〜 vol :31




 

その言葉を聞き終わって、ゆっくりと一歩、前に出た私に武雄は振り向いた。

 

一気に酔いが冷めたような面持で武雄は「紫音?」とだけ呟くと、すぐさま視線を逸らし、下を向いた。

 

「迎えが来てるって最初に言ったでしょ?」

 

「お、俺、酔っちまったんだな……」

 

いつもの申し訳なさそうな武雄の口調に戻っている。私は武雄の肩に軽く手を乗せ「帰ろう」と言った。

 

「あ……ああ」

 

と、武雄は顔を上げることもなく、私を避けるようにして店の外に出て行った。私はママに頭を下げ、武雄の後に付いて店を出た。

 

ママの、切なそうな視線を背中に感じながら……。

 

武雄は帰り道、話を聞かれた事で分が悪そうに、終始無言のままだった。そんな武雄の背中を見つめたまま、私もただ歩くだけ。

 

でも、その背中には武雄の優しさが滲み出ているような気がして胸が熱くなった。

 

家に着いて、武雄はすぐに二階へ上がろうとしたが、客間へ向かう私を見て立ち止まった。

 

「ちょっと……いいか?」

 

 無愛想に武雄は一言そう言うと、私を二階へ来るよう促した。私は軽く頷きを返し、誘われるまま部屋に入った。懐かしさを残している部屋は、全く変わっていなかった。

 

そこで何やら武雄はゴソゴソとベッドの下を探り出し始める。

 

私は戸の脇に立ったまま、何してるんだろう、と武雄を眺めた。

 

暫らくして、武雄が引っ張り出した物に、私は心臓が止まる思いだった。

 

驚きのあまり絶句したまま立ち尽す。

 

わなわなと体中が震え出し、自分でも止められない。

 

「そ、それは……」

 

やっとの思いで出た言葉に、慌てて手で口を塞いでしまった。武雄が持っているという事は中身を見ているはず。でも今更、取り上げようにも遅い。

 

それは、隠しておいたはずの、あの絵だ。

 

武雄は、ふぅっと表面に息を吹きかけ、かぶった埃をはらった。丁寧に包みを開け、ゆっくりと壁に絵を建て掛ける。そして、その絵の前に腰を降ろした武雄は、まじまじと眺めていた。

 

十五年前、義孝が蔵で私を描いてくれた絵。

 

二人の愛を確かめられた絵。

 

それを今、武雄が目の前で見ている。何だか間接的にも裸を見られているような感じがして、少し恥かしかった私は、思わず俯いてしまった。

 

「この絵……」

 

武雄の呟きに、私は再びゆっくりと顔を上げ、視線を戻す。

 

「さっきの話を聞いていたんなら知ってると思うが、俺は昔、画家になりたかったんだ」

 

私は声には出さず、ただ頷いただけだったが、武雄は絵を見つめたまま話を続けた。

 

「お前が出て行ってから、この絵を見付けたんだが、正直ショックだったよ。これは……お前を連れて行った男が描いたんだろう?」

 

「え、ええ」

 

「でも、ショックだったのは、そんな事じゃないんだ。この絵からは、とてつもないお前への愛情が伝わって来るんだよ……半端じゃない。その男の愛情が……」

 

「武雄さん」

 

「俺には描けない、きっとお前を、こんな風には描けないと思うんだ。だから悔しい反面、羨ましかったんだ。そして、心の中ではほとんどお前を諦めてた。俺だってお前を愛している自信はあったのに、この絵を見た途端に負けた気がして……だから、この男に愛されているお前は幸せになれるだろう……って、そう思った」

 

武雄は頭を項垂れ肩を震わせた。

 

私の頭の中に、さっきママの言った言葉が蘇ってきていた。

 

 

「愛した人には幸せになってもらいたい」

 

 

私は、そんな武雄の気持ちを改めて知って涙が出てきた。

 

ごめんなさい……そんな言葉しか見つからない自分が歯痒い。

 

 私は顔を上げようとはしない武雄に近付くと、腰をかがめた。そして、そっと武雄の肩に手を乗せた。瞬間、武雄の肩はビクリと大きく上がったかと思うと、我慢しきれずに、とうとう声を出して泣き出した。

 

「す、すまない……呼んでおいて悪いが……あ、あっちへ行っててくれないかっ……」

 

武雄は泣き顔を見られたくないと思ったのか、そんな事を言った。だけど、私は動かなかった。

 

「ううん。行かない……ここにいてもいいでしょ?」

 

「いや、でも」

 

「だって、もう私のやる事に干渉はしないんでしょ?」

 

私の言葉に武雄は少し顔を上げ、ゆっくりと頷いた。

 

ふと、絵を包んであったスカーフの隙間に紙切れが見えた。私はゆっくりと、それを取って見る。

 

「……これは」

 

 またもや武雄は申し訳なさそうに項垂れた。

 

「婚姻届?」

 

「そ、それは……万が一、お前が男に愛想でも付かせて帰って来たらと、思って……その」

 

