる。受け入れられない一つなのかもしれない。

  店が休みの時には、武雄は一人で父の見舞いに行くくせに。いくら父の病状が最悪でも、こんな事していいはずない……。

 こんな事……?

 私は、無意識のうちに手の甲で、濡れた唇を拭っていた。

 夫婦なのだから当たり前の行為のはずなのに、拒否する方がおかしいのかもしれない。でも……私は受け入れる事が出来ない。いつもセックスの後には必ず風呂に入る。体中が擦り切れてしまう程に洗ってしまう。

 夫婦だから仕方ない。

 そう自分に言い聞かせて……だけど、もう何も解決しない疑問に疲れていた。

「……痛っ……」

  今度もまた、体同様擦り切れる程に何度も何度も、私は唇を拭っていた。そのうちに歯列に当たった唇が切れたのか、手の甲には微かだが血が滲んでいる。









    







               

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