〜 vol :26




 

 

あれから一ヶ月経った今も、まだ海の中で眠っているのは、義孝と邦宏くんだけ。受け入れるどころか、信じる事さえ、まだ出来ない。玄関の戸を、笑顔で開けて帰って来てくれるかもしれないと思っている。

 

 まさか、こんな日が来るなんて……義孝の笑顔を、二度と見る事が出来なくなるなんて夢にも思わなかったのに……。

 

義孝は生きていると信じたかったけれど、葬式で空っぽの棺を前に、笑う遺影を前に……義孝が本当に死んだのだという確信を付き付けられているようだった。

 

涙を、簡単には拭い去る事が出来ない。

 

逢いたい……逢いたい……逢いたい、逢いたい。

 

どんなに想っても届かない。

 

幼い結絵を抱えたまま、愛する人を失って、どう生きていけばいいのかわからない。毎日毎日苦しくて、それでも結絵を育てなければならなくて……。

 

状況が何もわからないで「パパ、おそいね」なんて、笑って義孝の帰りを待つ結絵を抱しめては、私は繰り返し泣き続けた。

 

涙が枯れない。

 

私はいつも、暇を見付けては、結絵を抱っこして海を眺めていた。時間の許す限り、誰よりも早く、一番に逢えるように願いながら、義孝の帰りを待っていた。

 

それがどんなに馬鹿げた事だと言われても、そうする事でしか、自分を保っていられなかった。

 

忘れられない人。忘れられない想い。簡単には、思い出になど出来るはずがない。

 

義孝は海に沈んだまま、でも……もしかしたら。その虚しい思いが込み上げる日々に溜息を落とす。

 

だけど、近所の温かい励ましや助けもあって、何とか私は生かされている。結絵の為に、そう思いながら。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 義孝がいない、結絵の三歳の誕生日。

 

「パパ遅いねぇ……」

 

 と、何気なく発する結絵の言葉が痛かった。言葉もはっきりと聞き取れるようになった結絵。

 

 走るスピードも速くなって、更に動き回る範囲も広がった。好き嫌いも増えて、我がままになった気もする。

 

 でも、笑顔はあの日のまま、眩しくて……。

 

 どの結絵も、義孝は知らない。

 

 一緒に育ててあげるはずだった小さな小さな宝物。今は、私一人だけに、その成長を見せてくれる。

 

「そうだね、でも、もうすぐ帰ってくるよ」

 

 夕食を終え、小さなケーキにロウソクを立てながら私は言った。結絵はワクワクした表情を見せながら、きちんと正座をして、目の前のケーキだけど見つめている。

 

 そう言えば、小さい頃からイチゴが大好きで、義孝が結絵の為だと言って、よく買ってきてくれてたっけ。

 

「結絵、イチゴ好きだもんね」

 

「うん、だいすき! パパがかってきてくれたイチゴがいちばん好き!」

 

 私は涙を堪え、笑った。

 

「パパ、はやくかえってこないかなぁ」

 

 そう言って結絵は、窓の外を見遣った。

 

 私以上に、こんな小さな結絵が義孝を覚えている。本当は、その心の中は寂しさで一杯なのかもしれない。

 

私はただ、無理やり作った笑顔で、結絵の小さな心に広がりつつある不安をかき消すしかなかった。

 

ロウソクを灯し、結絵が嬉しそうに消す。か弱い息が炎を揺らす。

 

「お誕生日おめでとう」

 

 月明かりだけで照らされ、暗くなった部屋で、私は涙を流しながら言った。声の震えが伝わったかもしれない。また、結絵を不安にさせてしまう。

 

 そう思った時だった。

 

「ママ、いっぱい泣いていいんだよ」

 

「え?」

 

「だって、みずえおばちゃんが言ってたもん」

 

 そう言って、食卓の下からそっとティッシュを一枚、私の目の前に差し出した。

 

「泣きたいときは、泣いていいんだよって。いっぱいいっぱい泣きなさいって」

 

「結絵」

 

 私は結絵を体を引きよせ、思い切り抱締めた。義孝の分まで、結絵が壊れてしまいそうなほどに、強く。

 

「ママ、いたい」

 

 義孝……結絵は優しい子に育ってるよ。義孝の優しさが全部伝わってるみたいに、温かくて、温かくて……。

 

 二人でケーキを食べ終わってすぐ、結絵は寝てしまった。そっと布団に寝かせ、私はそのおでこを撫でる。まだ、手の中にすっぽりと収まってしまう程に小さな結絵。

 

 私が守らなきゃ……そう、強くさせてくれる。

 

 ふと、義孝がよく絵を書いていた部屋を見遣った。

 

 義孝がいなくなってからは避けるように入らなかった部屋だ。

 

 私は、そっと襖を開けた。ぷん、と絵の具の匂いが鼻腔をくすぐる。懐かしくて、苦しい。それでも私はゆっくりと足を踏み入れた。

 

そこには、所狭しと義孝の描いた絵が並べられていた。 

 

暫らく見る事が出来なかった義孝が残してくれた絵を、ようやく見る事が出来るようになった。

 

結絵が安心したように眠っている姿を横目に、私は義孝の描き残した絵を順番に引っ張り出した。

 

その時、一番奥にひっそりと置かれた絵を見つけた。白い布がかけられている。三十センチ四方の小さなキャンパスだ。

 

私は何気なくそれを手に取り開けて見た。

 

「……これ」

 

 私は、いつも義孝が絵を描く時は、必ず隣りに居たつもりだった。でも、その絵は初めて目にする絵だった。

 

私は堪え切れずに、嗚咽を漏らしてしまった。結絵が起きないように片手で口を押さえる。

 

「義孝……」

 

 そこには、何ともいえない美しい紫色の夕暮れの海が描かれてあり、遠目に幼い子供が浜辺を歩いている。その先に、両手を広げて待つ人がいる。

 

私は、その子供を指先でなぞりながら「結絵」と呟いた。それから、その先の人物に指先を滑らせる。

 

「……これは、私?」

 

 そして、キャンパスの隅に綴ってある「愛しい人」というサインを撫でた。

 

キャンパスの裏から一枚の紙切れが、ひらり、と舞った。そこには「ハッピーバースデイ」の文字があった。

 

義孝の字が、徐々に涙で滲んでいく。

 

『一番嫌いになった色だ』

 

そう言って、暫らく使わなかった紫を、惜しげもなく使っている。本当はこの色が大好きだ、と伝わってくる愛情。

 

全てがこの手をすり抜けて、抱締められない私は、ここに義孝がいない哀しい現実を更に痛感した。

 

「……義孝ぁ」

 

きっと、結絵の誕生日にプレゼントする初めての絵として、隠れて描いていたんだろう。その義孝の、愛の姿を脳裏に想像するだけで苦しかった。

 

そして、何より愛しかった。

 

「義孝……会いたい、会いたい。もう一度だけでもいい……抱しめてよ……お願い、義孝……」

 

 私は義孝の最後の絵を抱締めながら呟き、一晩中泣き続けた。








 

    







 

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