〜 vol : 2
その理由が夫の武雄(たけお)にあるのはわかっていた。その武雄が優しい男だという事も知っている。だから尚更、浜村を結絵に押し付ける心が、私には信じられなかった。
どうして……その疑問だけが最近の私の中に渦巻いている。
それでも聞く勇気はないのだ。後継ぎの重石を押し付けられている結絵の気持ちが私には痛いほどわかる。なぜなら、私も結絵と同じ和菓子屋の跡取りだったからだ。
産まれた時から家業を継ぐのは当たり前のように育てられ、それが私には大変な重荷だった。その反発心ときたら周りに迷惑ばかりかける始末だったろう。
だが二十五年前、私が二十歳の時、父、幸造(こうぞう)の連れてきた武雄と否応無しに結婚させられた。
武雄は私より五歳年上で、親同士が昔ながらの友人という間柄。金沢に住む父の友人もやはり老舗製菓の跡取りだった。父とは製菓学校で一緒だったらしい。
彼には息子が三人いて跡取りには困らなかったらしく、三男坊である武雄を私の夫にと薦められたのが始まりだった。
勿論、父は大喜びして私の気持ちなど無視した状態で結婚の話はとんとん拍子に進んでいったのが事実。いつのまにか私は神前に白無垢姿だった、と言っても過言ではなかった。
やがて、結絵は後ろから見てもわかる程の大きな溜め息をつき、車に戻ってきた。
そして、助手席に座るなり呟いた。
「どうしてお父さんは、あんなに私の夢を否定するんだろう……」
その言葉に私は何も言えなかった。結絵はまた短く溜め息をつく。
結絵の視線はゆっくりと私に向けられた。それと同時に私もまた、結絵を見つめ返す。
何とも言えない結絵の寂しそうな眼差しに、私の胸は締付けられるばかり。そんな沈黙の中、結絵は言いにくそうに口を開いた。
「お母さんは賛成してくれるよね? 私が美大に入る事……」
「うん。まぁ……」
煮え切らない返事の仕方だと自分でも思ったが、だからと言って軽はずみな言動も私には出来なかった。
なぜならこの十八年間、私が武雄に負い目を感じている部分もあるからだ。
そう思っている時、結絵が俯きかげんにポツリと言った。
「もう一回……あの海の絵が見たいなぁ」
突然の言葉に正直驚きを隠せず、咄嗟にそっぽを向き聞き流した振りをしてみたが、結絵の言う「あの絵」というのが何の絵なのかは大体の見当はついていた。
だが、確信がない。
なぜ「あの絵」の存在を結絵が知っているのか、と喉まで出かかった言葉を私は呑み込んでしまった。すると、結絵は意を決したような面持で今度は覗き込むように私の目を見据えて聞いてくる。
「綺麗な紫色の海が描かれた絵だった……お母さんも知ってるんでしょ? あれは誰が描いたの?」
――やっぱり……。
私はそう思いながらも「えっ?」と、とぼけたように聞き返してしまった。結絵はそんな私の心を見抜いているかのように、少し声を荒げて言った。
「私の、本当のお父さんが描いた絵じゃないの?」
その言葉に今度こそ私の胸は一気に鋭い刃物で貫かれたような気がした。
――本当のお父さん……なぜ結絵がそれを知っているの……どうして……。
そればかりが思考回路を駆巡る。
まともに結絵を直視出来るはずもなく、動揺を隠そうにも隠し切れない程に額や首筋に冷や汗が走る。唇は震えが止まらず、どうにか否定しようにもうまく言葉が出てこなかった。
ずっと心の中に封印していたはずのパンドラの存在を、結絵が知っているなんて思いも寄らなかったのだ。
慌てる私を見ても結絵は微動だにせず、ただ答えだけを待っている視線が否応なく突き刺さる。
そして、やっと出た私の言葉は、諦めの呟きだった。
「どうして、知ってるの……?」
そう言ってから後悔した。
どうして嘘でも「何の冗談言ってるの?」と言わなかったのか。恐る恐るといった感じに私はぎこちなく首を動かしながら横目に結絵の表情を覗う。だが、結絵は特に取り乱す様子もなく、ましてや私を責める言葉もなかった。
ただジッと、いつもの澄んだ瞳で私を見据えているだけだった。
それでも内心では私を軽蔑しているかもしれない、そう思うと苦しかったが、それならそれでもいいと思う心があるのも確かだった。