〜 vol :21




 

「紫音ちゃん、おめでとう!」

 

 職場に入るなりの第一声がそれだった。

 

「あ、あの」

 

 嬉しそうに大声を張り上げた弘子さんに気付き、皆が「何々?」と寄ってくる。

 

「紫音ちゃんおめでた!」

 

 その言葉に誰もが喜びの声をかけてくれた。

 

「わぁ、おめでとう。一気に赤ちゃんが二人も増えるなんていい事じゃない、ね〜」

 

「あ、ありがとうございます。でも何で知って……」

 

 そう聞くまでもなく、弘子さんは私の肩をバンバン叩いて話し始めた。

 

「昨夜さ、よっちゃんがうちの旦那に何でも聞いてたよ。で、解ったって訳」

 

「あ」

 

 そう言えば昨夜遅くに、義孝は出かけた。そうか、弘子さんの旦那さんに……って、何を聞いたんだろう。

 

 そんな心の声が聞こえたかのように、弘子さんは続ける。

 

「お父さんになる心構えとか、赤ちゃんを初めて抱いた時とか緊張しないかとか、赤ちゃんの扱い方みたいな? ま、そんなもん生まれてみれば自然にわかるって言ったんだけどね」

 

 そう言って、いつものように豪快に笑う。

 

「後、妊娠中に奥さんをどう気遣えばいいか、とか?」

 

 今度は恥ずかしそうに弘子さんは頬を赤らめた。その仕草がなんだか意味あり気にみえて、横から好美さんまでもが、恥ずかしそうに聞いてきた。

 

「あ、それって……つまり? あれ?」

 

 そう聞くなり、弘子さんはもじもじと体をくねらせた。

 

「ああ〜んもう、好美さんってば解ってるくせにぃ」

 

「義孝、そんな事聞いたんですか?」

 

 私は驚きのあまり声が上擦ってしまった。

 

 それが本当なら、穴があったら入りたい。

 

「やだ冗談よ、よっちゃんがそんな事を聞く訳ないじゃん。気遣えばいいかって、たぶんよっちゃんの場合は、家事とか手伝いとかの方の意味だと思うよ。なのにうちの旦那ったら張り切っちゃってさ、あっちの方ばっかりの説明するもんだから、よっちゃんもさすがに困ってたわよ」

 

「そ、そうなんだ」

 

 私はホッと胸を撫で下ろした。

 

「もうね、嬉しそうに言うの。俺、父親になるんです〜って。妊婦さんはどんなものを食べたら栄養になるかとか、どれくらいなら動いてもいいのかとか、そりゃもう本当に嬉しそうに」

 

 弘子さんは、そう言って、昨夜の義孝の様子を思い出しながら話してくれた。

 

「でも、やるのは安定期に入ってからよ」

 

 最後に付け足したこの言葉はどうかとは思うけど……。

 

「弘子さんったら……」

 

 でも、弘子さんの場合、どこまで冗談なのかわからない時があるけど、こうやって楽しく話が出来る事は何よりも頼もしかった。既に三人も子供もいるし、いろんな意味でお手本になるのは間違いない。

 

「安定期って……もしかして、紫音ちゃんも赤ちゃん出来たの?」

 

 一足遅れて輪の中に入ってきた小百合さんも、話の成り行きから察したようで、そう嬉しそうに聞いてきた。

 

 私が頷いて見せると、満面の笑顔を作る。

 

「わぁ嬉しい! 一緒に産もうなんて言ったけど、本当になったんだね。赤ちゃん、同級生になるんだ〜」

 

 小百合さんも初産だと言う事もあり、こうして同じ立場になれた事は、私にとっても心強い。

 

「小百合さんは夏に産むんだよね?」

 

 すでに五ヶ月目に入り、少し膨らんだお腹をさすりながら、小百合さんは頷き笑う。その表情は、すでにお母さんの顔だ。

 

「うん、紫音ちゃんは?」

 

「私は秋の初め頃。宜しくね。先輩ママ」

 

「やだ、先輩ママだなんて、照れちゃう」

 

「ささ、賑やかなのは良いけど、そろそろ手を動かしましょうか」

 

 両手を叩いてみんなを仕事に取り掛からせる好美さんは「はい、仕事仕事」と続けながらも、私の顔を流し見るなり「おめでとう、良かったね」と言ってくれた。

 

「はい」

 

 誰もが祝福してくれる。

 

 こんな未来を私は夢見ていた。

 

 諦めなくて良かった。義孝と一緒でよかった。

 

