〜 vol :25




「一時間ほど前だ……」

 

「えっ? 何? 何言っているのか……よく……」

 

 私は、定まりの利かない視線を、泳がせた。

 

「突然の大時化で、船が横風にあおられたらしいんだよ……そ、それで、すぐに近くにいた漁船が助けに行ったんだけどよぉ……」

 

大輔さんはそう言って、申し訳なさそうに硬く目を閉じ、泣き出した。いつも笑っている大輔さんが泣いている。目の前の状況に、私は抑えきれない涙が溢れた。 

 

信じた訳ではないのに、涙が出る。

 

義孝は無事だと思いたいのに……涙が止まらない。

 

「でも……大輔さんは、ここに……いるじゃない?」

 

やっと絞り出した声は震えている。私は藁をも掴む思いで聞いた。でも、大輔さんの顔色は見る見る悪くなり、暗い影を落とした。

 

「俺は今日、乗らなかったんだ……今朝方、お袋の奴が突然倒れて……俺は、病院に……だから、船には乗ってねぇ……」

 

そう、悔しそうに呟く大輔さんを見つめながら、私は全身の力が抜けていくのを感じた。

 

そして、私は結絵を抱しめたまま、床にストンとへたり込んだ。大輔さんが私の肩を揺らしながら、何かを叫んでいるようだったけど、何も聞こえない。

 

今、義孝の身に何が起こったのかさえ把握しきれない。

 

結絵を抱しめる腕は強くなるばかりなのに、私の心は空っぽになっていくだけ。

 

そして、暫らく口を噤んだまま、涙と同じように滴を打つ空を見つめていた。

 

「紫音ちゃん! しっかり!」

 

ハッと我に返った私は、大輔さんを見つめた。

 

「……しっかり……って……」

 

「一緒に港に行こう、もしかしたら、よっちゃんが助かって港に運ばれてるかもしれん」

 

 大輔さんの言う、僅かな希望にしがみつく様に、私は無意識のうちに立ちあがっていた。そして、頭の中が空っぽのまま、義孝がいるはずだと信じたい漁港へと、結絵を抱えたまま走り出していた。 

 

土砂降りの中、結絵にさえ何も着せずに、ただひたすら走っていた。

 

「義孝――っ!」

 

私の声が届くようにと、叫んだ言葉が澱んだ空を突き抜ける。

 

何もわからない結絵は、私の腕の中で揺られ、泣き叫ぶばかりだった。それでも私は構わず走り続けた。

 

お願いっ! 無事でいてっ!」

 

漁港に辿り着いて、そう叫ぶ私の目の前に、人だかりを見付けた。その人波をかき分けるように、すぐさま駆け寄る。

 

紫音ちゃん」

 

「結絵ちゃん連れてきたのっ?」

 

「落ちついて!」

 

 誰もが私に声をかけるが、その面持ちは悲痛だった。

 

「いったい何があったんですかっ?!」

 

誰とも構わず、私は周りに当り散らすように叫んだ。

 

「義孝は? 義孝は無事なんですよね?!」

 

その中心に横たわる人を見つけた。その人は、義孝と同じ船に乗る譲二さんだった。青白い表情を従えたまま動かない譲二さんに、私はよろよろと近付く。まだ息はあるようだ。

 

「譲二さん、義孝は? 義孝も一緒に帰って来てるんですよね」

 

大量に海水を飲んでいるらしく、譲二さんは、意識も朦朧としているらしい。何かを言いたげに口を動かすが、何も聞こえない。

 

「紫音ちゃん……譲二も助けられた一人で、今、弱ってんだ。勘弁してやってくれないか……」

 

助けただろう漁船の人が、申し訳なさそうに私の肩に手を置き、言った。

 

「でもっ……」

 

それでも納得のいかない私は、周りにいる人達に縋るしかなかった。結絵を抱きしめたまま、私は誰彼構わず問い質したけれど、みんな私から視線を外すだけだった。

 

「義孝はどこ?!」

 

「紫音ちゃん」

 

 大輔さんが、ぽつりと言った。

 

「助けられたのは、譲二と晴彦と、将だけだ……よっちゃんと邦宏はまだ……」

 

「まだ?」

 

「……海の中に……」

 

 そう言って、大輔さんは唇を噛んだ。

 

「そんな」

 

 それでも、私は信じられずに、あたりを見回した。既に船に碇は降ろされ、港に定着させられている。どう見ても、義孝を探しに行く気配はない。

 

 そうしているうちに、遠くから救急車のサイレンが近付く。助けられた晴彦さんと将ちゃんは、先に救急車で運ばれ、今、目の前に横たわる譲二さんを迎えに来たらしい。慌ただしく、譲二さんを気遣う声が飛ぶ。

 

その合間を縫って、私は再びお願いするしかなかった。 

 

