〜 vol :24




 それからの、義孝の親ばか振りときたら、私でも娘に嫉妬するくらいだった。

 

漁の休みの日は、あの義孝が絵を描く事も忘れ、結絵に付きっきりになる。まるで、一生分の愛情を注いでいるかのように、飽きる事無く、結絵の世話をしてくれた。

 

それでも、私への愛情が薄れた訳でもなく、常に気遣ってくれながら、結絵が眠りについた頃には、ちゃんと二人の時間を大切にしてくれる。

 

「こんなに幸せで、俺は罰が当たらないだろうか?」

 

 そんな言葉が、いつしか義孝の口癖になっていた気がする。だから、いつも私は「大丈夫」と、笑っていた。

 

優しい旦那に恵まれ、可愛い我が子まで授かった。あたり前の事がこんなに、怖いと感じる程に幸せだった。 

 

 私も結絵も、義孝の愛情を存分に注がれ続け、本当に幸せな日々を過ごした。

 

義孝の言う「罰」が振りかかるんじゃないか、と心に不安を抱いていたのは、聞き流す振りをしていた私だったかもしれない。





   ◇





そんな中、結絵は大きな病気もせず健やかに育ち、やがて、三歳の誕生日を向かえようという夏の終り。

 

早朝にも関わらず、結絵は、いつも義孝が仕事へ出掛ける頃には起きていた。

 

連語が話せるようになった結絵は「パパ、バイバイ」と、目を擦りながら、小さな手で義孝の服を掴んで玄関まで送るのが日課だ。

 

毎日、その手を放す事を躊躇いながら、後ろ髪をひかれる思いで手を握っていただろう。義孝は、結絵の目線にしゃがみ、名残惜しそうに「いってくるよ」と、頬を撫でる。微笑ましい光景に、私はいつも目を細めるばかりだった。

 

「今日もいつもの時間になる?」

 

「いや、昼には帰ってくるよ」

 

「そうなの?」

 

「最後の仕上げが残ってる絵があるんだ。それを仕上げたいから、今日は付き合いなく帰るから」

 

「分かった。だったらお昼ご飯は結絵と食べれるね」

 

「ああ」

 

そう言って笑い、結絵に見送られながら、漁に出て行った義孝は、何度も振り返り手を振る。

 

「バイバーイ」

 

 小さなつま先を立てて、結絵は笑顔を見せた。

 

「パパ、今日は早いって」

 

「はやい?」

 

「うん。一緒にお昼ご飯食べれるよ、ママと一緒に作ろうか?」

 

 そう言うと、ご機嫌の笑顔を見せてくれた。だが、すぐさま目をこする。義孝の姿が見えなくなって、私は時計を見遣った。

 

「結絵、まだ眠いでしょ」

 

まだ早すぎる時間に、こくりと頷いた結絵を抱え、私は寝かしつける為に布団へと戻った。

 

結絵が二度寝をし始めた頃に、やんわりと私は起き上がり、朝食の準備をする。エプロンをかけ流し台に立つと、目の前にある小窓を開け、日課のように遠い海の空を眺めた。

 

朝日が目にはまだ眩しく、今日も良い天気になればと願う。

 

だが、その日の遠い空は、はっきりとはしないものの目を凝らして見れば微かにどんよりと曇っているようで、妙な胸騒ぎが私の不安をかき立てた。

 

「帰って来るまで、この天気が持てばいいんだけど……」

 

私は無意識にそう呟いていた。

 

しっくりしない気持ちを抱えたまま、私は朝食の準備にとりかかった。

 

合間には洗濯機を回したり玄関を掃除したり、いつもの忙しさに追いまわされているうちに、私の不安は次第にかき消されていった。

 

そろそろ結絵を起こして朝食を食べさせなければと思いつつ、洗濯機の脱水が終り、干してからでもいいか、と洗濯物をカゴに詰め込み外に出た時だった。

 

雨が頬に当たり、私は空を見上げた。

 

「ああ、降ってきた……」

 

そう言いながら、居間にある時計を見遣る。

 

「そろそろ義孝は沖に出ている頃だし、影響ないかしら……」

 

そう、自分を安心させるように呟く。

 

嵐になって波が高くなっても、港よりは沖の方が安全だと聞いた事を思い出していた。

 

大丈夫、何度もそう自分に言い聞かせた。

 

でも、この程度の雨なら波には問題もないだろうし、いつものように帰ってくるはず。と、私は地面に下ろした洗濯物の籠を、もう一度抱え込むと、家の中に入り、縁側へと向かった。 

 

洗濯物を縁側に干している最中、瞼をこすりながら、ようやく結絵も起きてきた。

 

「ママ……パパ、かえってきた?」

 

「あ、おはよう、まだだよ」 

 

そう言いながら洗濯物を干す横で、結絵は洗濯籠を覗き込むようにしゃがみ込むと、私を見上げて笑った。

 

「おなか、へったね、パパは、まだ?」

 

「ま〜だだよ。だって結絵は今から朝ご飯でしょ? パパと食べるのはお昼ご飯だよ」

 

