〜 vol :15
どうしようもない想いが込み上げてくるのがわかる。
鼓動は加速したままで、大人しくなってはくれない。義孝との距離があるにもかかわらず、愛しさが増すこの音が、今にも伝わってしまいそうで怖くて動けない。
だんだん義孝が私に近付いて来る。待ち焦がれた温もりが、すぐ目の前にある。
義孝は、ごく僅かな距離を置いて立ち止まると、哀しそうな目で見つめてきた。
お願い、そんな目で見ないで……息が止まりそうになる。
すると、微かに震えながら、義孝の唇が動いた。
「俺は、母さんが倒れた日から、何度も紫音のお父さんに会いに行った」
「え?」
私は驚きの余り息をのみ、目を見開いた。
あの日から、義孝は浜村に来ていないと思っていたのに、父に会いに来ていたなどは初耳だった。
静かに言った義孝の言葉を疑うように、私は眉をひそめた。
違う……そうじゃない。言葉を疑っているんじゃない。ただ、なぜ私ではなく父なのか、悔しいのはそこだと思う。
どうして、そう聞き返そうにも、熱くなる喉を声が通ってはくれなかった。その熱さに反して、冷たい唇を噛締めるのが精いっぱいで、崩れてしまいそう。
義孝が、ギュッと両拳を握り、言葉を繋ぐ。
「俺は願ったんだ……紫音と一緒になりたいと……隠れてでも会いに行くのは簡単だと思った。でも、どうしても認めて欲しくて……これ以上、紫音を苦しめたくなかったから」
「苦しめる……?」
「ああ、誰にも咎められる事無く正々堂々と向き合いたかった。だから何度もお願いしたんだ」
「……そんな……」
落胆のため息が、冷たい空間に混ざり合って、切ない色に変わっていく。冷え切った頬が、後悔の涙で濡れていく。
私は苦しくなんかなかった。どんな状況でも義孝の傍にいれたら、それでよかったのに……会えない方が苦しかったよ。
言いたくても言えない言葉がもどかしく喉に絡まる。それが義孝を責める事になると思ったから。
義孝は何も悪くない。
あの時、父の監視など無視して、義孝の元へ行っていたら変わったのかもしれない。強引に父を説得していれば……もっと。
でも、勇気がなかったのは私だ。結局、今になって思い知らされる。義孝はずっと必死に父と向き合っていたのに、私は何もしなかった。結局は父の言いなりだった。
悔やんでも悔やみきれない。過去の弱い私を心が責める。
「北海道へ行くことが決まってからは、俺はずっと浜村へ行っていた」
「……ずっと?」
「ああ、毎日通った。もう、どうしても認めてくれないなら、一目だけでも紫音に会いたいと願ったけど……一度も会わせてはもらえなかったな。出来れば結婚して、一緒に北海道へ行きたいと言ってたから、そのまま居なくなると思われたのかもしれない」
その方がどんなに良かったか、そう叫びたい気持ちは、やはり義孝を責める事になる。
私は、自分を擁護してばかりだ。自分では何一つ行動していないのに、義孝がさらってくれなかった事ばかりを責めている気がする。
噛みしめる唇に血が滲む。
後悔の味が、とてつもなく、苦い。
次第に項垂れた私に、義孝は少しだけ近付く。雪を踏みしめる軋んだ音が、痛く突き刺さるように感じた。
「何もかもお父さんは聞き入れてはくれなかった。でもあの日、お父さんは約束してくれたんだ」
「あの日?」
私は俯いたまま呟いた。
「北海道へ飛立つ日だった。最後に一目だけでもと願っていた俺の為に、紫音を空港へ連れてきてくれると……約束してくれた」
「空港へ……私が……?」
思わず顔をあげた私に、義孝は小さく頷いて見せた。
「うそ……」
次第に目の前が真っ白になっていった。
思いがけない義孝の言葉が、心の深い底まで沈んでいく。鉛のように重く圧し掛かるその感覚が苦しくてたまらない。
その苦しさに耐えかねて、何を言っているのか解らない程に、遠くなっていく義孝の声。
違う……あの頃に、父が言っていた話が全然違う。
何もかもが違う。
浜村に来てくれていたなんて事は、勿論知らなかった。
空港まで会いに来てほしいなんて事も……聞いた事もない。
でも今更、義孝が嘘を吐く理由もない。
私の脳裏に渦巻く思考が、破壊される寸前だ。
「でも、紫音。君は現れなかった。そして、それが君の答えなのだと俺は思ったんだ」
私はハッとして、一気に現実に引き戻された気がした。
「嘘……知らない……本当に何も知らない……そんなの聞いてなかった」
私は義孝の言葉に愕然とした。更に涙は怒涛のように溢れ出る。体の底から突き上げるように、感情が流れ出ていく。
それを見て義孝は少し俯き、悔しそうに大きなため息をついた。
「初めは、紫音を恨んだ。筋違いだと思ったけど、俺を好きだと言ってくれた言葉が冷やかしだったのかと……でも、思い直したんだ。会わせてもくれなかったんだ、きっと、紫音に話は告げられていないんだろうって後になって考えた。だから、いつかきっと、もう少し大人になったら迎えに来ようって自分に誓った。紫音は待ってくれている……そう信じて、日々を過ごしていたんだ」
再び上げた視線が、私を痛く貫いて来る。
「でも……来てくれなかったじゃない……」
この期に及んで責めるように、私が震えながらにそう言うと、義孝は悲しげに笑った。
そして、ゆっくりと視線を足元へと落としていく。
「来たよ……俺、迎えに来た」
