〜 vol :19




 武雄はすでに職場、母も店先で商品の陳列をしている。誰も私が今、この浜村を出て行こうとしているなど気付きもしない。それだけ、私という存在の薄さを思い知り、苦笑いが零れた。 

 梅の木にウグイスが羽を休め、さえずる。いつも耳にしていた心地いい鳴き声を、同じ場所でもう聞く事はないだろう。

 春は別れの季節だと、よく言ったものだ。私も、形は違えど大きな別れを経験する事になった。

 家族との別離、家からの逃避。

 私は荷物を抱え、玄関に立っていた。 

 ふと振り返っても、そこには苦い思い出が残る光景があるだけだった。何も未練などない。それが、唯一の救いなのかもしれない。

 誰もが結婚という転機に家を出るのだ。私もそうだと考えればいい。ただ、二度と戻っては来ないだろう事実が違うだけ。

 心の中は、鳥がさえずるように、穏やかだった。

 そして私は玄関を開けた。

 義孝の元へ行ける。これからは、夢にまで見た二人の未来が待っている。

 そう思うと、そこには弾む心があった。

 見慣れた風景が、いつもよりも新鮮に映るのはそのせいだろう。

「あら、浜村さんとこの紫音ちゃんじゃないの?」

 バスを待っている時だった。不意に、店の常連である近所のおばさんが話しかけてきた。

 思わず鼓動が一鳴り、息を飲んで私は顔を上げた。

「え、ええ」

 さりげなく笑顔を作る。

「こんな時間にどこ行くの? 店は手伝わなくていいの?」

「大丈夫です、私はいつも父の世話をしに行くので、店は母に任せてありますから」

 そう言うと、おばさんは私の手元に視線を移した。ああ、と納得したように何度か頷いている。

「そう言えばそうだったね、大変な時期だけど頑張ってね」

 おばさんはそのまま、何の疑問も持たずに、あっさりと私の言葉を鵜呑みにしてくれたらしい。

 私はホッと胸を撫で下ろした。

 誰かに聞かれたら、そう考えて言い訳は作っていた。誰にも不審がられずに、切り抜ける方法。初めて、私にとって父の存在が役に立ったように思える。

 なんて皮肉だろうと、私はフッと笑みを零した。

 それでも、義孝が待っている駅に辿り着くまで不安がなかったとは言えない。

 義孝の姿を確認するまでは、また置いて行かれるのではないかという不安があったのは確かだった。

 優しさから、やっぱり家族を捨てるもんじゃないと言われたらどうしよう、という思いが不安を掻き立てた。

 そう考えだしたら、車窓など気にする余裕もなく、駅に着くなり、私はバスを降りると荷物を抱えて走った。

 必死に義孝を探す。決して広くはない駅内のはずなのに、この日ばかりはとてつもない広さを感じた。

 義孝……義孝……。

 どこにも姿を見つけられず、私は時計を見遣った。

 約束の時間には、まだ早い。それでも私の不安は、この目に義孝を移さなければ消えなかった。

 どうしよう、鼓動が早過ぎて苦しい……義孝早く来て、私の不安をかき消して。

 胸に手を宛がい、気持ちを落ち着かせるように深呼吸しながらホームに佇んだ。

 通勤客も、通学生もいない時間に、閑散とした駅内。沸々と湧き上がる不安。寂しさの中にポツンと一人取り残されたような気がした。

「紫音」

 その声に思い切りよく振り向いた私は、既に涙を浮かべていた。

 義孝を見つけた瞬間、我慢していた涙が溢れたのだ。

 思わず荷物を手放し、義孝に抱きつく。

「……よかった」

 感触が伝わる事に、私は心底安堵した。

「ほんとに……来てくれたんだ」

 不安を抱えていたのは同じだった事に気付く。

「ほんとに」

 そう言って、義孝は私を抱きしめてくれた。

 小さな声で「いいのか?」と聞く声に、私は頷きを返す。

 ようやく辿り着いた夢だ。簡単に手放す訳にはいかない。決心を露わにするように、私は義孝を真っ直ぐに見据える。

「義孝だけ、傍にいてくれたら、それだけでいい」



     ◇



 私が、こつ然と姿を消した後の浜村の事は、当然ながら知らない。それどころか、心の隅にさえ気にも留めなかった程だ。

 理由も告げず、ただ、私の判を押した紙切れを一枚、部屋の鏡台の上に置いてきただけ。荷物も片手で軽く持てる程度に詰めてきただけだった。ほとんど身一つで、私は義孝に付いてきた。

