元々は、私の我がままで家を飛び出したのに、それでも受け入れてくれるというの? そんなお人好し……いない。
ううん、本当は心のどこかで思ってたかもしれない。浅はかで、欲ばかりの私が、もし行く宛がなくなったら、武雄は受け入れてくれるんじゃないかって……こんなに義孝が愛しいのに、武雄に縋ろうとしているなんて。帰る場所があるなんて、きっと思ってた。
私は、愚かだ。そう思うと涙が止まらない。自分自身に、情けなく甘い。悔しくて堪らない。
義孝と駆け落ちして暮した事を、決して後悔などしなかったけど、武雄の優しさが心の奥までしみ込んでくるのを拒めない。
いい人だった。本当にいい人だったんだ。
そんな人を裏切ったのだ。誰かを愛しただけで周りが傷つく事も、今更ながら身に沁みてわかる。
「ごめんなさ……い」
そして私は、同じように母も傷つけていた事を知った。
結絵の母になって、どんなに娘が大切な存在かわかったし、離れて死んだと聞かされた父を、今頃になって愛しく思うなんて、私はとことん自分勝手だ。
母は、ゆっくりと立ち上がると、私の傍らに両膝をついた。そして、私の手をそっと握る。
「帰って来てくれるわね。紫音、みんな待ってるのよ」
でも、だからと言って簡単には頷けない。
「誰もあなたを悪く言う人なんか浜村にはいない。言いたい人には言わせておけばいいの。私があなた達を守りますから」
母は力強くそう言った。
それでも、私はすぐに頷く事が出来なかった。
心のどこかでは帰る事になるかもしれないと感じながらも、結絵の事を思うと辛かった。
もしも帰ってしまったら、結絵の中に生きる義孝が消えるような気がする。ここを離れれば、結絵は義孝を忘れるような気がする。
私は、結絵を抱きしめて泣いていた。
噛み砕いたような嗚咽が、部屋中に響いて暫らく、母はただジッと私を見つめていた。
いつも誰の味方でもなく、第三者的な存在だった母。自分の心の内をはっきりと明かす事のなかったそんな母が、何を思ったのかポツリと話だした。
「お母さんもね、昔は恋をしたのよ……」
「えっ?」
「いつか言った事あるでしょ? あなたにだけは辛い恋をして欲しくはなかった、って」
母の言葉に、私は一瞬考え込んだが、すぐに、それがいつの事なのかをはっきりと思い出す事が出来た。
義孝の事が父に知られた時だ。
部屋を出ていく母が、呟いた言葉だ。
「うん、確かに言われた事があるわ、でも、あれは私の聞き違いだと思ってたから……」
その言葉に、母は頬を緩める。
「そうね。私が恋なんて柄じゃないもんね」
「そういう意味じゃ、ない」
「いいのよ。でも、お母さんにも若い頃はあったんだからね」
「わかってる」
私はそう言って、指先で涙を拭いながら答えた。
母はそのまま、腰を下ろし、正座をすると、眠りそうな結絵の前髪をかきあげながら、目を細めた。
そして、しばらくの沈黙を経て、ふうっと短い息を吐いた。
「お父さんと結婚する前ね、お母さんには好きな人がいたのよ」
「……」
私は、寝息を立てる結絵を見遣った。
「あなたと義孝君と同じ幼馴染みたいな存在だった。やっぱり、ずっと好きで好きで、いつかは結婚したいと思ってたくらい」
「どうして、その人と結婚しなかったの?」
今度は私が、結絵の髪を撫でる。少し寝汗で髪がしっとりと湿っていた。
「出来なかったのよ」
その言葉に、結絵を撫でる手を止めると、母を見つめた。どうして? と言わんばかりの眼を向ける。
「お母さん達の時代のほとんどは、親が結婚相手を決めてたし、逆らえなかったってのもあるわね」
「そんなの……だからって、私にもそれを押し付けた訳じゃないでしょう」
「違う。勘違いしないで紫音。って言っても結果的にはそうなってしまったんだものね。その事で今更、弁解はしないつもり」
そう言って母は、まるで気持ちを落ちつかせるかのように、大きく肩を上げ深呼吸して見せた。
