それからも、私は心のどこかで淡い期待を胸に抱いていたのかもしれない。
二人で食べていく為に働きながら、結絵を保育園に預け、忙しさに追われる日々。
だけど、義孝への想いは、消えるどころか日増しに強くなっていく気がする。
何もかも終えると、毎日のように結絵を連れて変わらず港に来ていた。その海はいつも夕暮れ、ほんの数十分間、ただ海を眺めて結絵の相手をする。
「そろそろ帰ろうか、結絵」
海に落ちる陽を眺めながら言った。
「まだ、もうすこし」
「でも、ご飯の用意しなくちゃ。お腹空いたでしょ?」
すると、結絵は、私と同じ方向を眺め呟く。
「パパも、ちゃんと、ごはんたべてるかな」
何気ないその言葉が胸の奥に突き刺さる。軋む鼓動が痛い。
「……うん、大丈夫だよ」
震える唇を噛締め、そう応えるのが精一杯だった。
結絵は私の声を受け取ると、すっと立ち上がり、足に纏わりつく。そして、ギュッと小さな手を握りしめた。
私は結絵を抱き上げると、再び水平線を見遣る。悲しみに襲われ、やはり今日も義孝は帰らないんだ、と肩を落とした時だった。
「紫音……?」
そう後方から声をかけられ、私の鼓動が高鳴った。聞き覚えのある声に、恐る恐る振りかえる。思わず息を呑んだ。
「……お母、さん?」
目の前に立っているのは、紛れもなく浜村の母だった。
「どうしてここが?」
私は強く結絵を抱しめた。視界が揺らぎ、足が震える。
「ずっと……知ってたよ」
母はゆっくりと近付きながら、結絵を愛しそうに眺めると、そっと腕を伸ばした。細くしなやかな指先で、結絵の前髪を優しくかきあげる。
連れて行かれる、そう思った私は思わず、抱きしめている結絵の体を引き、その指先から離した。
「ずっと?」
そんな疑問を投げかけながら。母は、ゆっくりと頷いた。
「ええ」
「どう、して……?」
困惑する私に、母は昔のように優しく微笑んだ。
「あなたは、ずっと浜村と連絡を絶ってきたと思っていたでしょうけど、義孝さんがね、あなたをさらった事を、悪いと思っていたんでしょう、結絵を妊娠してると知った頃かしら、私宛に連絡を下さったの」
「義孝が?」
「ええ、孫が生まれることを知らせてくれた」
私はゆっくりと結絵に視線を落とした。そして、ハッと思いだす。
以前、義孝が手紙を出しているのを見た。あれは、農場でお世話になったご夫婦にではなく、母に宛てた手紙だったのだ。
あの時、義孝が嘘をついた。
私に……嘘を……。
その瞬間、嫌な思い出が蘇る。私を縛りつけていた父の顔だ。
「お父さんは? お父さんは何も言わなかったの? 連れ戻して来い、とか……」
私は、恐る恐る聞いてみた。
義孝の手紙を受け取った時の父の顔を想像してみた。憤怒の形相ばかりがチラつく。
だが、母は少し寂しそうにフッと笑うと、小刻みに震える私の腕から、結絵をそっと抱きあげた。されるがまま、母の腕に結絵を預けた。しかし、何も答えようとしない母に、もう一度尋ねようと口を開きかけた時だ。
「お父さんは……亡くなったのよ」
その言葉に、頭の中が真っ白になっていった。
母はそう呟くと、結絵を「可愛いわね」と抱締め、頬擦りをした。
父が、死んだ……母の答えに当然驚いたが、何も言葉が見つからず、ただ涙が零れるだけで、下唇を強く噛み締めた。
父が死んだと聞いて、涙が出るとは思わなかった。憎んでいたはずなのに、涙が止まらないなんて笑える。
神様、これが私に与えられた罰なのでしょうか。
私は失ってばかりだ。何もかも……人を傷つけた私への……これが天罰。
「そろそろ風も冷たくなってきたわ。結絵が風邪をひいてしまう」
母は、そう言って結絵を抱いたまま踵を返した。
「この近くに住んでいるんでしょう? 立ち話もなんだから……あなたの住んでいる家も見たいわ」
頬の涙を拭い、母の後ろ姿を見つめた。
そして、何も言えないまま、義孝と暮らした家へと案内するべく歩き出した。
◇
小さな食卓に母と向かい合って座り、結絵を私の脇に遊ばせていた。なかなか話を始めるきっかけがつかめない。母も口を開かず、結絵の遊ぶ姿を見つめている。
よく見れば、老けた気がする。白髪も多くなり、目尻の皺も深くなっている。それなりの世間の制裁も受けただろう。
私のせいで、気苦労をかけたに違いない。
「あの……」
こうしていてもダメだと思い、切りだした。でも、言葉を遮るように、母の方から話し始めた。
「何しに来たのか……でしょ?」
母の言葉に軽く頷き、疲れきった眼差しを見つめた。
「一ヶ月前だったかな? 新聞で見たのよ、義孝さんの乗った船が沈没した事、そして……亡くなった事。義孝さんの名前を見つけた時、残されたあなた達の事を思うと胸が苦しくて苦しくて。いても立ってもいられなかった。だから、私は何も考えずにここに来てしまったの」
「お母さん……」
