〜 vol :22




 

 どうやって家まで帰って来たのか、記憶が曖昧で、いつの間にか私は薄暗い部屋にへたり込んでいた。

 

 乾いた涙の痕を拭いながら、ごめんなさい、と何度も呟く。でも、心が晴れる事がない。

 

 もしも流産したのが自分だったら、きっと誰にも会いたくないかもしれない。なのに私は、後先考えずに小百合さんを訪ねてしまった。少なからず、一番会いたくないのは私だ……小百合さんが亡くした命を思えば、解ってあげられたはずなのに……。

 

 失って辛い状況の中、自分にはないものを持っている人を見る度に、もっと悲観してしまうのは当たり前だ。

 

 なんて私は、浅はかだったの。

 

 小百合さんの気持ちを思うと、自分のとった行動が腹立たしくて仕方がない。

 

 そう暗く沈んでいると、不意に部屋の明かりがともった。

 

「紫音?」

 

 部屋の戸を開け佇む義孝の瞳が寂しそうに私を見つめる。

 

「電気もつけてないから、居ないのかと思った」 

 

 そう言って、義孝は台所に立ち蛇口を捻ると、コップ一杯の水を喉の奥に流し込んだ。

 

 そう言えば、帰って来てから何もしていない。夕飯の用意も、掃除も何もかも……それどころか、今日は義孝を迎えに行くことすら忘れていた。

 

「体調悪い?」

 

 心配そうに義孝が聞く。私は、ただ黙って首を横に振った。

 

「そう……何か作ろうか? 最近は悪阻もなくなって来たって言ってただろ、そろそろ何か栄養のあるものでも食べないと体に悪いよ」

 

 そう言って、義孝は冷蔵庫を開けた。

 

 中身を見回しながら、いくつかの材料を手に取る。

 

 栄養か……小百合さんも、赤ちゃんの為に毎日頑張ってたんだろうな。

 

 そう思うと、また涙が溢れた。

 

「紫音……大丈夫か?」

 

 すすり泣く声を拾った義孝が、ゆっくりと私に近付いてきた。下唇を噛みしめて、私は背中を向ける。

 

 小刻みに揺れる肩に、そっと義孝の手が宛がわれた。

 

「……紫音」

 

「小百合さん……赤ちゃんダメだったの」

 

 言うなり、義孝の指先に力が入った。どう応えていいのか分からずに、戸惑っているようだ。

 

「私ね……お父さんに嘘吐いたことあるんだ」

 

 吐息を吐き出すように、私は小さな声を漏らした。

 

「嘘?」

 

「うん。昔ね……妊娠なんか全然してないのに、妊娠したって嘘ついて、で、ばれそうになったら流産したって言えばいいや、って簡単に思ってた」

 

 唇が震え、うまく言葉が言えたかどうかさえ分からない。涙ばかりが頬を伝い、口の中に苦さとなって広がる。 

 

「でも、本当にそうなった人が、どんなに辛い思いを抱えてるかなんて考えなくて、想像の中だとしても私は酷い事を考えてたんだって……そう思いだしたら、申し訳なくて……」

 

 私は、肩に添えられた義孝の手に、自分の手を恐る恐る重ねた。

 

「小百合さん、あんなに苦しそうで……辛そうで、なのに、私は凄く無神経で……」

 

 すると、義孝は私の手を握り返した。そして、ゆっくりと離すと、ふんわりと私を後ろから包み込んでくれた。

 

「俺、今日、紫音がどこに行ったか、どんな思いをしたか知ってる……そこで紫音が何を言われたのかも、大体の事は聞いたんだ」

 

「え?」

 

「将がさっき港に来て、紫音に謝っといて欲しいって……小百合さんも、その後はもう『悪い事を言った』って泣いてたって」

 

「そんな、ホントに私の方が悪いのに」

 

「でも、人間なんだもん、いろんな感情も、嘘もあるよ。でもそれが全てダメだなんて思わない」

 

 義孝は更に優しく、髪を撫でてくれた。その髪にかかる吐息も甘く、切なく、心にじんわりと沁み込んでくる。耳の奥に届く声に労られる。

 

「……義孝……」

 

「俺だってさ、かなり醜い所あるよ」

 

「義孝が……そんな事ない」

 

「あるんだ」

 

