〜 vol :18




 気持ちがまだ互いの心にあるのだと知ったあの日から、再び私は義孝と、昔のように人目を忍んで会うようになっていた。何かにつけて夜に家を開ける事が多くなっていったのだ。

 昔の自分を思い出すように、そして、会えなかった空白を埋めるように。

 あの頃の愛を全て、時間を全て取り戻したい一心だった。不安など欠片も沸いてこない。

 毎日が同じ事の繰り返しで、面白みもない、愛もない結婚生活に疲れていたのだから、義孝との時間は新鮮で楽しかった。全てを投げ出してしまいたいと思っていた。

 決まって場所はいつも海。

 海の近く高台に、義孝の勤める会社の寮があるらしく、しかも冬という事もあり人気もほとんどない為、会うにはもってこいの場所だった。

 私が高台に向かって車のライトを照らす。何度かパッシングする事で、義孝は私が海にいる事を知る。

 それからというもの、義孝は海を眺める事が多くなったと言ってはにかんでいる。

 世間体にはいけない事だとわかっていても、どうにも押さえ様のないこの気持ちに、もう嘘がつけない。

 自分なりに、その気持ちの中で助かっていたのは、私達夫婦に子供がいない、という事だと思う。

 子供だった頃の私と義孝の恋が、この再会で更に燃え上がった。 

 そして、もう幼くはない大人同士の恋愛。決して火遊びではない、と心で確かめ合った二人がいるだけで十分幸せだと感じる事が出来ている。

 だが、そうそういつまでも世間の目をごまかし続けながら不信がられずにいられる訳もなかった。

 それが証拠に、いつもなら言葉少ない武雄でも、時折口に出すようになったのだから。

 私が風呂から上がってくる頃には、武雄は既に布団の中で眠っている、というのが当たり前になっていた。求められない事に心底ほっとしている自分がいたのだ。

 なのに、義孝に会うようになって、横になりながらも武雄は私が部屋に戻ってくるのを待っているようだ。何かしらの変化に気付いていたのかもしれない。

 それでも、私は白を切る事に慣れていた。

   今日も、私が襖を開けるなりベッドから起き上がると、珍しく話しかけてきた。

 今までは少なかった会話をしようとする。

「お前……最近、夜に出て行く事が多くなったんじゃないか?」

 当然、私はいつもの武雄ではない事に驚きもしたが、いつかは聞いてくるだろうという覚悟も出来ていたせいで、取り乱しはしなかった。

「そう?」

 言いながら私は鏡台に向かい、いつものように素知らぬ顔で髪を梳かしながら武雄に背を向けた。

 だからと言ってまっさらな平常心ではない。鏡越しにでも、さすがに武雄を見ることが出来なかった。この緊迫しきった状況に、反らした視線に絡みはしてこないものの、背中から感じる武雄の視線に、体中が締め付けられる思いだった。

 私はゆっくりと息を吐き出すと、口を開いた。

「どうしようもない男に捕まった友達が結婚とかの話で相談してくる事が多くなっただけで……もちろんウチに来てもらってもいいけど、でもそんな話、あなたは聞きたくないでしょ? だから私が足を運んであげているだけよ」

 そう言って誤魔化すと、武雄は渋々といった様子で、唸りに似た返事をした。

 現に結婚を控えた友達がいる事を武雄も知っているから何も言えないのだ。しかも、一、二度にしか会ったことのない武雄にとっては、知らない人同然。連絡して確認することも難しいはずだ。

 それに、朝早くから職場で仕込みをする武雄にとって、夜出歩く事はまったくと言っていいほどない。出ると言えば、あの飲み屋ばかりで行動範囲も狭い。だから、私がどこに居ようとわかるはずもない事を知っている。

 と言うよりも、武雄は浜村の家と結婚したのだと思っているから、当然、私の行動など関心がないに等しいものだった。

 なのに、その武雄が聞いてきた事に、武雄が不思議に思い始めたのだから周りが何も言わない訳がない、そう思った。

 それでも、負い目など私にはない。私は心に正直に生きているだけなんだ、と自分に言い聞かせていた。だからといって、いつまでも続けられる関係でもない、いくら人目を忍んでと言っても、誰かに見られる可能性だってあるのだから心は常に緊張し疲れていたのは事実。

