〜 vol :30




俯く私の目の前で、武雄は溜め息を付いた。

 

「俺はもう、干渉しない、でも」

 

そう言って武雄は立ちあがり、玄関に足を向けて行く。だが、私の横を通り過ぎたところで立ち止まると、振り向かないままに呟いた。

 

「でも、何を言われても浜村は出て行かない……いくら離婚してて他人でも、浜村の後継ぎが見つかるまでは俺が店を守るから、お前は何も心配する事はない」

 

「え?」

 

 驚いた声を出すと、武雄は私の方を見流した。

 

「言っとくがお前の為じゃない、お義母さんの為だ……――お義父さんの為でもあるがな」

 

「そんなっ……」

 

しかし、すぐさま武雄は視線を逸らし、玄関の方を見据えたまま言った。

 

「それから……お前の部屋は出て行くよ。俺は居候でいい。裏庭の離れを使うから」

 

そう言い残して、武雄は居間を出て行った。

 

私は、暫らく放心状態のまま動く事が出来なかった。どこまで武雄は優しいんだろう。結絵を憎んでもおかしくないのに、優しくしてくれて、私を罵倒してもいいのに何も言わない。どこまでもお人好しだ。

 

そう思うと涙が止めど無く溢れてくる。しかし反面、本当にこれでいいのだろうかと、自分を責める心もある。

 

迷惑をかけっぱなしの武雄の人生に、私はどうやって償えばいいのだろうか、と。

 

 その夜、久し振りに馴染みの飲み屋から電話がかかり、懐かしいママの声を聞いた。

 

『こんばんは〜。浜村さん?』

 

「はい」

 

『武ちゃんが珍しく酔っ払っちゃってね、もう閉店だし、お迎え頼むわ〜』

 

まるで、昔の生活に戻った錯覚さえあった。昔もこんな風に、よく電話がかかって来たものだ。

 

まだ、あの店に行ってるんだ、と思い電話を切ってすぐさま、母に寝ている結絵を任せて家を出た。

 

私は店に着いて暫らく、頭の隅に眠っていた想い出を呼び覚ましながら、飲み屋の看板を見上げた。

 

ここから始まったんだ……ここで義孝に会って、真実を知って……そして愛を取り戻した。

 

そうやって涙でかすむ目を擦り、しみじみと義孝との日々を振り返った。そうしている内に、なんだか入り辛くなってしまい、暫らく立ち尽くしていた。すると、店のドアが開き、見覚えのあるママが出てきた。

 

ママは相変わらず綺麗で、縦巻きにパーマのかかった長い髪を片手でかきあげ、看板の電気を消した。

 

そして、ひと息ついて私に気付くと、にっこりと笑う。

 

「あら、来てたのね? 待ってたのよ」

 

そう言って、私に中へ入るよう促した。

 

私は少し俯き加減に、ママの前を通り中へと入った。

 

目に飛び込んできたのは、ちっとも変わらない店の雰囲気。昔と同じ、こじんまりとした内装。変わらず、いつもの席に座る武雄は、頭をカウンターに伏せて眠っている様子だった。

 

ママはドアを閉めると、カウンターの中へと入っていく。そして武雄の前に立ち、肩を揺らした。

 

「武ちゃん、ほら、お迎えが来たよ」

 

何度か起こしてみるものの、武雄はピクリとも動かなかった。

 

「しょうがないなぁ……」

 

ママはそう呟くと、タバコに火をつけ吹かし始め、私に視線を移した。

 

「帰って来てるとは聞いてたけど……ホントだったんだ」

 

ママはタバコをくわえたまま、武雄が飲み残したグラスに氷を一つ足し、人差し指でまわし始めた。

 

どう答えて良いのかわからずに戸惑う私を尻目に、ママはまた話を続けた。

 

「私さぁ……好きだったんだよね」

 

「え?」

 

