〜 vol :27




それからも、私は心のどこかで淡い期待を胸に抱いていたのかもしれない。

 

二人で食べていく為に働きながら、結絵を保育園に預け、忙しさに追われる日々。

 

だけど、義孝への想いは、消えるどころか日増しに強くなっていく気がする。

 

何もかも終えると、毎日のように結絵を連れて変わらず港に来ていた。その海はいつも夕暮れ、ほんの数十分間、ただ海を眺めて結絵の相手をする。

 

「そろそろ帰ろうか、結絵」

 

 海に落ちる陽を眺めながら言った。

 

「まだ、もうすこし」

 

「でも、ご飯の用意しなくちゃ。お腹空いたでしょ?」

 

すると、結絵は、私と同じ方向を眺め呟く。

 

「パパも、ちゃんと、ごはんたべてるかな」

 

何気ないその言葉が胸の奥に突き刺さる。軋む鼓動が痛い。

 

「……うん、大丈夫だよ」

 

 震える唇を噛締め、そう応えるのが精一杯だった。

 

 結絵は私の声を受け取ると、すっと立ち上がり、足に纏わりつく。そして、ギュッと小さな手を握りしめた。

 

私は結絵を抱き上げると、再び水平線を見遣る。悲しみに襲われ、やはり今日も義孝は帰らないんだ、と肩を落とした時だった。

 

「紫音……?」

 

 そう後方から声をかけられ、私の鼓動が高鳴った。聞き覚えのある声に、恐る恐る振りかえる。思わず息を呑んだ。

 

「……お母、さん?」

 

 目の前に立っているのは、紛れもなく浜村の母だった。

 

「どうしてここが?」

 

 私は強く結絵を抱しめた。視界が揺らぎ、足が震える。

 

「ずっと……知ってたよ」

 

 母はゆっくりと近付きながら、結絵を愛しそうに眺めると、そっと腕を伸ばした。細くしなやかな指先で、結絵の前髪を優しくかきあげる。

 

 連れて行かれる、そう思った私は思わず、抱きしめている結絵の体を引き、その指先から離した。

 

「ずっと?」

 

 そんな疑問を投げかけながら。母は、ゆっくりと頷いた。

 

「ええ」

 

「どう、して……?」

 

 困惑する私に、母は昔のように優しく微笑んだ。

 

「あなたは、ずっと浜村と連絡を絶ってきたと思っていたでしょうけど、義孝さんがね、あなたをさらった事を、悪いと思っていたんでしょう、結絵を妊娠してると知った頃かしら、私宛に連絡を下さったの」

 

「義孝が?」

 

「ええ、孫が生まれることを知らせてくれた」

 

 私はゆっくりと結絵に視線を落とした。そして、ハッと思いだす。

 

 以前、義孝が手紙を出しているのを見た。あれは、農場でお世話になったご夫婦にではなく、母に宛てた手紙だったのだ。

 

 あの時、義孝が嘘をついた。

 

 私に……嘘を……。

 

 その瞬間、嫌な思い出が蘇る。私を縛りつけていた父の顔だ。

 

「お父さんは? お父さんは何も言わなかったの? 連れ戻して来い、とか……」

 

 私は、恐る恐る聞いてみた。

 

義孝の手紙を受け取った時の父の顔を想像してみた。憤怒の形相ばかりがチラつく。

 

だが、母は少し寂しそうにフッと笑うと、小刻みに震える私の腕から、結絵をそっと抱きあげた。されるがまま、母の腕に結絵を預けた。しかし、何も答えようとしない母に、もう一度尋ねようと口を開きかけた時だ。

 

「お父さんは……亡くなったのよ」

 

 その言葉に、頭の中が真っ白になっていった。

 

母はそう呟くと、結絵を「可愛いわね」と抱締め、頬擦りをした。

 

父が、死んだ……母の答えに当然驚いたが、何も言葉が見つからず、ただ涙が零れるだけで、下唇を強く噛み締めた。

 

父が死んだと聞いて、涙が出るとは思わなかった。憎んでいたはずなのに、涙が止まらないなんて笑える。

 

神様、これが私に与えられた罰なのでしょうか。

 

私は失ってばかりだ。何もかも……人を傷つけた私への……これが天罰。

 

「そろそろ風も冷たくなってきたわ。結絵が風邪をひいてしまう」

 

母は、そう言って結絵を抱いたまま踵を返した。

 

「この近くに住んでいるんでしょう? 立ち話もなんだから……あなたの住んでいる家も見たいわ」

 

 頬の涙を拭い、母の後ろ姿を見つめた。

 

そして、何も言えないまま、義孝と暮らした家へと案内するべく歩き出した。

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

小さな食卓に母と向かい合って座り、結絵を私の脇に遊ばせていた。なかなか話を始めるきっかけがつかめない。母も口を開かず、結絵の遊ぶ姿を見つめている。

 

よく見れば、老けた気がする。白髪も多くなり、目尻の皺も深くなっている。それなりの世間の制裁も受けただろう。

 

私のせいで、気苦労をかけたに違いない。

 

「あの……」

 

こうしていてもダメだと思い、切りだした。でも、言葉を遮るように、母の方から話し始めた。

 

「何しに来たのか……でしょ?」

 

母の言葉に軽く頷き、疲れきった眼差しを見つめた。

 

「一ヶ月前だったかな? 新聞で見たのよ、義孝さんの乗った船が沈没した事、そして……亡くなった事。義孝さんの名前を見つけた時、残されたあなた達の事を思うと胸が苦しくて苦しくて。いても立ってもいられなかった。だから、私は何も考えずにここに来てしまったの」