 間髪入れずに義孝は言うと、包み込まれる腕に力が入った。

 

「実際にさ、紫音を旦那さんから奪ってる訳だし、普通じゃないだろ」

 

「それは私も決めた事で……」

 

「聞いて、紫音」

 

 義孝は「しぃ」と付け足し、自分の人差し指を、私の唇に押し当ててきた。

 

「それに俺、流産したのが紫音じゃなくて良かったと思ってる」

 

「え?」

 

「そう思うの、本当はいけない感情なんだろうけど、紫音じゃなかった事に安心してる自分がいるんだ」

 

 義孝の指先が、濡れた頬に滑っていく。

 

「でも、紫音もその嘘を後悔してるんだろ?」

 

 ゆっくりと私の体を振り向かせると、今度は流れた涙を唇で拭ってくれた。そして、真っ直ぐな眼差しを向ける。

 

「だったら、それでいいと思う。後悔しなくなったら終わりじゃないかな。いろんな事に悩んだり、考えたり、その結果に悔んだり、そんな事を繰り返しながら、人って優しくなれるのかもしれない」

 

 私の前髪をかき上げる。そして「もっと強く……」と、呟いた。

 

「え?」

 

「抱きしめてもいいかな……お腹の赤ちゃん苦しくならない?」

 

 義孝はそう言って微笑んだ。私はただ、大きく頷き、義孝の腕に縋った。

 

「じゃ、遠慮なく」

 

 そう言って、抱きしめてくれた義孝の抱擁に、私の全てが落ちていく。

 

「本当は紫音を連れて来た事を後悔した時期もあったんだ」

 

 思いも寄らなかった義孝の言葉に驚いたのは言うまでもない。まさか、後悔してるなんて言われたら、この先どうすればいいかさえ分からなくなる。

 

 もしかしたら、生きていけなくなるかもしれない。

 

 大袈裟かも知れないけど、それほどまでに義孝は私の一部になっていた。

 

「後悔……したの?」

 

 恐る恐る聞く私の声は、当然のように震えを伴う。

 

「うん……俺なんかといて幸せなのかって考えると、って感じ。決して紫音に不満があった訳じゃないんだ。でも、そう思った事を後悔してるよ……今は、こうやって紫音を抱きしめる事が出来て凄く幸せだから、これで良かったと思ってるから」

 

 その言葉を聞いて、心底安堵する私がいる。

 

「よかっ……た」

 

 どんな嘘をついても、どんな無神経な行動をとっても、その事を後悔しないのはいけない事だと義孝は言った。

 

 後悔する度に、人は優しくなれる、と。

 

 私が義孝を待たずに結婚してしまった事を、毎日のように後悔したあの頃……戻りたいとは思わない。でも、あの頃がなかったら、今の私がいないような気もする。

 

 どこまでも自分のご都合主義な考えかも知れないけど、今、こうしてここにいるのは、過去を後悔したからなのかもしれない。

 

「俺の傍にいてくれてありがとう」

 

 優しい声が届く。こんなに近くで感じられる。

 

「きっと、小百合さんだって紫音に八つ当たりしちゃった事、後悔してると思うし、解ってるはずだから、ちゃんと現実に向き合えた時、また仲良くできるんじゃないかな。待ってあげる事も大切だから、ね」

 

「うん」

 

 嗚咽交じりに返す言葉に、義孝は表情を綻ばせて、顔を上げるように促した。義孝の両手が頬を包む。

 

「だから、もっと笑って」

 

 言いながら義孝は、私の顔で遊ぶように、むにむにと頬を摘み表情を崩し始めた。無理やりにでも笑い顔にしようとしているらしい。

 

「やら、やめへよ……」

 

 弄ばれる表情に力が入らずに、言葉さえも上手く言えない。

 

「はは、変な顔」

 

 そう言って笑った義孝だったけど、ふと真顔に戻った。

 

「俺、紫音の笑ってる顔、好きだから」

 

「義孝」

 

「きっとみんなも、紫音の笑顔が好きだよ。だからずっと笑ってて」

 

 悲しみはきっと、いつかは笑顔に変わるはず。

 

 いつまでも泣いてなんかいられない。

 

 そう教えてくれたのは、義孝だ。

 

 喜びも悲しみも、寂しさも愛しさも、全てを私に教えてくれたのは義孝だ。

 

