〜 vol :23




 

 私と義孝の赤ちゃんは、少し未熟児だったために保育器に入っている。でも、出産を終えた四日目の今日、ようやく母子同室を許された。この日を待ち遠しそうに義孝は、毎日保育器を眺め、ガラス越しに声をかけていた事を知っている。

 

 どんなに赤ちゃんを、その腕に抱きたかった事だろう。

 

 保育器から出してもらえたと、朝、電話で知らせた。義孝の声は思ったとおり弾んでいた。その喜び様に私まで嬉しくなった。

 

 今、横ですやすやと寝息を立てている赤ちゃんを見ながら、私は義孝が来るのを浮かれた気持で待っていた。小さな手を撫でると、思うよりも強く私の指先を握り返してくれる事に、胸が熱くなる。

 

 早くこの嬉しさを義孝にも味わってもらいたい。そんなはやる気持ちが表れ、何度も窓の外を眺めていた。

 

 今日の漁は、久々に時化があけ出ると聞いていた。

 

 時計を見れば、既に昼を過ぎている。そろそろだと思いながら、また、窓の外を見遣る。

 

「あ」

 

 思わずもれた声。視線の先に映る、愛しい姿を見つけたのだ。

 

「パパ来たよ」

 

 私は赤ちゃんの耳元で、そう囁いた。

 

 義孝は早足で病院の門を目指している。私はその光景に、笑みを零した。

 

早く早く。赤ちゃんを抱いてあげて。

 

 でも、義孝はふと立ち止まると、ズボンの後ろポケットを探り出した。何を取り出したのかは、遠くて見えなかったけど、何かを躊躇っているようにも見える。

 

「義孝……?」

 

 ポツリと呟いた声に不安がある。いつもなら真っ直ぐにここに来るのに、立ち止まる事などなかったのに……。

 

 そう思っているうちに、義孝は踵を返し、来た道を戻っていく。

 

 どこへ行くんだろう。そんな疑問が沸き上がった時、義孝の足がポストの間で止まった。そして、少しの迷いのうちに、徐に何かを入れた。ポストの前にいるのだから、きっと手紙だろうと思う。

 

 でも、誰に出すの? 

 

そう思うのは、ここへ来て、初めて見るからだ。義孝が誰かに手紙を書いている事など、見た事もない。

 

 そうこうしているうちに、再び義孝は、病院に向かって走り出した。

 

 義孝の行動が気にならないと言えば嘘になるけど、でもそれは義孝の顔を見るだけで、かき消されてしまうような小さな不安だったのかもしれない。

 

「紫音!」

 

 そんな弾んだ声をあげて、ようやく義孝は病室のドアを開けた。その、満面の笑みを見るだけで、私の心が落ち着くのだから不思議だ。もう随分と一緒にいるのに、萎える事のない気持ちがここにある。

 

「赤ちゃん……元気よ」

 

「ああ」

 

 そう言って目を細めて義孝は、赤ちゃんを覗き込んだ。恐々と触れる指先が震えている。

 

「壊れてしまわないか」

 

 そんな言葉を呟きながら、抱きあげる事を躊躇っている。

 

「大丈夫だから」

 

 クスクスと笑いながら言っても、義孝はなかなか心の準備が出来ないようだった。その気持ちは分からなくはない。

 

 赤ちゃんは本当に柔らかく、今にも折れてしまいそうなほどに小さな存在だ。母親の私でさえ、初めて抱いた時は怖かった。くにゃりとした首が、今にも落ちてしまうんじゃないかと思ったのだから。

 

 未だに躊躇する義孝を見兼ねて、私が先に赤ちゃんを抱き上げた。

 

「ほら」

 

 そう言って義孝に、赤ちゃんの抱き方を教えてあげる。

 

 義孝はベッドの脇にあるパイプ椅子に座り、私に促されながら両腕を差し出した。

 

 そのまま、赤ちゃんをそっと義孝の腕に乗せるように任せた。ピクリと義孝の肩が上がる。

 

「緊張しすぎ」

 

「そ、そうか?」

 

「あなたのパパだよ」

 

 そう言うと、義孝は照れ臭そうに笑った。

 

「パパか、そっか、俺、パパなんだな……そっか」

 

 今更確認するように、何度も頷きながらも、意を決した義孝は赤ちゃんを優しく包みこんだ。

 

「ちっちゃい……」

 

 義孝は呟きながら、赤ちゃんを穴が開くほどに見つめていた。その瞳は微かに濡れている。

 

「義孝……泣いてるの?」

 

 そう言うと、義孝は嬉しそうにこくりと頷いた。

 

「紫音、ありがとう……頑張ってくれて」

 