「義孝君とあなたを見ていて、ずっと感じてた。二人は引かれ合っているって解ってた。出来る事なら、あなた達二人を応援したいと思ってたんだけど……そんな時、お父さんの病気がわかって……」
そこまで言った母の頬に、一筋の雫が零れ落ちる。母が泣いたのを見るのは初めてだ。
「やっぱりこれは言い訳だね……ごめんなさい」
「……」
泣いている母に、私は何も言えなかった。ただ、じっと母の言葉に耳を傾ける。
「お父さんとのお見合いが決まってね、お母さんも、あなたと同じように彼と駆け落ちしようと考えてたのよ。でも、それは叶わなかった」
「え?」
母が、意外な行動をとろうとしていた事に、私は目を丸くした。
「どうして、叶わなかったの……?」
「それはね……彼が、死んだからよ」
「死んだ?」
「ええ、でも駆け落ちを考えていたのは私だけだった。彼には、そこまで考える余裕がなかったのかもしれない。無理やりお見合いさせられた日にね……彼は自殺したの」
母は宙を見遣り、どこを見ているともなく遠い昔を懐かしく思い出しているようだ。でも、その瞳の中には寂しげな記憶がある様見える。
「彼の最後の言葉はね……私宛の詩だった」
母は言いながら、目を閉じた。
「―――いつまでも想う
愛しい人
たとえこの恋が実らなくても
愛しい人
たとえこの愛が引き裂かれようとも
僕は君を愛し続ける
この時代に出会えた事を
愛したことを悔やみはしない
この手をすり抜けて行く君を
追いかけることが許されぬなら
僕はここで立ち止まり
君をいつまでも想い続ける
そして君は僕を忘れない―――」
静かにそう語った後、母はゆっくりと目を開けた。
私は『愛しい人』という言葉に、胸が締め付けられるほどに苦しくなった。義孝が残してくれた絵に、重なる。
「そう彼は遺書を残してね。私を置いて逝ってしまった……」
「そんなの……」
「言いたい事はわかるわ、そう、彼は卑怯だった。愛しているなら死を選ばずに、なぜ私をさらってくれなかったのかと、彼を恨んだ事もあった。でも、彼との楽しい想い出が邪魔をして、私は彼を恨みきる事など出来なかったの。彼は死ぬ事で、私の過去の心を支配しようとしたのにね……」
「お母さんは……どうしてその話を……私に?」
「応援するとは言ったものの、お母さんは怖かったの。本当に人を愛して盲目になった時、その人と結ばれないとわかったら、もしかしたらあなたが思いつめたりしないかって」
「そんな事」
「勿論、義孝君も彼と同じ事をしてしまうんじゃないかって……怖かった。愛する人を失う事がどんなに辛い事かわかっていたから、あなたを義孝君に近づけたくないと、心のどこかで感じてた部分があったかもしれない。そうだとしたら申し訳なくて」
「そんな……お母さんが謝る事じゃない」
「でも、あなた達には駆け落ちするほどの愛があったと信じてあげられなかった。その、二人で生きる強さを信じていれば……お父さんの病気がわかったとしても……私はあなたを義孝君に会わせてあげるべきだったと思う。そうすれば、こんな遠くまで来て、あなたが辛い思いをする事はなかったんじゃないかって思うの」
「お母さん……」
「例え、浜村がなくなっても、お父さんは孫を抱く幸せを感じれただろうし、義孝君が死ぬ事もなかったかもしれない。みんなが違った形であれ、幸せになれたかもしれないのに……」
母はゆっくりと瞼を閉じた。そして、幾筋もの涙がこぼれ落ちていく。
「未来を壊したのは私」
「どう言う事?」
「あの時、お父さんは正直に紫音に話すと言った」
「あの、時?」
「ええ。義孝君が空港に来てくれと言った事を……それを拒否したのは私だったのよ」
「え?」
「ああすれば、義孝君は紫音の愛がなくなったと思う、そしてあなたは、義孝君が逃げたと思う。そしたら二人の愛はおままごとだったと思うだろうって……お母さんが二人の人生を狂わせたの……お互いを思って愛を貫き、死ぬ事もなくなるだろうって……だから、私がお父さんに頼んだのよ」