「なぁ、子供の事……どうするんだよ」

 大きなため息を吐き出しながら、久しぶりに武雄がその話題を口にした。正直、義孝の事で頭がいっぱいで忘れていた。

「そうね……」

「いくらなんでもお義母さんもおかしいと思ってるぞ。もう五カ月になるはずなのに、お前のお腹が出てないんじゃないかって心配してた」

 武雄の口から出てくる心配は、いつも父か母の事だ。私を心配する事などない。

「解ってる……そろそろ隠しきれないだろうし……流産でもしたって言っとくわ」

「そんな簡単に、お前」

 武雄の声にいら立った私は、手に持っていた櫛を荒々しく叩き置いた。

「だって仕方ないじゃない、子供なんていないんだもの。ただ、お父さんが元気になってくれたいいなって思って吐いた嘘だったし、現にそれ聞いたお父さんの病気が進行しなくなってるし」

 今度は武雄が、珍しく声を荒げて立ち上がった。

「だから簡単に言うなって言ってんだろ!」

 いつにない武雄の剣幕に、私はピクリと肩を上げ振り向いた。そこには、怒りに満ちた表情を浮かべる武雄がいた。

「な……何よ」

 武雄はゆっくりと近付いてくる。

「それだけで、その嘘だけでお義父さんは元気になったんだ。流産したなんて聞いたら一気に悪化するのは目に見えてるだろ」

 そう言って、強く私の両肩を突か掴む。

「痛い、離して」

 でも、更にその手の力は増した。

「流産したって言ってもいい、でもちゃんとそこから救いあげてあげる言葉も必要だろ」

「何、言ってんの?」

 武雄の顔が近く、キスを求め近付く。

「もう一度、妊娠したって言うんだ」

「え?」

「流産したけど、その後にまたちゃんと子供が出来たって言ってあげるんだよ」

 私は、思いもよらない言葉に眉を顰めた。

 簡単に出来ないと知っている。だから尚更、武雄の言葉が信じられない。しかも『言ってあげる』って何?