「お願いしますっ! 義孝がまだ生きているかもしれないでしょ? 助けに行ってくれませんかっ! 誰かっ! お願いしますっ! まだ間に合うかもしれない……お願い……」

 

そう言って私は、結絵を抱えたまま、その場にしゃがみ込んでしまった。

 

「お願いします!」

 

もう声が出ないほど叫び続け、掠れた嗚咽が、喉の奥から漏れてくる。悲しみで肩は震え、結絵が痛いと泣くほど、腕の力を押さえきれなかった。

 

そんな時、誰かの手が肩に触れた。すると、その手は次第に結絵ともども、私を包み込んで抱きしめてくれた。

 

ゆっくりと顔を上げた私の目に飛び込んで来たのは、いつも優しく世話してくれる、邦宏さんのお母さん、瑞恵さんだった。

 

 一人息子の邦宏さんも、まだ見つかっていないと言うのに、とても落ち着き払っているように見える。

 

「紫音ちゃん……みんな一生懸命救助はしてくれたんだよ……」

 

「でも」

 

 私がそう言うと、瑞恵さんは小さく首を横に振った。

 

「いつまでも時化の海にいる訳にはいかない。海上ヘリも捜索してくれたけど、断念せざるを得なかったんだよ。無理をすれば、また、誰かが高波にさらわれるかもしれない。少しでも犠牲を少なくするには、早く諦めて帰ってくるしかなかったんだよ。わかるかい?」

 

「犠牲……」

 

その言葉に、今度は私が首を横に振った。

 

 解らない……助けないまま終わるなんて、解らない。どうして義孝が犠牲にならなければならないの?

 

「紫音ちゃん」

 

 悲しげな瑞恵さんの声に、私は縋りついた。

 

まだ独身で、一番若くて未来があったはずの一人息子なのだから、そんな大事な息子が見つからないと知れば悲しいに決まっている。なのに、この気丈さ……私には真似できない。慰めてくれている瑞恵さんだって、本当は辛いのだと言う事は解っていた。でも、どうしても諦める気にはなれなかった。

 

お願い、早く義孝を連れて帰って……そればかりが私の心を埋め尽くす。

 

だけど、どこかで思っていた。

 

もう、義孝は帰って来ない、と。

 

そう感じると、枯れる事のない涙が、再び止め処なく溢れ出す。

 

「……義孝……」

 

義孝の笑顔が、脳裏に浮かぶ。いつも、結絵を撫でていた、あの大きな手の温かさに、もう触れる事は出来ない。

 

私の名を呼ぶ声を聞く事もない。

 

抱きしめてくれる腕も……見つめてくれる視線も、ない。

 

もう……二人で結絵を守り、生きていく事も……叶わない。

 

「義孝……」

 

 非情に打ち付ける雨の冷たさが増していく。命を育んでくれていた海が、今は忌々しく高波をうねらせる。その音が、耳にいつまでも残っていた。

 

 

 

                         ◇

 

 

結局、大輔さんを除いて、あの日、船に乗っていた五人の船員の内、助けられたのは三人だけだった。

 

将ちゃんは、搬送先ですぐさま意識を取り戻したらしく、船が横転した際の状況を詳しく語ってくれたと言う。そして、譲二さんの意識も回復したと聞いた。

 

でも、晴彦さんだけは、治療も虚しく、意識も戻る事無く静かに病院のベッドで息を引き取ったらしい。

 

義孝と邦宏さんは、まだ、海の中だ。

 

前日の、突然の嵐が嘘のように晴れた翌日、海底に沈む漁船は海底カメラによって発見された。でも、潮の流れが速すぎて、誰も寄せ付けてはくれない海流に人は成す術がなかった。

 

将ちゃんの証言で、横波が来たと同時に海に投げ出されたらしい二人が、船内に取残された可能性も低く、義孝は未だ行方不明のままだった。

 

人が行方不明になって、七年は死亡届が出せないと聞いていたが、本心は、その方がいいと思っていた。

 

その間、例え可能性が低くても、どこかで助かっていてほしい、帰ってくるかもしれないという希望を持ち続けられるのだから。

 

でも、義孝は違う。

 

同じ船に乗っていた人が助けられたのだ。その時点で、義孝は七年も待たずとも死んだと見なされる。

 

もし、義孝の乗った船の人達全員が見つからなかった場合なら、七年は待っていられたのに。

 

例え、少なくても七年という希望を……結絵と共に生きる事が出来たかもしれないのに……。

 

でも、助かった人を責める訳にはいかない。譲二さんも将ちゃんも、待っている家族がいるのだから、助かった事を喜んであげなくてはならない。

 

そう……私が諦めるしかないんだ。

 

そうして、遺体のない葬式だけが、しめやかに執り行われた。だけど、心には大きな穴があき、虚しいだけだった。









    






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