「……」
「義孝君に、紫音を会わせないでほしいって……私が」
母の告白に私はまた言葉を失った。
でも今更、母を責めても仕方のない事だ。そう思うと不思議と心は穏やかだった。
過去を憎んだところで、義孝はもう帰っては来ない。それに、あの時、母に止められてなくて、空港に会いに行っていたとしたら、私は義孝について行ったかどうかも、今となってはわからない。
もしかしたら、怖くて逃げたかもしれない。そう思いたくはないけど、母の言う通り、おままごとで終っていたかもしれない。
もう、どうなっていたかなど誰にもわからない過去だけど、でも、あの時の純粋さを持って、私たちは再会した。だから、今があるのだと信じたい。本当に愛する義孝と同じ時間を過ごせたのだと思う。そして、結絵がいるのだと信じたい。
義孝も、きっと何も後悔していないだろう。だって、私たち家族は幸せだった……本当に幸せだったのだから。
母の愛した人は、死をもって母への愛を貫いた。
義孝は、私を見つめ、心に想い続けてくれる事を貫いてくれた。
二人とも何も違いはしない。ただ、一人の人を愛し抜いてくれたのだから、それが、どんな形にせよ、愛には変わりがない。
私は、みんなそれぞれの愛し方があるのだと母の告白で感じた。だから、私も私なりに愛を貫きたい。そう思えた。
「お母さんは、今でもその人を忘れられない?」
私の問いかけに、母はゆっくりと双眸を開いた。そして、私をしっかりと見据える。
「そうね。例え今、彼が生きていても……本当に愛していたから忘れない。私が忘れたら、彼との愛が嘘になってしまうもの」
結絵を抱きしめる腕が強くなる。
「そう、私も義孝を愛し続けたい。心の中でいつまでも生きていると感じたい。絶対に忘れない」
「その想いを、誰も咎めやしないわ」
「わかっ、てる」
「あなたの心はそれでいい、想い出があるんですものね。でも、結絵はどうするの? こんな小さな子には荷が重過ぎるんじゃない? 今の時代、母親が一人二役ってのは大変よ。これから大きくなってきっと不満だって出てくるわよ。そうなる前に」
「それもわかってる」
「別に武雄さんとよりを戻して欲しいって頼んでるんじゃないのよ……ただ、お母さんの元に戻って来て欲しいの。こんな遠くじゃなくて、ただ私の傍にいて欲しい。この目で、傍で結絵の成長も見届けたい」
「……わかってるよ」
私は呟きながら俯いた。
母の言っている事は痛いほどわかる。だからこそ心が苦しかった。苦しくて苦しくて、やり切れない気持ちだった。
結絵の事を考えると、私一人のわがままを通すわけにはいかないのかもしれないのだ。
母の言う通り、大きくなれば必ず不満は私に向けられるはず。それを怖いとは思わないけれど、その時の結絵の気持ちをわかってあげられる自信がない。
私の幸せだと感じる生活と、結絵の幸せだと感じる生活が、必ずしも同じ感覚であるという保証はないのだから。
そんな時に、私は一人で大丈夫なのだろうかと、やはり甘えてしまう。
母には近くにいて欲しいと願うだろう。そして、今の私も正直なところ母が恋しいのかもしれない。
こんな私は母親失格だろうか?
結絵を愛する気持ちは誰にも負けない。義孝を愛する気持ちも本物。なのに、込み上げる未来への不安が、心を支配している自分を、心底情けないと思った。
いったい私はどうすればいいの?
「ごめんなさい……すぐには」
一人で考える時間が欲しいと母に告げると、
「でも、一人では絶対に先には帰らないから」
と言って腰を上げた。
「すぐそこの旅館にいるわ、また明日来るわね」
と言い残し出て行った。
「……お母さん」
母を見送る事も出来ず、暫らく、私は結絵を抱いたまま動けなかった。
結絵は私の腕の中で安らいだ寝顔を見せてくれている。いつまでも眺めていたい天使の寝顔だ。
あなただけには辛い思いをさせるわけにはいかない。
昔、母が言った言葉を、今、結絵に呟く私がここにいる。