 どんなにありがたく思っても足りないくらい、私は幸せだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 それから間もなくの頃だった。

 

 いつものように職場に顔を出すと、どことなく重い雰囲気が漂っていた。

 

 それが何なのか気付くのに、然程時間がかからなかったと思う。

 

「あれ? 今日は小百合さんお休み?」

 

私は活気のない空間に、誰にともなく何気に聞いた。

 

ああ、紫音ちゃん、おはよう……小百合の事、まだ聞いてないんだ」

 

 いつも明るい弘子さんの口調が重い。低い声が、何かあったのだと言っているようだった。

 

「え? 小百合さんに……何か……」

 

 そう聞いた事を、後悔するなんて思わなかった。

 

「実はね……流産しちゃったらしいのよ」

 

「え?」

 

 知らなければ良かったなんて都合が良過ぎるかも知れないけど、それでもいつかは解ってしまう事実を隠す事も出来ないだろう。

 

 弘子さんはそんな思いで話してくれたと思う。

 

「昨日、自宅の階段で足を滑らせて、それですぐに病院に行ったらしいんだけど、赤ちゃんはダメだったらしいの」

 

 予期せぬ衝撃が全身を駆け廻っていく。手足が震え、声が喉に詰まる。

 

「そんな……じゃぁ……」

 

 絞り出した声さえ掠れている。

 

「今はまだ病院みたい、将ちゃんも今日は船に乗らずに、小百合に付添ってるって」

 

 弘子さんの表情にも、今日は笑み一つない。これが本当にみんなにとってのショックも大きかった事を示している。

 

 旦那さんが一緒にいてくれている……だからと言って、そう聞いてすぐに安心できるものではなかった。小百合さんはあんなに赤ちゃんが生まれてくるのを楽しみにしていたのだ。それを奪われたかと思うと、尋常な気持ちではないだろう。

 

 私でさえ苦しいのに、小百合さんの気持ちは計り知れない。

 

私はそれから、仕事など一切手に付かず、何もかも上の空だった。小百合さんの事が気になって仕方がない。

 

 少しでも小百合さんが元気ならいいのだけど。

 

 そんな思いだけが頭の中を交差する。

 

 仕事が終わり、居ても経ってもいられなくなった私は、いつの間にか病院の前にいた。

 

 会った方がいいのか、会わない方がいいのかさえ分からない。でも、来てしまった。心配で心配で、真っ直ぐに家になど帰れなかった。

 

 見上げた病院が冷たく見える。

 

 ここは私が赤ちゃんを産む病院でもある。そう、いつもならどんな寒空にも、ここで命を生み出すんだって思っただけで温かかった病院さえ、今日は拒絶している。

 

冷えたコンクリートが威圧のように圧し掛かる。

 

どうしよう……どうしたらいい?

 

「紫音ちゃん、お見舞いに来てくれたの?」

 

 戸惑っているうちに、背後から聞きなれた声がした。

 

「あ……」

 

 振り返ると、そこには、コンビニの袋を持った将ちゃんが、物寂しそうに佇んでいた。

 

「今はまだ落ち込んでるみたいだけど、せっかく来てくれたんだし会ってやってよ。っていうか、元気付けてやってほしいんだ。あいつ、毎日のように紫音ちゃんの話してるし、同年代って事でも頼りにしてるんだと思うから」

 

「そんな、私の方が小百合さんにはいつも元気をもらってて」

 

「それはあいつも同じだよ、ね?」

 

 言われるまま、私は将ちゃんに背中を押され、小百合さんの病室に案内された。

 

 足が重い。

 

 本当に、私があってもいいのだろうか。

 

「おい、紫音ちゃんが来てくれたぞ」

 

 将ちゃんが明るい声で病室を開けた。でもそれは、あまりにも無理をしていると解るほど……やっぱり苦しい。

 

 でも、ここまできた以上、何も言わずに帰るのは辛い。きっと、小百合さんにしても、目の前まで来て避けるのは気分が悪いだろう。

 

 そう思って、私は病室に一歩を踏みいれた。

 

「小百合さん……大丈夫?」

 

 そんな、ありふれた言葉しか出てこなかった。

 

 ベッドに上半身を起こしてはいるものの、小百合さんは私を見る事もなく、窓の外を呆然と見つめていた。

 

「小百合?」

 

 将ちゃんの声にも、ピクリとも反応を示さない。

 

 そして、重い沈黙が流れて少し、小百合さんは振り向かないままに冷たい声を発した。

 

