どうやって家まで帰って来たのか、記憶が曖昧で、いつの間にか私は薄暗い部屋にへたり込んでいた。
乾いた涙の痕を拭いながら、ごめんなさい、と何度も呟く。でも、心が晴れる事がない。
もしも流産したのが自分だったら、きっと誰にも会いたくないかもしれない。なのに私は、後先考えずに小百合さんを訪ねてしまった。少なからず、一番会いたくないのは私だ……小百合さんが亡くした命を思えば、解ってあげられたはずなのに……。
失って辛い状況の中、自分にはないものを持っている人を見る度に、もっと悲観してしまうのは当たり前だ。
なんて私は、浅はかだったの。
小百合さんの気持ちを思うと、自分のとった行動が腹立たしくて仕方がない。
そう暗く沈んでいると、不意に部屋の明かりがともった。
「紫音?」
部屋の戸を開け佇む義孝の瞳が寂しそうに私を見つめる。
「電気もつけてないから、居ないのかと思った」
そう言って、義孝は台所に立ち蛇口を捻ると、コップ一杯の水を喉の奥に流し込んだ。
そう言えば、帰って来てから何もしていない。夕飯の用意も、掃除も何もかも……それどころか、今日は義孝を迎えに行くことすら忘れていた。
「体調悪い?」
心配そうに義孝が聞く。私は、ただ黙って首を横に振った。
「そう……何か作ろうか? 最近は悪阻もなくなって来たって言ってただろ、そろそろ何か栄養のあるものでも食べないと体に悪いよ」
そう言って、義孝は冷蔵庫を開けた。
中身を見回しながら、いくつかの材料を手に取る。
栄養か……小百合さんも、赤ちゃんの為に毎日頑張ってたんだろうな。
そう思うと、また涙が溢れた。
「紫音……大丈夫か?」
すすり泣く声を拾った義孝が、ゆっくりと私に近付いてきた。下唇を噛みしめて、私は背中を向ける。
小刻みに揺れる肩に、そっと義孝の手が宛がわれた。
「……紫音」
「小百合さん……赤ちゃんダメだったの」
言うなり、義孝の指先に力が入った。どう応えていいのか分からずに、戸惑っているようだ。
「私ね……お父さんに嘘吐いたことあるんだ」
吐息を吐き出すように、私は小さな声を漏らした。
「嘘?」
「うん。昔ね……妊娠なんか全然してないのに、妊娠したって嘘ついて、で、ばれそうになったら流産したって言えばいいや、って簡単に思ってた」
唇が震え、うまく言葉が言えたかどうかさえ分からない。涙ばかりが頬を伝い、口の中に苦さとなって広がる。
「でも、本当にそうなった人が、どんなに辛い思いを抱えてるかなんて考えなくて、想像の中だとしても私は酷い事を考えてたんだって……そう思いだしたら、申し訳なくて……」
私は、肩に添えられた義孝の手に、自分の手を恐る恐る重ねた。
「小百合さん、あんなに苦しそうで……辛そうで、なのに、私は凄く無神経で……」
すると、義孝は私の手を握り返した。そして、ゆっくりと離すと、ふんわりと私を後ろから包み込んでくれた。
「俺、今日、紫音がどこに行ったか、どんな思いをしたか知ってる……そこで紫音が何を言われたのかも、大体の事は聞いたんだ」
「え?」
「将がさっき港に来て、紫音に謝っといて欲しいって……小百合さんも、その後はもう『悪い事を言った』って泣いてたって」
「そんな、ホントに私の方が悪いのに」
「でも、人間なんだもん、いろんな感情も、嘘もあるよ。でもそれが全てダメだなんて思わない」
義孝は更に優しく、髪を撫でてくれた。その髪にかかる吐息も甘く、切なく、心にじんわりと沁み込んでくる。耳の奥に届く声に労られる。
「……義孝……」
「俺だってさ、かなり醜い所あるよ」
「義孝が……そんな事ない」
「あるんだ」