「な〜んだ」

 

クスクスと笑顔を見せる結絵に、私は何度も癒される。

 

「そうだ、パパが帰ってくる頃、一緒に迎えに行こうか?」

 

「うんっ!」

 

結絵は本当に嬉しそうに笑う子だった。だが、外を見れば、いつのまにか激しくなっている雨に、私は眉をひそめた。

 

「あぁ、でも……こんな雨じゃ結絵お外出られないかも」

 

そう言った私に、少し唇を尖らせた結絵も外を見つめた。

 

「すごいねぇ、あめね。パパ。だいじょうぶ?」

 

結絵は遠くに光る雨雲を見上げ、不安そうに呟く。

 

「大丈夫よ」

 

私は、自分に言い聞かせるように答えた。

それからも、さらに雨は激しくなるばかりで、昼になっても止む気配はなかった。

 

 今日に限って、大丈夫、大丈夫……と、そんな事ばかり考えてしまう。

 

「あめ、ふってるねぇ」

 

 縁側から空を見上げる結絵も、心なしか不安そうだ。

 

「ふってるね」

 

そう応えると、昼を示す時計が鳴った。

 

「義孝……」

 

結絵を連れて迎えに行く事を諦めた私は、お腹が空いたという結絵に、せっかく義孝が帰ってくるのだからと言って我慢をさせた。

 

でも、昼には帰ると言った義孝がまだ来ない。やっぱり今日も、みんなに捕まってるのかも知れないな、と考えた。

 

仕上げたい絵があると言っていたけど、このままの天気だと明日の漁はなさそうだし……そう思いつつも、義孝が出かけて行った先を見遣り、姿が見える事を願った。

 

「おなかすいた〜」

 

 既に昼を過ぎ、昼寝をする時間も重なって結絵がぐずり始めた。

 

「そうだね、お昼、食べる?」

 

 そう聞いたが、お腹が空いたと言いながらも、今日は義孝と一緒だと知っている結絵は首を横に振った。

 

「パパと、たべる」

 

 そう言って俯いて、涙を堪えているようだ。

 

「もう少し待ってみようか」

 

 私は結絵の髪を撫でながら、膝に乗せた。縋るように甘える結絵を抱きしめる。

 

居間のテーブルに昼食を並べ待ったが、既に冷めてしまっている。私は何度も時計を見ては、溜め息をついた。結絵はお腹が空いた事を紛らわすように、絵本を広げている。

 

「これ、よんで」

 

と、何冊も持ってくる結絵を相手にしながらも、私の心は上の空で、次第に不安は騒ぎ出していた。

 

早く帰ると言った日に、こんなに遅いなんて初めてかもしれない、例え漁師仲間との話が盛り上がっていたとしても、いつもなら、何かと理由をつけては、とっくに帰って来てもおかしくない時間だった。

 

時計は既に二時を指している。

 

「いくら何でも……遅いかも……」

 

私は思い立ち、電話に手を伸ばした時だった。

 

何の前触れもなく、大きな音を立てて勢いよく玄関のドアが開いた。突然の音に、私は驚いて振り向いたが、案の定、結絵は泣き出した。

 

「紫音さんっ! いるかいっ?!」

 

大声を出して入って来たのは、大輔さんだった。私は傍らに泣き始めた結絵を下ろすと、大輔さんに駆け寄った。

 

「どうしたんですか? 今日は漁には出なかったの?」

 

大輔さんは、弘子さんの旦那さんで、義孝と同じ船に乗っている人だ。その大輔さんがここにいるという事に、少し安心した私は胸を撫で下ろした表情で言った。

 

「義孝は?」

 

だが、大輔さんは肩で大きく息を吸いながら、落ち着け、と私の両肩を掴んだ。がっちりと強く掴まれた冷たい手に、私はハッとする。

 

雨合羽を着ているにも関わらず、全身ずぶ濡れ状態な事に気付いたのだ。どうしてここまで濡れて……そう思うも、ただ事ならぬ慌て様に、私の不安はまた膨らみ始めた。

 

「ママ〜〜〜」

 

「あ、ちょっとごめんなさい」

 

私は、大輔さんの手を徐に離すと、泣き続ける結絵を抱っこした。そして、結絵を宥めながら、再び大輔さんに近付いた。

 

「いったい、どうしたの?」

 

 声が震える。

 

「いいか? 落ちついて聞くんだぞ……」

 

そう言って、大輔さんは大きく深呼吸し、ごくりと生唾を飲み込んだ。

 

「船が……船がな……」

 

「船?」

 

「ああ、そうだ。よっちゃんの乗った船が……」

 

「な、何っ?」

 

重く聞き返した私を見つめたまま、大輔さんが動かない。更に、私の心が動揺する。でも、その次に出てきた言葉は、耳を疑うものだった。

 

「沈んだんだよ」

 

「え?」

 

 はっきり言って、大輔さんの言葉をすぐに信用できなかった。

 

 でも、大輔さんは「沈んじまった」と、暗い声で繰り返した。








    








               

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