 思いもよらぬ言葉に、私は目を丸くした。何を言っているんだろう。誰を、好きだと……。

 

「武ちゃんの事。正直言うと本当は今でも好き……かな?」

 

ママは私を試すように言った。当然、私にはまた答えようのない告白だった。

 

「アンタが出て行ってさぁ、武ちゃんってば、そりゃもう荒れてたわよ。でも、この店に来て飲んだ時だけよ。酒が入ると、人間って弱くなるのよね……心に支え切れない想いが爆発しちゃう……」

 

 ママは、ふうっと一筋の紫煙を吐き出した。

 

「でも、そんな武ちゃん見てらんなくてね、まぁ、その前から好きだったんだけど、結婚してるから言えなかったんだぁ。でもアンタが出て行ってチャンスが来たって思ってさ、何度も武ちゃんに気持ちを言ってはみたんだけど、毎回玉砕よ。付け入る隙なしって感じ?」

 

「……あの……」

 

どうしてそんな事をママが話すのか、私にはわからなかった。

 

「今日、武ちゃんはアンタの娘にお父さんって呼ばせたんだってね? しかも、まだあの店を出て行かないんだって」

 

「え、ええ……」

 

 そんな事まで話してるんだ、そう思いながら応えた私の言葉に、ママはフッと笑うと、一気にグラスの水割りを飲み干した。

 

「好きな男がさぁ、やりたい事やってるんだし黙って見てりゃいいんだろうけど……私も年なのかなぁ、それでも幸せになって欲しくて肩持っちゃうんだよねぇ」

 

ママは呟いた。

 

「あのさぁ武ちゃんはさ、ずっとアンタが帰って来てくれるって信じて待ってたんだよ」

 

「待って……た?」

 

「他の男と逃げたアンタの悪口一つ洩らさないで……逆に悪く言う奴等はいっぱいいるでしょ? そんな人たちと武ちゃんはいつもケンカしてたの。アンタは愛した男が死んだから戻ってきたんだろうけど……もし、その男が死ななくてアンタが一生帰ってこなかったとしても、武ちゃんは待っていたと思うよ。この人はそういう人……わかってんの?」

 

ママの言葉に何も言い返せず、謝る事も出来ず、ただ俯くしかなかった。ママは私を詰っているんじゃない、そうわかっているから反発する気さえなかった。

 

「私は心から武ちゃんを愛してるの。だけど武ちゃんはアンタを愛してる……悔しいけどさ。愛した人には幸せになってもらいたい。そういうもんなんだよね」

 

そう言ってママは、またグラスに水割りを作ると、自棄になったようにすぐグラスを空にした。そんなママの目に涙がこぼれそうになっているのを、私は見てしまった。

 

人を愛しただけ、それだけなのに誰かは幸せになって、その影では涙を流す人がいる。その愛の裏と表を嫌と言うほど見てきた自分は何でもわかっているつもりだったのに、ここに来てまた、その苦さを味わった。

 

自惚ればかりの自分を反省する。みんな誰かを愛しては傷つく。でも、私はいつも誰かを傷つけてばかりなのだと思い知らされた。

 

また、ママが自分で入れた水割りを飲もうとした時だった。ママの手に重なるように武雄の手が伸びてきた。

 

「武ちゃん……起きてたの?」

 

「ああ?」

 

武雄はそう寝言のように言って、ママから無理やりグラスを奪い取ると、今度は武雄がグラスを空にした。

 

「あんまり無理しないで……武ちゃん。迎えに来てるわよ」

 

ママの言葉にも武雄は虚ろな目を向け、ろれつの回らない口調で「もう一杯」と言いながら、ママにグラスを差し出した。

 

「ママは俺が好きなんだろ? だったらいいじゃないか……酒くらい飲ませろよ〜」

 

そう言って武雄はまたカウンターに俯いた。

 

「もう、武ちゃんったら」

 

ママは仕方がないな、という素振りで水割りを作り始める。

 