間髪入れずに義孝は言うと、包み込まれる腕に力が入った。
「実際にさ、紫音を旦那さんから奪ってる訳だし、普通じゃないだろ」
「それは私も決めた事で……」
「聞いて、紫音」
義孝は「しぃ」と付け足し、自分の人差し指を、私の唇に押し当ててきた。
「それに俺、流産したのが紫音じゃなくて良かったと思ってる」
「え?」
「そう思うの、本当はいけない感情なんだろうけど、紫音じゃなかった事に安心してる自分がいるんだ」
義孝の指先が、濡れた頬に滑っていく。
「でも、紫音もその嘘を後悔してるんだろ?」
ゆっくりと私の体を振り向かせると、今度は流れた涙を唇で拭ってくれた。そして、真っ直ぐな眼差しを向ける。
「だったら、それでいいと思う。後悔しなくなったら終わりじゃないかな。いろんな事に悩んだり、考えたり、その結果に悔んだり、そんな事を繰り返しながら、人って優しくなれるのかもしれない」
私の前髪をかき上げる。そして「もっと強く……」と、呟いた。
「え?」
「抱きしめてもいいかな……お腹の赤ちゃん苦しくならない?」
義孝はそう言って微笑んだ。私はただ、大きく頷き、義孝の腕に縋った。
「じゃ、遠慮なく」
そう言って、抱きしめてくれた義孝の抱擁に、私の全てが落ちていく。
「本当は紫音を連れて来た事を後悔した時期もあったんだ」
思いも寄らなかった義孝の言葉に驚いたのは言うまでもない。まさか、後悔してるなんて言われたら、この先どうすればいいかさえ分からなくなる。
もしかしたら、生きていけなくなるかもしれない。
大袈裟かも知れないけど、それほどまでに義孝は私の一部になっていた。
「後悔……したの?」
恐る恐る聞く私の声は、当然のように震えを伴う。
「うん……俺なんかといて幸せなのかって考えると、って感じ。決して紫音に不満があった訳じゃないんだ。でも、そう思った事を後悔してるよ……今は、こうやって紫音を抱きしめる事が出来て凄く幸せだから、これで良かったと思ってるから」
その言葉を聞いて、心底安堵する私がいる。
「よかっ……た」
どんな嘘をついても、どんな無神経な行動をとっても、その事を後悔しないのはいけない事だと義孝は言った。
後悔する度に、人は優しくなれる、と。
私が義孝を待たずに結婚してしまった事を、毎日のように後悔したあの頃……戻りたいとは思わない。でも、あの頃がなかったら、今の私がいないような気もする。
どこまでも自分のご都合主義な考えかも知れないけど、今、こうしてここにいるのは、過去を後悔したからなのかもしれない。
「俺の傍にいてくれてありがとう」
優しい声が届く。こんなに近くで感じられる。
「きっと、小百合さんだって紫音に八つ当たりしちゃった事、後悔してると思うし、解ってるはずだから、ちゃんと現実に向き合えた時、また仲良くできるんじゃないかな。待ってあげる事も大切だから、ね」
「うん」
嗚咽交じりに返す言葉に、義孝は表情を綻ばせて、顔を上げるように促した。義孝の両手が頬を包む。
「だから、もっと笑って」
言いながら義孝は、私の顔で遊ぶように、むにむにと頬を摘み表情を崩し始めた。無理やりにでも笑い顔にしようとしているらしい。
「やら、やめへよ……」
弄ばれる表情に力が入らずに、言葉さえも上手く言えない。
「はは、変な顔」
そう言って笑った義孝だったけど、ふと真顔に戻った。
「俺、紫音の笑ってる顔、好きだから」
「義孝」
「きっとみんなも、紫音の笑顔が好きだよ。だからずっと笑ってて」
悲しみはきっと、いつかは笑顔に変わるはず。
いつまでも泣いてなんかいられない。
そう教えてくれたのは、義孝だ。
喜びも悲しみも、寂しさも愛しさも、全てを私に教えてくれたのは義孝だ。