「さっき、あなた達の姿を見つけた時、それはもう嬉しくてね」
言いながら、母は、目の前にあるお茶を啜った。口紅のついた縁を撫でる。
「だってそうでしょう? ずっと離れていた娘にやっと会う事が出来たんだから。勿論、孫は可愛いわよ。でも娘とは違う、何だかんだ言っても、やっぱり自分の産んだ娘が一番可愛いのよ。それはきっと、お父さんも同じ気持ちだったはずよ」
「お父さんも?」
「ええ、そうよ。あなたが突然いなくなってからすぐに、お父さんは何もかもの気力を失った。そんな精神で病気に勝つ事なんて無理だったの。最後は呆気なかったわ。半月だった……」
「え?」
「たった半月よ……あなたが出て行ってから、お父さんが生きていたのは……その半分は、ほとんど病院のベッドの上だった」
「そんなに、早く……」
「でも、あなたを責める為に来たんじゃないの。ごめんなさいね。これからどうするのかを聞きたくて」
やんわりと話す母に、私は結絵を引き寄せ抱しめて俯いてしまった。どうするなんて考えてなかった。
これからも、ここで義孝を待つ事しか……考えてない。
「もし、良かったら浜村に戻ってこない?」
思いも寄らない母の言葉に、驚きはしたけれど、顔を上げる事が出来なかった。
そして、強く首を横に振った。
「出来ないっ……それだけは出来ないっ!」
「どうして?」
「だってそうでしょ?」
私は泣きながら顔を上げると、訴えるように母を見つめた。
「私は勝手に浜村を捨てたのよ。お父さんが死んだのも、きっと私のせい。なのに義孝がいなくなったから、はいそうですかって戻れる訳ないじゃない。そこまで私は無神経じゃないよ……それに私が戻ったって浜村は立直らないはずよ」
「誰が浜村は潰れたなんて言った?」
「え? じゃあ……誰が?」
結絵を抱きしめる腕に力が入り、強く拳を握り締めた。
「まさか」
「ええ、そのまさかよ」
「そんな……武雄さん、なの?」
母は、ゆっくりと頷いた。
「どうして? 私、離婚届を置いてきたのよ。それなのに武雄さんがどうして浜村にいてくれているの? どうして」
詰め寄る私に、母は小さく溜め息を漏らすと、一度キュッと唇を噛み締めた。
「武雄さんは……離婚届を出してない」
その言葉に、私は声も出せず目を見開いた。
「お父さんね、初め、それはもう怒って手が付けられないほどで、武雄さんにも何度も土下座して謝ってた。それで離婚届も出してくれって頼んでたのよ。でも、武雄さんはとうとう首を縦には振ろうとしなかった。無口な人でしょう? だから、本当の真意はわからないけれど、お父さんの病気も知っていたし、自分がいなくなれば浜村は潰れる事も知っていた。だから自分が守るんだって考えてくれたんでしょうね」
「そんな……でも」
「だから、今でも浜村は健在。それもこれも武雄さんのお陰だわ」
「でも、私はここで義孝と結婚したわ。それに、結絵が生まれた時も、ちゃんと……」
「離婚届を出したのは私……武雄さんも知らないかもしれない……もし、知っていたとしても、知らない振りをするわ。そういう人でしょ、武雄さんって」
「そうかもしれないけど、でも結絵を連れて帰ったら、そんな事言ってられなくなるわ。きっと、お母さんだって……世間体もあるでしょ? 出て行ったはずの妻がひょっこり帰って来て、子供まで連れてたなんて、いい笑い者になるだけよ。誰の子だって噂になるのは目に見えているじゃない」
「紫音……」
「この子を好奇の目に晒す訳にはいかないの。尚更、帰れるわけないじゃないの」
そう言って結絵を抱締めた時、母が少し笑ったような気がした。こんな時に何を笑ってるの? そう思った時だ。
母はまたお茶を啜ると、飲み干した湯呑を食卓に置いた。そして。
「それは、もう、話がついてるのよ」
「え?」
「あなたが帰ろうとはしない事ぐらい、私にはわかってたの。でも、武雄さんが……」
「武雄さんが?」
「そう。さっきは居た堪れなくなって家を飛び出してきた……って言ったわよね」
「……そう、ね」
「本当はね、私は少し躊躇ってたのよ。妻に逃げられ、お父さんも死んで、それでも尚、浜村を継いでくれると言った武雄さんに悪い気がしてた……でも、そうこう悩んでいるうちに、武雄さんが私にそっとお金を手渡してくれたの。あなたを迎えに行って欲しいって一言だけ添えて」
自分の耳を疑った。
武雄が、私を迎えに行けと言った?
嘘でしょう? だって、私は何もかも捨てたのに……武雄を捨てたのに。
「でも、それは結絵がいる事を知らないから……」
動揺しながらも、そう口を挟もうとした私に、母はまた笑って言った。
「知ってるのよ、紫音。武雄さんは何もかも知ってる。それでもあなたと結絵を迎えに行って欲しいと、私に頼んできたのよ。義孝さんが死んで、それに付け込もうとした訳でもない」