〜 vol : 7
高校に入ってからは義孝の自転車で海へ行く事が多くなった。
「行くか?」
「うん」
義孝の背中に頬を寄せる幸せ。その腰に回す腕に神経が研ぎ澄まされ、常に心臓が破裂しそうなほどの鼓動を弾き出す。それはいつになっても慣れる事はなく、その都度新鮮だった。
海ではいつもスケッチブックを取り出し、義孝は砂浜に座ると「夕日が好きなんだ」と言い無心に絵を描き始める。私はその横に座り、義孝が描き終わるのを待つ。
海に来ればほとんどがこの繰り返しの日課だったけれど、私には他の何かをしている時よりも充実した時間だった事には違いなかった。
――義孝の絵を描く横顔が好き。
そんな事を思いながら、私は義孝を見つめた。
同じ高校で同じ時をもっともっと過ごしたかった。そう思うと居た堪れない気持ちに押し潰されそうになるが、あえて不満は口にしなくなっていた。
海で義孝の隣に座れるのは自分だけ……そう思うと自然と少しでも居場所があると思えたのだ。
それでも、義孝の気持をはっきりと聞いた訳ではない私には不安がなかったとは言いきれない。いつも隣に座りながらも心の中で「好き?」と聞いてはみるものの声には出せなかった。あまりにも長い時間一緒にい過ぎたのだろうか。初めは兄のようにと慕っていたが、もしも、その答えが異性としてではなく、私の幼いころの気持ちと同じのまま何ら変わりなく「妹のようだ」と、言われるのが怖かったのかもしれない。
私の中では恋が成立しているが、もし義孝にその感情がなかったら、この関係すらも壊れてしまうのではないかと思うと怖かった。
そんな思いを抱えたまま、蒸し暑い日が続く八月になった。
夏休みにも関わらず塾に行かされていた私は、めっきり義孝と会う時間が少なくなっていった。
理由は父の目だ。父にすれば年頃の男女だ。いくら義孝に信用を寄せていると言っても、やはり使用人の息子としか映らなかったのだろう。大事な跡取り娘をたぶらかされでもしたら、という思いがあったらしい。厳しく監視するように、いつも私の行動を知りたがったものだ。
そんな燻ぶりが募ったある日の夜、私が部屋で塾の予習をしていると、コツンと目の前の網戸に何かが当たった。初めは虫か何かだろうと思っただけだったけれど、頻繁に揺れる網戸に私はようやく腰を上げ近付き、暗い裏庭を覗き込んだ。
「義孝?」
思わず挙げた声に私は慌てて両手で口を塞いだ。
義孝は身振り手振りで「来れないか?」と言っているらしかった。
私は首を思いきり縦に振り「ちょっと待ってて」と小声で言った。朝が早い両親が眠っている部屋の前を気付かれないよう音を立てずにゆっくりと通過する。階段を降り、すぐ脇の台所に入ると、いつもはギシギシとうるさい勝手口を、音を立てずに開ける事に慣れていた私は、余裕で庭に出る事が出来た。
「どうしたの? こんな夜中に……」
私は嬉しさを隠しながらも、そう義孝に駆け寄り尋ねた。
義孝は「しーっ」と人差し指を唇に当てると、私の腕をひっぱり、離れの横に建つ蔵の裏側に連れて行った。
蔵の裏には腐った木戸が立て掛けられてあり、それを退けると人が通り抜けられるくらいの小さな穴があった。
「いつのまに?」
そう囁きながらも私の胸は鼓動がはち切れんばかりに弾んでいる。
父の許し無しで蔵には到底入れない。だが、義孝が案内したここは、頑丈な南京錠がかけられた表から入らずとも、いとも簡単に入る事が出来たのだ。
「こんな所があったなんて我が家ながらに知らなかった」
私はそう呟きながら義孝の後に続く。
土壁の蔵には窓もなく、豆電球くらいの光なら漏れる心配もなかったし、蔵の裏は竹林で誰に見られる事もない。
二人には最高の密会場所だと私は思った。
小さな灯りのついた蔵の中には、義孝がいつも向かっているキャンパスが既に用意されていた。
そして、義孝は私を真剣に見つめ口を開いた。
「紫音を描かせてくれないか?」
「えっ?」
当然、私は驚いた。
義孝が描く絵といえば「風景」か「抽象」ばかりで「人物」を描いているのを見た事がなかったからだ。
「どうしたの? 急に」
「何でもないよ、ただ紫音を描きたいんだ。他の誰でもない、人物を描くなら紫音と昔から決めていたから」
そう言った義孝の眼差しが熱く、申し出を断る理由もない私に躊躇いはなかった。
「私も、義孝に描いてもらいたい」
私が言うなり義孝は微笑み、木製の丸椅子を持ち出してきて目の前に置いた。促されるままその椅子に座ると、服を脱いで正面を向くよう指示された。
「え? 脱ぐの?」
「ダメかな……紫音のありのままを描きたいんだ」
私は俯き少し戸惑ったが、大好きな人になら見られてもいいと思った。それに、いつかは義孝に……そう心に決めていた私は、言われるまま服を脱ぎ始めた。
恥かしさに顔を上げる事ができない。それでも私は震える腕でブラジャーのホックを外し、ゆっくりと前のパッドを掌に包みながら下げた。小さな胸が義孝に向け露になる。それから座ったまま少しだけ腰を上げショーツを脱ぐと後ろに隠した。産まれたままの裸体、いくら豆電球が暗めだと言っても確実に義孝の目には映っている。
「僕を見て」
そう言って義孝は、私に絹のスカーフを一枚優しく巻いてくれた。スカーフと言っても透け透けで何も隠れる所などない、だけど、不思議と嫌な思いはしなかった。
それは、綺麗な紫色のスカーフだった。
義孝は、肌を蔽い隠すように垂れていた私の髪を優しく指先で後に払うと、スカーフを整えた。
「紫音には、やっぱり紫が一番似合うよ……」
「そ、そう?」
「俺の一番好きな色だ」
それからは義孝が口を開く事はなく、ただ黙々と描き続ける。
私はその真剣な義孝を見ているだけで満足で、恥かしさなどいつのまにかなくなっていった。それに、今は私だけを見ていてくれる。何より嬉しい至福の時だった。
そんな互いの気持ちを確かめ合ったのは、私が十六歳の誕生日を向かえた夏の夜だった。