 それから向かった場所は北海道だった。

 暫くは義孝が世話になっていた農場で住み込みはさせてもらったけど、いつまでも居る訳にはいかなかった。

 どこからか義孝の存在が明らかになって、連れ戻される事を恐れていた。そんな不安が私にあるのだと知った義孝は、農場を離れ、道内をあちこちと転々とするようになった。

 でも、義孝の理由は私を気遣ってか、転々とする理由がそれだとは言わなかった。

「俺、もう一度、絵を描きたいんだ」

 そう言って再び筆を持つことを選んだ義孝は、いろんな景色を描きたいと言った。そんな優しさに触れ、私の想いは募るばかりだった。

 決して萎える事のない感情だった。日増しに好きになっていくのが分るほどに、私の全てが、義孝で埋め尽くされていく。

 浜村の家を離れて一年半、やがて私達は北端に近い漁師町に落ちつく事となった。

 再びやってくる冬も間近に、肌が切り裂かれるような気温とは裏腹、小さな町の人達はとても気さくで、温かい心で私達を迎え入れてくれた。

 誰も、詮索してくる人などいない。陰口もたたかない。ただただ明るい漁師町だった。

 それでも、絵だけでは到底食べていけるはずもなく、そこで義孝も下働きとして船に乗り、私は加工場で働いた。

 義孝の乗る船は、主にホッケ漁だった。そして私は、そのホッケをいろんな形に加工する。

 加工場の人たちはほとんどが女の人で、それぞれの旦那さんは勿論、漁師だった。慣れない仕事で不安もあったけれど、そこは誰もが丁寧に教えてくれた。接し方も親切で、私が溶け込むのに、さほどの時間はかからなかった。

 だが、シケも多くなり船にもあまり乗れなくなった頃、そろそろ仕事もなくなりそうなだと思われたが、義孝は違った。

 今まで続けていた絵が、少しずつだけど評価されるようになった。

 かと言って、さすがに個展を開くまではいかなかったけれど、それでも、繊細な義孝の絵を「心が和む」と言って、購入してくれる人も増えていた。

 食べていけるまでとはいかなくても、漁師の傍らに絵を描く機会も増えた事に、私も義孝も満足していた。

 まだ趣味には近かったけど、少しは義孝を画家として見てくれる人もいるのも事実。それだけでも、私達にとってはありがたい事だったし、義孝自身の励みにもなった。

「よっちゃんの絵は、やっぱり温かいんだよね」

 加工場で働く小百合さんが、ぽつりと話しかけてきた。よっちゃんとは義孝の事だ。ここではみんな、そう呼んでいる。

「そうですか? ありがとうございます」

 私は勿論、義孝の絵が褒められる事は、自分の事のように嬉しかった。

「あ、私なんかこの前さ、子供が生まれた時にもらったよ、ほんわかとした花の絵よ、もう見てて心が癒されるって感じだよ」

 そう言って大きな声を張り上げたのは、三軒隣に住む弘子さん。体格もよくて、ついこの間赤ちゃんを産んだのに、もう職場に復帰している。三人目だから大丈夫よ、そう言って笑ってたけど、働かない訳にはいかない現状なんだと思う。

「だから名前を花ちゃんにしたんじゃないでしょうね」

 傍で聞いていた好美さんが、弘子さんを肘で突いた。好美さんの船に、義孝は乗せてもらっている。ここに来た時から常にお世話になっている人だ。

「あらぁ、ばれた? だって可愛いじゃない、うちの子もあんな可愛い花のように誰かを癒してあげれたらって思ったのよ」

 弘子さんは清々しいほどに大きな口をあけて豪快に笑う。

「じゃ、あたしも子供産んだらくれるかな」

 小百合さんがそう言ってはにかんだ。

「何、あんた出来たの?」

 弘子さんの言葉に、小百合さんの頬が紅潮した。その態度に誰もが口端をにんまりと上げた。

「やだ、おめでとう! 何、いつ生まれるの?」

 一気に花が咲いたような話題が、加工場を華やかにさせた。

「まだ先の話だけど、来年の夏くらい」

「おめでとう楽しみねぇ、いっぱい子供が増えるともっと賑やかになるし」

 好美さんも嬉しそうに笑った。その好美さんには子供はいない。もう何年も不妊治療をしたけれど、結局、子供は授からなくて断念したと聞いたことがある。

 だから、誰よりも子供が増える事を自分の事のように喜んでくれるのだ。

「じゃぁ今度は紫音ちゃんの番ね」

 弘子さんが私を見遣って言った。

「え?」

 私の番って……え?