 私なんか二の次で、大切なのは父と母だと認めているようなものだ。

 私の気持なんかお構いなし。

「いや」

 そう呟いて、私は武雄の唇から顔を背けた。

 武雄は更にギュッと力を込め、肩に食い込む指が痛い。

 そう思うのも束の間、武雄は勢い良く私の着衣の前を剥ぎ取りあけた。露わになった胸を、武雄は強く揉みしだく。

「何するの?!!」

 動揺した私はすかさず肌蹴た衣服を元に戻すと、立ち上がって武雄から離れようとした。だが、武雄に腕を掴まれ、そのままベッドに押し倒された。

「いや! やめてよ!」

 どんなに叫んでも武雄は強引な行為を止めようとはしない。冷たい唇が首筋を這い、次第に下へと降りていく。

 とてつもない苦痛に、顔を歪めた私は抵抗し、武雄を体から離そうと必死だった。

「お願い! やめて!」

 涙交じりの声を聞いても、武雄は強要し続ける。

「うるさい! 夫婦なんだからいいだろ!」

 そう叫んだなりだ。乾いた音が響き渡る。

 武雄が、私に馬乗りになったまま頬を打ったのだ。

 信じられない行動に、目を見開いて驚いた私の涙が溢れた。

 でも、武雄はその涙を見ても、頬を叩いても、行為を止めはしなかった。こんな屈辱は初めてだった。

 どうにもならない脱力感に襲われ、私は武雄に身を任せたが、何がどうなって最後を迎えたのか記憶にすら残らなかった。

 気付いた時には、既に私は裸のままベッドに横たわり、天井を見上げていた。

 すでに武雄の姿はない。

 何かあるとすぐに出かける場所へ行ってしまったのだ。

 武雄の言葉だけが、朦朧と脳裏を過っていく。

『簡単に子供が出来るとは思ってない、だから今度の休みはお前を連れて病院へ行く』

 そんな言葉だったと思う。そして、背中を向けたまま続けられた言葉に愕然としたのを思い出した。

『もう後はないと思ったから、俺の精子を元気なものだけ凍結してもらった……だから、お前には人工授精を受けてもらうから、そのつもりでいろ』

 そう言ったのだ。

 武雄は夫婦で取り組む問題だと言ったはずなのに、私の気持ちばかりが無視されるのが現状だった。なんて勝手な行動。私の中で、武雄に対する不信感が一層増したことになる。

「……いやだ」

 遅いと解っている言葉を、私は呟いていた。



     ◇



 出て行った武雄の帰りは絶対に遅い。

 そう確信した私は、行くつもりではなかった今日、義孝の元へと向かった。

 すでに時間は遅い。義孝が起きて待ってくれている確率はまずない。でも、どうしても家には居たくなかった。

 いつものように私は、義孝の住む寮に向かってライトを照らした。

 ハンドルを抱え込んだまま待つ間、虚ろな瞳がまだ濡れている。

 私は、義孝に会ってから、まだ直接肌を合わせた事はなかった。抱いてほしいと願っても、義孝は優しく包みこんでくれるだけで、抱こうとはしなかった。

 もどかしい布切れが隔てたまま。

 義孝の中でも、やはり私の結婚が壁になっていたのかもしれない。

 でも、心だけでいい、と言ってくれていた。その気持ちが嬉しくて、大切にしてくれていると知っているからこそ、私は尚更、武雄が許せなかった。

 許されない感情を抱いているのは私の方なのに、解っていても責めてしまう。

 それに加え、義孝がここに居られるのは後数日という苛立ちが募っていたのだと思う。時間が無くなれば無くなるほどに愛しさは増していくばかりで、私が浜村を顧みる事など、ほとんどない。

 だから、浜村の為に子供を身ごもるなど、絶対に嫌だった。

 もう隠れて会うのは精神的に辛い、いっそこのまま浜村を捨てて義孝に着いて行こうか、などと考えるようにもなっていた。

   ふと、コツンと窓を叩く音が耳に届く。思わず俯いていた視線を上げると、そこには義孝がいた。

「紫音」

 そう呼ばれると同時だった。私は車を降り、義孝の胸に飛び込んでいた。その胸の中で、ただ引いては寄せる波の音が、落着きを取り戻させてくれる。

 浜村では感じる事の出来ない、安心。

「どうした?」

 優しく義孝の指が髪を撫でる。

 何も言えず、私はただ温かな胸に顔を埋めた。

「泣いて、るのか?」

 小刻みに震える肩を掴み、そう言って両手が頬に滑り込んでくる。そして、救い上げるように私を見つめた。

 赤くなった瞳を見て、義孝はそっと瞼に唇を宛がう。

 なんて、優しいキスだろう。

 自然と私の心が満たされていく。

 抱いてほしい、意思に関係なく汚れた体を、義孝の温もりで綺麗に洗って欲しい。そう思うも、なかなか声に出せない。

 穏やかな時間だけでもいい。そう感じさせてくれるのに、私の欲が顔を出す。

 何もかも一つになりたいという欲が……。

「義孝……」

 だけど、その呟きは唇で優しく塞がれた。

 再会した頃よりも、波はだんだん高さを失っていた。それが意味するものを知っている。だから苦しさが息を詰める。

 焦りが、浜村への憎悪に変わる。

 桜の花がつぼみを膨らませ、春の風が私達の周りを駆け抜ける季節だ。次第にここにも人が増えていくだろう。

「明後日……北海道に帰るんだ」

 義孝が静かに呟いた。

「え?」

 再会して五ヶ月、武雄との平凡以下の毎日よりも義孝と重ねる時間は短くても、確実に、ここには愛があって充実していた。

 心は常に満たされていた。

 それがもうすぐ終る?

 あっと言う間の幸せだったけど、絶対に失いたくない、私がそう強く思った瞬間、義孝の胸にしがみ付いた私は「いやだ」と囁いていた。

 一日だって長過ぎるのに、半年もまた会えないなんて辛すぎる。しかも、もう余裕などない。この上、子供まで出来てしまったら、本当に何もかも引き裂かれてしまいそうで怖かった。

 きっと私はまた流される。どんなに拒んでも、浜村に折れてしまう。そんな気がした。

 そんな感情をぶつけるように、私はきつく義孝を抱きしめたまま答えを待った。

「俺だって嫌だ……やっと紫音との愛を取り戻せたのに、このまま別れるなんて……でも……」

 その言葉が嬉しかった。同じ気持ちが涙を誘う。

「俺……」

 私を包み込む義孝の腕が強くなる。苦しいほどにきつく締め上げられる胸が、心の底に蹲っていた答えを明確に浮上させた。

 そのまま義孝を見上げた私は、潤んだ瞳で心をぶつけた。

「私も一緒に連れて行って……」  義孝もまた、その言葉を覚悟していたかのように、真剣な眼差しを私に向けてくれた。

 愛が注ぎこまれていく。

 その目は「いいのか?」と言っている気がする。

 そして、何も言わず義孝は、私を再び強く抱しめてくれた。甘く、切ない吐息を漏らし「愛している」と声が響く。

 それが二人の答え。

 私は小さく頷いた。

 何もいらない、義孝さえ傍に居てくれればそれでいい。私の心は既に決まっている。

 義孝に再会したあの日から、私は義孝に必ずついて行く事になる……そう感じていた。



 幼い頃に望んだ夢。



 私は愛を選んだ。








    







               

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