「え? なに?」

 

 義孝の言葉が心をくすぐる。義孝は、赤ちゃんを抱いたまま、今度は私を見つめてくれている。

 

 いつもなら慣れている義孝の視線に、照れるばかりだ。

 

「ありがとうって、何回言っても足りないよ。こんなに可愛い赤ちゃん産んでくれて、俺の赤ちゃん産んでくれて、すごく嬉しい」

 

「義孝」

 

「でも、産んでくれたのが紫音で良かった……本当に良かった。ありがとう、俺、幸せだ」

 

 赤ちゃんを愛しそうに抱しめる義孝を見て、私も幸せな気持ちになった。抱いてくれる人が義孝で良かった。パパが義孝で良かった。

 

 私だってそう感じてる。

 

 幸せなのは私の方だよ。

 

「赤ちゃんにやっと会えた」

 

 義孝は、更に目を細めて赤ちゃんの頬に優しく唇をあてた。

 

 どれだけ長い時間、義孝は赤ちゃんを抱いていただろう。どんなに抱いても飽きないというような顔をしている。いつまでたっても頬が緩みっぱなしだった。

 

 そして、私はそれを見ているだけで、温かな心に包まれていた。

 

 赤ちゃんもようやく義孝に抱かれた事に安心しているのか、お腹が空いている時間のはずなのに、ずっとすやすやと眠っている。

 

 ふと、私はいつまでも『赤ちゃん』と呼ぶのではなく、名前を呼んであげたくなった。そっと私は義孝の顔を覗き込んだ。

 

「赤ちゃんの名前だけど、義孝はもう決めてる?」

 

 義孝は案の定と言うべきか、「あっ」と言う顔をした。

 

「いや、ごめんまだ……だって、早く抱きたいって気持ちばっかりで決めるの忘れてた……」

 

 義孝は赤ちゃんを見たままに、申し訳なさそうに答えた。

 

 でもそれで少しホッとした私がいる。なぜなら、私にはずっと温めていた名前があったからだ。

 

 いいのよ、なんて言いながら、私は自分の案を切り出した。

 

「私ね、義孝の絵が好き」

 

 そう言うと、義孝は視線を上げ、不思議そうに私を見つめてきた。

 

「え、なに突然」

 

「それから、絵を描く時の真剣な眼差しも好き」

 

「え、あ……うん。ありがとう」

 

 まだキョトンとしている。そんな顔の義孝も好き。そう思いながら、私は赤ちゃんに視線を落とし、話を続けた。

 

「私達がお互いの愛を感じた時は、やっぱり義孝が私を描いてくれた時だった。二人を結んだ絵……だから、この子の名前。結絵(ゆえ)ってどうかなと思って」

 

 そう言うと、義孝は納得したように「ああ」と頷くと、同じように赤ちゃんを見つめる。

 

 義孝はそれ以上何も言わず沈黙したものだから、もしかしてダメなのかな、と思った。どうなんだろう、なんて思いながら不安げに義孝を見遣ると、義孝は赤ちゃんの頬を指で撫で、優しく微笑んでくれていた。

 

「結絵……」

 

「ダメかな?」

 

「ううん、良い名前だと思って、何度も心の中で呼んでた」

 

そう言って満面の笑顔を私にくれた。

 

「結絵……うん、いい名前だね」

 

「いいの?」

 

「いいに決まってる。それ以外、もう考えられなくなった」

 

 それから、義孝は何度も「結絵」と呼んでいた。愛しそうに、その唇から名前が零れる度に、私はいつも、幸せに包まれる。

 

「そう言えば、さっき、誰に手紙出してたの?」

 

 そう聞くなり、義孝は一瞬だが息をのんだ気がした。聞いてはいけなかった? そう思いながらも答えを待つ。

 

「ああ、あれ」

 

「うん」

 

 聞き入る私に、義孝はどこか言葉を選んでいる風に見える。

 

「農場のおじさんとおばさんに……」

 

「あ、そうなんだ」

 

 私の言葉を聞いて、義孝がホッと胸を撫で下ろしたように見えたのは気のせいだろうか。でも、こんなに結絵を大切そうに抱きしめてくれる義孝を疑う事は出来ない。

 

「うん、ずっとお世話になってたし、今は赤ちゃんが生まれて幸せだって書いて送ったんだ」

 

 そう義孝が言った。

 

「そう、だったら今度、結絵が大きくなったら連れて行ってあげようよ」

 

「うん、そうだね」

 

 私は、その言葉を信じる事にした。疑っても仕方がない。今は、目の前に義孝がいる。それが全てなんだから……そう思った。









    








               

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