 幸せをくれたのも、未来をくれたのも……そして、これからも。

 

 

 

    ◇

 

 

 

 あれからずっと、心を病んでしまった小百合さんは仕事に来なくなった。でも、好美さんは、いつでも帰って来れるようにと、届けられた退職願は机の引出しにしまったままだった。

 

 誰もが待っている。

 

 待っていると伝えたい。

 

 みんなの心に、いつまでも小百合さんの回復を祈る優しさが消えないまま、夏が過ぎた。

 

 私のお腹は順調に大きくなり、歩く事もままならないまでになった。

 

 その日は臨月を迎えた初めての検診だった。

 

 私は診察を終えて、元気な赤ちゃんのエコー写真を手に、病院を出た時だ。

 

「あの」

 

 ふと、小さな声で呼び止められた。

 

 何気に振り向いた私は、そこに立つ人を見た瞬間、暫くは流さなかった涙が溢れた。

 

「小百合さん」

 

 会わなくなってから、随分と痩せたように思える。でも、硬かった表情は軟らかさを取り戻していると感じた。

 

「あ、その……」

 

 しどろもどろに呟きながら、小百合さんは瞳を泳がせた。

 

「元気で、良かった」

 

 私の一言で、小百合さんの目にも涙が溢れた。その瞬間、小百合さんは大きく腰を折った。

 

「ごめんなさい……私、ひどい事を言ってしまって」 

 

 そう言って、小百合さんはなかなか顔をあげようとはしなかった。

 

 私はゆっくりと小百合さんに近付き、その肩に手を添えた。そして、頭を上げるように促した。

 

「ううん、私が悪かったの。謝るのは私の方だよ、ごめんね」

 

「紫音ちゃん」

 

 言いざま顔を上げた小百合さんは、既に涙の洪水に襲われていた。

 

 拭う事も忘れ、唇を噛みしめている。

 

 私は鞄からすかさずハンカチを取り出して頬に宛がった。

 

「泣かないで」

 

「でも!」

 

「だって、小百合さんの気持ち考えなかったの私の方だから……だから、傷つけちゃって、本当にごめんなさい」

 

 そして、今度は私が頭を深く下げた。

 

「私だって……ごめんなさい」

 

 小百合さんは、また同じように頭を下げた。

 

 謝り続ける私たちは、いつのまにか自然に笑みが零れていた。

 

 互いの行動が可笑しくてならない。同じ思いで、同じ言葉。

 

 会えなかった時間を取り戻すように、私も小百合さんも笑う事を思い出した。

 

「私、赤ちゃんを諦めた訳じゃないんだ」

 

「小百合さん」

 

「そりゃ、あれからなかなか出来ないし焦ってたのは確か。でも、こればっかりは焦っても仕方ないって将ちゃんに言われて。それよりも私にはやるべき事があるんじゃないかって」

 

「やるべき事?」

 

「そう、紫音ちゃんに会って、ちゃんと謝らなきゃって……でも、怖くてなかなか会いにこれなくて……」

 

 小百合さんの視線が、私のお腹にするりと落ちる。

 

「触ってもいい?」

 

 恐る恐る差し出される手が震えている。私は「いいよ」と言って、その手を掴むと、そっとお腹に押し当てた。

 

 優しく撫でる小百合さんの手が温かい。

 

「もうすぐだね……一緒には産めなかったけど、いつか私もママになるから、それまで紫音ちゃんがしっかりママ業頑張ってね」

 

「うん……待ってる」

 

「待ってて、先輩ママ」

 

 そんなくすぐったい言葉をくれた小百合さんの笑顔が、すごく眩しかった。

 

怖かったと言った小百合さんは、きっと、まだ辛いはずなのに。

 

 それでも笑顔をくれた小百合さんの勇気に、私は何度も頷き、その手を握り締めた。

 

 そして、小百合さんは次の日から、職場に復帰した。

 

 みんなが温かい目で見守ってくれる。誰も隔たりなどなく、同じように優しく接してくれる。

 

 この町に来てよかった。私は心の底からそう思えた。

 

 だから私達は、この小さな漁師町に未来を描き、身を固める決心をした。

 

 

 

 

 

 

 そして秋になり、私は女の子を産んだ。









    








               

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