「大丈夫じゃないの、解ってるでしょ……」

 

 やっぱり来てはいけなかった。そう思った時はすでに遅かったのかもしれない。

 

「小百合さん?」

 

 何も言えない。元気付けるどころか、私は傷つけてしまったのだ。

 

「注意不足だった事を笑いにきたの? それとも自慢しにきたの?」

 

「そんなんじゃ……」

 

「私のお腹には、もう赤ちゃんはいないのよ。なのに、どんな顔してきたのかしら?」

 

 言いざま、小百合さんは虚ろな瞳を私に向けた。

 

 胸がチクリと軋む。

 

「小百合!」

 

 将ちゃんは、小百合さんの肩を掴み、まるで生気の感じられないその目を、覚まさせるように言った。

 

「何よ」

 

 それでも、小百合さんの言葉は冷えていた。

 

「せっかくお見舞いに来てくれたのに、そんな言い方は失礼だろ」

 

「は? お見舞い? 赤ちゃんが死んだの見に来たの?」

 

 苦しい……死と言う言葉が私には耐えられなかった。

 

でも、私なんかよりも、小百合さんの方が、その言葉を言いながらも、まだ現実には受け止めてはいないのかもしれない。

 

 本当は認めたくないのに、私が小百合さんに言わせてしまった言葉だ。

 

 どうしよう……ごめんなさい。

 

 どんなに謝りたくても、喉の奥が熱くて言葉にならない。何もかも、吐き出す前に燃えてしまう弱い言葉なんだ。

 

 小百合さんはギュっと枕を握りしめると、耐えきれない叫びと共にぶつけてきた。

 

「小百合!」

 

 枕が私のお腹に当たり、床に落ちた。

 

 柔らかな衝撃なはずなのに、こんなに心まで痛い。

 

「自分だけ赤ちゃん産めて良かったじゃない! 私のお腹にはもう赤ちゃんはいないのよ!」 

 

「小百合!」

 

 咎める将ちゃんに縋りながら、その胸に顔を埋め、小百合さんは泣き叫んだ。

 

「私は流産したの! 幸せそうなあんたの顔見てるとイライラする! 死んだのよ! 私の赤ちゃんだけ死んじゃったの!」

 

「いい加減に……」

 

 そう、将ちゃんが辛そうに小百合さんを抱きしめた時だ。

 

「あんたも流産すればいいのよっ!」

 

 すると、途端に乾いた音が病室に木霊した。

 

 将ちゃんの腕が高々とあがり、小百合さんの頬が赤くなっている。

 

「言っていい事と悪い事があるだろ! 酷かもしれないけど、お前は流産の辛さが解ってる筈じゃないのか?」

 

 悔しそうに唇を噛みしめる小百合さんは、再び私に背を向けた。

 

 そして「もう出てって」と、静かに私を突き離した。

 

 

 何も言えない。

 

 私は、すぐさま踵を返して病室を駆けだした。

 

 苦しい……苦しい……ごめんなさい。私が行ったばっかりに、小百合さんに辛い思いをさせてしまった。

 

 ごめんなさい。

 

 どんなに謝っても届かない声なのに、心でしか叫べない私は弱い。

 

「待って!」

 

 そう言われ、私は腕を掴み止められた。

 

「将、ちゃん」

 

 息せき切って駆けてきた将ちゃんの肩が上下している。

 

「走らないで」

 

 そう言いながら将ちゃんは、呼吸を整えるようにフウッと息を吐きだした。

 

「ごめん、紫音ちゃん……せっかく来てくれたのに、逆に嫌な思いさせちゃて」

 

「いえ、私は大丈夫です。小百合さんの気持ち考えもせずに来た私も悪いから……ごめんなさい」

 

「でも、あれは小百合の本心じゃないから……」

 

「はい、解ってます」

 

 私が小さく頷くと、将ちゃんは「よかった」と安心したように笑みを浮かべ、私の腕を離した。

 

「でも、もう走らないで……転んだりして、小百合の二の舞になってほしくないから……走らないで、お願い」

 

 そう言って、将ちゃんはゆっくりと頭を下げると、背を向けた。

 

 どうしてみんな、こんなに優しいの。いけないのは私なのに、ダメなのはいつも私なのに……。

 

 必死に唇を噛みしめても、涙が後から後から流れていく。

 

 止め処なく流れていく涙なのに、悲しみは拭ってくれない。取り返しのつかない過去を消してはくれない。

 

 

 







    








               

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