 思いも寄らない振りに、私は戸惑いのあまり、なんて返事をしたらいいのか解らなかった。

「やぁだ、紫音ちゃん、赤くなってる」

「いえ、あの……」

 だって、作ります、なんて言ったら可笑しいし。

「そうだ、一緒に産もうよ」

 小百合さんが嬉しそうに言った。

「そうそう、最近は時化が多いから、よっちゃんに頼めば何とかなるでしょ?」

 弘子さんの笑い声が轟いた。

 一緒に産もうって、え、でも、何……時化が多いからって事は、そういう時間があるって事で……あ、やだ。

 何を考えていいのやら、私の頭の中はパニック寸前だ。

「な〜に賑やかだな〜。今日の海は時化てんぞ〜」

 同じような大きな声で加工場に入ってきたのは、大輔さんと言う人。弘子さんの旦那だ。

 時化で海に出なかったらしい漁師たちが加工場に入ってきた事で救われた気がした。

 義孝もいる。

 義孝は私の傍に来るなり、俯いて赤くなってる私を不思議そうな顔で覗き込んできた。

「何、どうかした?」

「ううん、別に」

 子供作れって、言われたなんて言えない。

「よっちゃんも早く紫音ちゃんにプレゼントしてあげなさいよ〜」

 弘子さんの意味深な発言に、義孝は「え?」と返した。

 話の意味が呑み込めない義孝は、キョトンとして弘子を見遣る。

「やだ、聞かなくてもいいよ」

 私は義孝の袖を引っ張った。恥ずかしそうにしている私を見兼ねた好美さんが「いい加減に、からかわないの」と言って弘子さんを小突いた。

「へへ、ごめん」

 悪気がないのが分かる。でも、私には恥ずかしくて堪らなかった。

 それでも、ここは好き。

 みんなが好き。

 だって、ここには、私が居てもいい場所があるから。

 そのまま仕事を早く切り上げた私と義孝は、家に戻った。

 こんな日、義孝は筆を執る。ただ黙々と、部屋の中心でキャンパスに向かう。

 昔のように、コソコソしなくてもいい。そして、その横に私の場所がある。

 この充実感をどんなに望んでいた事か……だれにも気兼ねなく、義孝の横で描く姿を眺める。こんな幸せでいいのだろうかとさえ感じる。

 暫くして、義孝が一息ついた。

「疲れた?」

「いや」

 そう言って義孝は筆をおく。

 油の匂いが充満した心地よさに、義孝の横顔を眺める。私は、目の前のキャンパスに描かれていく色合いを眺めた。

 そこにはまだ、紫の色調はない。嫌いになったと言った紫を、義孝はまだ描けないのだ。

 ふいに寂しさが過り、私は義孝の袖をそっと掴んだ。すると、義孝はスッとその手の甲に、自分の手を重ねてくれた。

 温かい。

 私は義孝に寄り添い、頬を宛がう。穏やか時間、感触。私が私でいられる癒し。

 そして、義孝はいつも私の髪を撫でる。

「こんなに幸せでいいのかなって、思う時がある」

「え?」

 義孝はやんわりと私に視線を向けた。

「幸せすぎて、怖いくらいだ」

 そう言って、唇を寄せた。

「大丈夫だよ」

 私は義孝に言いながら、本当は自分に言い聞かせていたのかも知れない。

 お互いに感じる幸せも不安も同じ。だから愛しい。だからずっと離れられない。

「そうだ、さっきの話、何だったの?」

 思い出したように義孝が聞いてきた。

「あ、あれは別に、ただ」

「ただ?」

「うん、小百合さんに赤ちゃんが出来たんだって、だからみんな喜んで」

「へぇ、めでたいな」

 義孝もそう言って、嬉しそうに笑った。

 そして、部屋の隅に何枚も重ねられた絵を見遣った。

「俺、何もしてやれないけど、絵だけは書いてあげられる。でも、俺の絵でいいのかなっていつも思うんだ」

「いいよ」

 私は義孝の不安を拭ってあげたくて、すかさずそう言った。

「みんな義孝の絵が好きだって言ってくれるよ、だからもっと自信もっていいと思う」

「うん、でも、俺。他の誰より、紫音にだけ認められればいいって思うし」

 なんて幸せな言葉ばかりをくれるんだろう。

 私だって義孝だけ傍にいてくれたら嬉しいんだよ。でも、他の人に認められる義孝を見るのも好き。

 一緒にいるだけで心が満たされるから、お互いどこかに不安がある。幸せばかりだと、いつかは……そう思うと怖いのも同じ。

 そんな不安を考える事を避けるように、義孝は苦笑いを浮かべながら、小さなキャンパスを一つ手にとって眺めた。

「でも、この前さ、ホッケの絵を描いたんだけど、こんなんじゃ駄目だよな、やっぱ」

「私は好きだけど」

「え? ホッケだよ?」

「だって、義孝が描く絵は全部好きなんだもん」

「紫音」

 言いざま、義孝はキャンパスを傍らに置くと、今度はその手の中に私を包み込んでくれた。

「お前ってさ、なんでそんなに嬉しい事ばっかり言ってくれるわけ?」

 義孝も同じだよ。何もかも同じ。

 私だって義孝の言葉一つ一つにドキドキして、嬉しくて、幸せで。

「でも、ホッケって名前になったら大変だわ」

「え、なんで名前なんだよ」

 こうやって不安を抱えながらでも一緒にいられるんだね。このままずっと。想いも価値観も体も全て重ねて、触れ合って。

 義孝の絵が好き。声が好き。仕草が好き。全てが好き。

 一緒にいる時間も空間も、義孝を愛している私も……好き。








    







               

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