幸せをくれたのも、未来をくれたのも……そして、これからも。
◇
あれからずっと、心を病んでしまった小百合さんは仕事に来なくなった。でも、好美さんは、いつでも帰って来れるようにと、届けられた退職願は机の引出しにしまったままだった。
誰もが待っている。
待っていると伝えたい。
みんなの心に、いつまでも小百合さんの回復を祈る優しさが消えないまま、夏が過ぎた。
私のお腹は順調に大きくなり、歩く事もままならないまでになった。
その日は臨月を迎えた初めての検診だった。
私は診察を終えて、元気な赤ちゃんのエコー写真を手に、病院を出た時だ。
「あの」
ふと、小さな声で呼び止められた。
何気に振り向いた私は、そこに立つ人を見た瞬間、暫くは流さなかった涙が溢れた。
「小百合さん」
会わなくなってから、随分と痩せたように思える。でも、硬かった表情は軟らかさを取り戻していると感じた。
「あ、その……」
しどろもどろに呟きながら、小百合さんは瞳を泳がせた。
「元気で、良かった」
私の一言で、小百合さんの目にも涙が溢れた。その瞬間、小百合さんは大きく腰を折った。
「ごめんなさい……私、ひどい事を言ってしまって」
そう言って、小百合さんはなかなか顔をあげようとはしなかった。
私はゆっくりと小百合さんに近付き、その肩に手を添えた。そして、頭を上げるように促した。
「ううん、私が悪かったの。謝るのは私の方だよ、ごめんね」
「紫音ちゃん」
言いざま顔を上げた小百合さんは、既に涙の洪水に襲われていた。
拭う事も忘れ、唇を噛みしめている。
私は鞄からすかさずハンカチを取り出して頬に宛がった。
「泣かないで」
「でも!」
「だって、小百合さんの気持ち考えなかったの私の方だから……だから、傷つけちゃって、本当にごめんなさい」
そして、今度は私が頭を深く下げた。
「私だって……ごめんなさい」
小百合さんは、また同じように頭を下げた。
謝り続ける私たちは、いつのまにか自然に笑みが零れていた。
互いの行動が可笑しくてならない。同じ思いで、同じ言葉。
会えなかった時間を取り戻すように、私も小百合さんも笑う事を思い出した。
「私、赤ちゃんを諦めた訳じゃないんだ」
「小百合さん」
「そりゃ、あれからなかなか出来ないし焦ってたのは確か。でも、こればっかりは焦っても仕方ないって将ちゃんに言われて。それよりも私にはやるべき事があるんじゃないかって」
「やるべき事?」
「そう、紫音ちゃんに会って、ちゃんと謝らなきゃって……でも、怖くてなかなか会いにこれなくて……」
小百合さんの視線が、私のお腹にするりと落ちる。
「触ってもいい?」
恐る恐る差し出される手が震えている。私は「いいよ」と言って、その手を掴むと、そっとお腹に押し当てた。
優しく撫でる小百合さんの手が温かい。
「もうすぐだね……一緒には産めなかったけど、いつか私もママになるから、それまで紫音ちゃんがしっかりママ業頑張ってね」
「うん……待ってる」
「待ってて、先輩ママ」
そんなくすぐったい言葉をくれた小百合さんの笑顔が、すごく眩しかった。
怖かったと言った小百合さんは、きっと、まだ辛いはずなのに。
それでも笑顔をくれた小百合さんの勇気に、私は何度も頷き、その手を握り締めた。
そして、小百合さんは次の日から、職場に復帰した。
みんなが温かい目で見守ってくれる。誰も隔たりなどなく、同じように優しく接してくれる。
この町に来てよかった。私は心の底からそう思えた。
だから私達は、この小さな漁師町に未来を描き、身を固める決心をした。
そして秋になり、私は女の子を産んだ。