「はいっ、もう一杯だけよ」

 

「おう……」

 

武雄は私がいる事にまったく気付いていない様子で、俯いたままグラスに手を伸ばすと、ギュッと握り締めたまま肩が震えていた。

 

「ママは……いつから俺が好きだったんだ?」

 

肩だけではなく声まで震え、武雄が泣いている。

 

「そうねぇ……武ちゃんが、初めてこの店に顔を出してくれた時からだったかなぁ」

 

ママは、武雄が泣いている事には気付かない振りをして、その質問に答えた。

 

「ふん……じゃあ俺が結婚したての頃だな」

 

「そうね、それがどうかした?」

 

「だったら、十年くらい前か……」

 

「そうなるわね」

 

「俺はな……」

 

「何?」

 

「俺は……十五年も前から紫音に惚れてたんだよ」

 

「えっ?」

 

私もママも、その言葉は初耳で、本当に心底驚いた。

 

十五年も前だなんて、私が武雄と結婚どころか知り合う前の話だったからだ。お見合い、といって良いものかはわからないものだったけれど、あの時が初めて二人が出会った日だと思っていた。

 

ママは武雄の告白に躊躇することなく聞き続けた。

 

「そんな前に武ちゃんは奥さんに会ってたの?」

 

「会ってたんじゃない……俺が知ってただけだったんだ。俺は三人兄弟だし、家を継がなくてもいいと思って好きな事してたんだ。本当は将来……画家になりたかったんだよな」

 

武雄の言葉に私はまた驚いた。武雄も、義孝と同じ画家になりたかったなんて、夢にも思わなかった。

 

「それで?」

 

驚きを隠せない私をよそに、ママは淡々と話を続ける。

 

「俺が二十歳で紫音が十五歳の時に出会ったんだよ。あいつがお義父さんに連れられて、親父のとこに遊びに来てたんだ。俺は家の物陰から眺めてるだけだったんだけどな、十五歳なのに凛としてて綺麗だったなぁ……俺はあいつに一目惚れしたんだよ。親父が俺達兄弟の中から誰か一人を養子に出してもいいと話してたから、俺はそれからすぐ、夢だった絵を辞めて親父に弟子入りした。親父に認められて紫音と結婚するのは俺だって、やっ気になってた。三男だったし希望も自信もあったんだよ……」

 

「そう……夢を諦めてまで……」

 

「俺にとっては、夢よりも紫音の方が大切だったんだ……でも、夢を諦めたっていうか、あいつが……部屋に飾ってあった俺の拙い絵をジッと見つめて呟いたんだよ……『素敵な絵』だって。『優しい感じが伝わってくる』って……それ聞いた時に思ったんだ。この人は分かってくれる、俺の事、分かってくれるって……単純だろ? ただ、誰にも認めてもらえなかった絵を褒めてくれただけなのに、一瞬で恋に落ちて、俺が幸せにしたいって思っちまったんだ……」

 

「……そこまで」

 

「それからはさぁ、念願かなって好きだった女と結婚できた……俺はそれだけで幸せだった。なのに……紫音の心には他の男が常にいたんだ。俺は卑怯だったよ……知っていたのに、言わなかったんだからな……知らない振りをしてたんだよ」

 

武雄は言うなり顔を上げると、水割りを水のように一気飲みした。空のグラスを思いきりカウンターに叩き落し、震える両手で握り締めている。

 

「だから、あいつが出て行っても憎む事が出来なかった、何度も憎んで浜村を出て行ってやろうとも思ったさ……でも、出来なかったんだ。もし、あいつが帰って来て浜村がなくなっていたら悲しむんじゃないかって思って……馬鹿だよなぁ、俺」

 

「ちっとも馬鹿じゃないよ」

 

ママが私を見ながら武雄に優しく呟いた。

 

「俺はあいつに惚れてたんだ……本当に……心底、惚れてたんだよ……」









    






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