 

「お母さん……」

 

「さっき、あなた達の姿を見つけた時、それはもう嬉しくてね」

 

 言いながら、母は、目の前にあるお茶を啜った。口紅のついた縁を撫でる。

 

「だってそうでしょう? ずっと離れていた娘にやっと会う事が出来たんだから。勿論、孫は可愛いわよ。でも娘とは違う、何だかんだ言っても、やっぱり自分の産んだ娘が一番可愛いのよ。それはきっと、お父さんも同じ気持ちだったはずよ」

 

「お父さんも?」

 

「ええ、そうよ。あなたが突然いなくなってからすぐに、お父さんは何もかもの気力を失った。そんな精神で病気に勝つ事なんて無理だったの。最後は呆気なかったわ。半月だった……」

 

「え?」

 

「たった半月よ……あなたが出て行ってから、お父さんが生きていたのは……その半分は、ほとんど病院のベッドの上だった」

 

「そんなに、早く……」

 

「でも、あなたを責める為に来たんじゃないの。ごめんなさいね。これからどうするのかを聞きたくて」

 

やんわりと話す母に、私は結絵を引き寄せ抱しめて俯いてしまった。どうするなんて考えてなかった。

 

これからも、ここで義孝を待つ事しか……考えてない。

 

「もし、良かったら浜村に戻ってこない?」

 

思いも寄らない母の言葉に、驚きはしたけれど、顔を上げる事が出来なかった。

 

そして、強く首を横に振った。

 

「出来ないっ……それだけは出来ないっ!」

 

「どうして?」

 

「だってそうでしょ?」

 

私は泣きながら顔を上げると、訴えるように母を見つめた。

 

「私は勝手に浜村を捨てたのよ。お父さんが死んだのも、きっと私のせい。なのに義孝がいなくなったから、はいそうですかって戻れる訳ないじゃない。そこまで私は無神経じゃないよ……それに私が戻ったって浜村は立直らないはずよ」

 

「誰が浜村は潰れたなんて言った?」

 

「え? じゃあ……誰が?」

 

 結絵を抱きしめる腕に力が入り、強く拳を握り締めた。

 

「まさか」

 

「ええ、そのまさかよ」

 

「そんな……武雄さん、なの?」

 

母は、ゆっくりと頷いた。

 

「どうして? 私、離婚届を置いてきたのよ。それなのに武雄さんがどうして浜村にいてくれているの? どうして」

 

詰め寄る私に、母は小さく溜め息を漏らすと、一度キュッと唇を噛み締めた。

 

「武雄さんは……離婚届を出してない」

 

その言葉に、私は声も出せず目を見開いた。

 

「お父さんね、初め、それはもう怒って手が付けられないほどで、武雄さんにも何度も土下座して謝ってた。それで離婚届も出してくれって頼んでたのよ。でも、武雄さんはとうとう首を縦には振ろうとしなかった。無口な人でしょう? だから、本当の真意はわからないけれど、お父さんの病気も知っていたし、自分がいなくなれば浜村は潰れる事も知っていた。だから自分が守るんだって考えてくれたんでしょうね」

 

「そんな……でも」

 

「だから、今でも浜村は健在。それもこれも武雄さんのお陰だわ」

 

「でも、私はここで義孝と結婚したわ。それに、結絵が生まれた時も、ちゃんと……」

 

「離婚届を出したのは私……武雄さんも知らないかもしれない……もし、知っていたとしても、知らない振りをするわ。そういう人でしょ、武雄さんって」

 

「そうかもしれないけど、でも結絵を連れて帰ったら、そんな事言ってられなくなるわ。きっと、お母さんだって……世間体もあるでしょ? 出て行ったはずの妻がひょっこり帰って来て、子供まで連れてたなんて、いい笑い者になるだけよ。誰の子だって噂になるのは目に見えているじゃない」

 

「紫音……」

 

「この子を好奇の目に晒す訳にはいかないの。尚更、帰れるわけないじゃないの」

 

そう言って結絵を抱締めた時、母が少し笑ったような気がした。こんな時に何を笑ってるの? そう思った時だ。

 

母はまたお茶を啜ると、飲み干した湯呑を食卓に置いた。そして。

 

「それは、もう、話がついてるのよ」

 

「え?」

 

「あなたが帰ろうとはしない事ぐらい、私にはわかってたの。でも、武雄さんが……」

 

「武雄さんが?」

 

「そう。さっきは居た堪れなくなって家を飛び出してきた……って言ったわよね」

 

「……そう、ね」

 

「本当はね、私は少し躊躇ってたのよ。妻に逃げられ、お父さんも死んで、それでも尚、浜村を継いでくれると言った武雄さんに悪い気がしてた……でも、そうこう悩んでいるうちに、武雄さんが私にそっとお金を手渡してくれたの。あなたを迎えに行って欲しいって一言だけ添えて」

 

 自分の耳を疑った。

 

 武雄が、私を迎えに行けと言った?

 

 嘘でしょう? だって、私は何もかも捨てたのに……武雄を捨てたのに。

 

「でも、それは結絵がいる事を知らないから……」

 

動揺しながらも、そう口を挟もうとした私に、母はまた笑って言った。

 

「知ってるのよ、紫音。武雄さんは何もかも知ってる。それでもあなたと結絵を迎えに行って欲しいと、私に頼んできたのよ。義孝さんが死んで、それに付け込もうとした訳でもない」









    






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