「嘘っ?!」
そう叫んだと同時に、私は義孝の胸に思わずしがみ付いた。そして、義孝を見上げた。
「嘘じゃないっ!」
義孝は叫びざま辛そうに目を瞑ると、顔を横に反らした。そのまま、浅はかにも抱きしめてくれると思った。
でも義孝は、衣服を強く掴んだ私の手をそっと握ると、触れ合った体温を遠ざけ、背を向け呟いた。
「あの日、俺は来たんだ」
どくん、と鼓動が一鳴り弾き出された。
「あの、日?」
私は鼓動を抑えながら聞き返した。
義孝の背中が、小刻みに震えている。
「俺の大好きな紫が……君に、とても似合っていた日だった」
その瞬間、私は居た堪れない罪悪感に苛まれたのは言うまでもない。
結婚式の日だ。
そう考えると、心を抉られる思いだった。
あの日、義孝は私を見ていた。どこかで私を……胸がどんどん締付けられ、息もできなくなっていく。
自身の胸倉を掴み、必死に嗚咽が漏れるのを我慢した。それでも抑えきれず、掌を宛がう。
あの日……一番、見てほしくなかった日が鮮明に蘇る。
「ごめんなさっ……でも……でも仕方なかったの」
私は俯き、まだ言い訳のように小さく呟いていた。
「あの日から、紫は……俺の一番嫌いな色になったよ」
そして、義孝もまた、寂しそうに言った。
どれだけの時間、義孝の背中を見つめたまま、そうしていただろう。
たぶん、そんなに沈黙は長くなかったと思う。でも、その短い時間が、とてつもなく長く感じるほどに、私の心は後悔という二文字で埋め尽くされていた。
凍てつく大きな結晶が、暗い空から隙間なく舞い降りてくる。悲しみを背負ったそれは、まるで慰めるように優しく義孝の肩に降り積もっていく。
寂しそうな義孝の背中。
何度も焦がれた温もり。
そう思うと、私の中で何かが弾けるように、眠っていた感情に火がついた気がした。
瞬間、制御しきれない私の体が、いつのまにか義孝の背中に寄り添い、頬を寄せていた。
私は、まるで後悔の文字を消すように、義孝に縋ったのかもしれない。冷たい頬に、懐かしい温もりが伝わる。そのまま私は、両手を義孝の前に回した。
義孝も最初は驚いて体を硬直させたけれど、すぐにも受け入れてくれたのか、あの頃のように優しく手を握ってくれた。
すると、その手の甲に、熱い滴が一つ、また一つと落ちているのを感じた。
「それでも諦めきれなかった俺は……毎年のように出稼ぎに来てた……紫音は元気だろうか、幸せだろうかと想って。でも、会う勇気はなかった」
義孝は、私の手を更に強く握りしめた。
「俺が現れることで、紫音に不快な思いをさせてしまうんじゃないかと怖かった。紫音は他の男を選んだ、結婚したんだと、何度自分に言い聞かせても……それでも俺はここに来てしまう。嫌われてもいい、一目だけでもいい、そう思いながら。少しでも近くにいたく……」
そう言って義孝は言葉を詰まらせた。
そんな義孝の想いは、私の愛しさも同じく強くさせ、更に抱しめる腕に力がこもった。
そうする事で私は、義孝の中に募った、今までの不安を拭い去る事が少しでも出来るような気がした。だけど、本当は自分の為かもしれない。
遊びじゃなかった本気の愛を、もう一度この手に感じたかったのかもしれない。他の人を選んだ訳じゃないと、伝えたかったのかもしれない。
「義孝……」
私は、ずっと閉じ込めていた名前を呼んだ。
その時、助手席に乗せた武雄が寝返りをうった拍子に車が揺れると、思わず義孝から体を離してしまった。
ゆっくりと武雄を見遣る。
そうだ、私は今、この人の妻なんだ。そう思うと、やり切れない思いばかりが募っていく。
義孝は、ゆっくりと私に振り向いた。
「紫音……俺は、今も変わらない」
「え?」
「君への想いは、一秒毎に大きくなっていくんだ」
でも、今の私には何も言ってあげられなかった。
私だって、まだ……そう言いたくても、どうしてもこれ以上の行動には移れなかった。
そう、弱い人間。
「裏切ったのは私……待っていてあげられなかったのは、私なの」
そう言って、私は小走りで運転席に回った。ドアをあけ、想いを断ち切るように車に乗り込んだ。
でも、心が全然ついてきてくれない。
体は離れようと動くのに、私の心がまだ、義孝の背中に置いてけぼりなのだ。
ずっと一緒にいたい、このまま離れたくないと心が泣いている。
それでも、私はそんな想いを無理やり引き連れ、エンジンをかけた。
ふと横を見ると、義孝は私を追いかけ、運転席側の窓に手を宛がっていた。
窓を開けたい。でもきっと、ここをあけてしまったら終わりだ。
私はもう、戻れなくなる。
そう考え躊躇っていると、義孝の唇が微かに動いた。何かを言っている。私の心に呼びかけている。そう思うも、私は視線を逸らし、車をゆっくりと後進させた。
義孝が、大きく一歩後ろに退く。
そのまま私は、愛しい人を置き去りにしたまま道路に出た。そして、強く唇を噛みしめた。
どんなに涙を我慢しようにもできない。だって、私の瞳はまだ、サイドミラーに映る義孝を追っている。
「ごめんなさい」
義孝の気持は嬉しい。でも応えられない。
そんな私の横で、武雄は静かに寝息を立てている。どうしようもない苛立ちが募る。
この人さえいなかったら……そう、いつの間にか、そんな醜い心が蝕み、芽生えていた。
メッセージも励みにして頑張ります!!