 名前の欄には、武雄と私の名前が書いてあった。既に武雄の欄には判まで押してある。

 

「すまない……往生際が悪くて……」

 

その言葉に、私は首を横に振った。

 

もう一度、こんな私でも受け入れてくれようとしていたなんて、本当にお人好しとしか言いようがない。婚姻届が涙で滲む。

 

私は、傍らに置いた鞄の中から判を取り出した。そして、自分の名前の横にゆっくりと押す。

 

その行動を、武雄はあんぐりと口を開け見ていた。

 

「干渉しないって言ったじゃない」

 

そう言いながら、私は浜村に帰って来て初めて笑顔を見せた気がする。

 

「紫音……?」

 

「勘違いしないで……って私が言うのも変だけど……義孝を愛している事は変わらない。でも、あなたも放ってはおけない。こんな私でもずっと愛してくれて……その気持ちがすごく嬉しかったから」

 

「同情ならよしてくれ」

 

「そんなんじゃない、と思う……でも……そこから始まる夫婦だっていてもいいでしょ」

 

「……お、俺にだって建て前が……」

 

「本音は?」

 

「…………もう、どこにも行って欲しくない……」

 

 武雄の言葉を聞き、私は目の前にある義孝の書いてくれた絵を指先で撫でた。

 

懐かしい想い出。狂おしい青春。何もかもが溢れ出る情熱の絵からは、惜しみない愛が指先を熱く伝わってくる。

 

義孝が、私の背中を押してくれる。

 

「私は同情というより、これからの、あなたの人生に結絵と一緒に付いていってもいいかなって思ったの……それが正直な気持ちかもしれない」

 

「俺の人生に?」

 

「結絵に言ってくれたんでしょ? パパにはなれないかもしれないけど、お父さんにはなれるって」

 

「だから、それは……」

 

「義孝を愛している事は、これからもきっと変わらない。けど、あなたをこれから愛する事だって出来るはずなの。人が二人を愛してはいけない? こんな事を言ったら屁理屈に聞こえるかも知れないけど、子供は何人いたってみんな愛してあげられるでしょ? でもそれは、愛情を分けているんじゃない、それぞれに愛していると思うの。おかしい?」

 

「ほんと……それは屁理屈だな」

 

 武雄はそう言って少し笑った。

 

「そうね、あなたも往生際が悪いんじゃなかった?」

 

「でも……俺で良いのか?」

 

「良いから言ってるの」

 

「そうか……」

 

武雄はそう答えると、考え深気に眉をひそめ俯いた。

 

「でも……お願いがある」

 

武雄は俯いたまま言った。

 

「何?」

 

「その……義孝って男が描いた絵は、まだ他にあるのか?」

 

 私は少し考えてから答えた。

 

「ええ」

 

「だったら、その絵を……その絵を俺に預けてくれないか?」

 

「……」

 

「別に捨てるわけじゃないんだ。ただ、お前がその男、いや……彼を愛しているのはわかってる。でも結絵ちゃんを育てる以上、俺は愛情を注いで育てたい。勿論、大きくなったら話しても構わないし隠す必要もないわけだけど、彼が描いた絵を、常にお前が持っていると思ったら、感情がコントロールできないような気がして」

 

その申し出に、私は少し考えた。

 

武雄の気持ちはわかる。でも、義孝の絵は大切なものだ。でも、これからの事を考えたら、そうする事がいいのかもしれない。

 

「そうね……わかった」

 

そう言った私の手を武雄は強く握り締めた。

 

「ありがとう。結絵ちゃんもお前も……きっと幸せにしてみせる。ありがとう……」

 

武雄は、そう涙ながらに言ってくれた。

 

義孝を忘れるわけではない、義孝はいつも私の心に生きている。そして、目の前には、これから愛するであろう人が生きている。

 

武雄は結絵に言ったんだ。パパにはなれない、と。武雄も重々承知なんだ。義孝の変わりになろうなんて、武雄はこれっぽっちも思っていないと思う。とても心の温かい人なんだ。

 

「私の方こそ、ありがとう」

 

私も、そう武雄にありったけの感情を込めて呟いた。

 

それから私は、そっと結絵の眠る客間に戻り、持ってきた手荷物の中から義孝が残した最後の絵を取り出した。

 

義孝が愛した紫が綺麗に描かれている。何度見ても、胸が熱くなる。

 

暫し眺めた後、そこから感じる義孝の愛情の全てを醸し出す絵にそっとキスをした。

 

柔らかく触れる唇が涙で濡れた。

 

そして、その絵を、武雄の元へ持っていった。

 

武雄はその絵を手に取ると、やはりじっと眺めた。何十分も眺めていたが、その間は何も言わず、私も何も聞かず。

 

いつしか、武雄の目からはひとすじ、また涙は流れていた。

 

こんなにも涙もろい人だったのか、そう思うと、とても愛しい存在に見えるから不思議だった。

 

「紫音……これからは二人分の男の愛情を受け止めてくれ」

 

そう言った武雄に、私は深く頷いて涙が止まらなくなっていた。








    






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