〜 vol : 8




 この幸せは、この日から四日続いた。

 絵の具の匂いが体に沁み付いて、義孝を近く感じる事が出来る。パレットの上で混ざり合う絵の具を見つめるだけで、体の芯がくすぐったくなる。キャンパスを走るナイフの小気味いい音に耳を傾け、私はいつにも増して幸せを感じていた。

 義孝の隣からではなく、今、私自身が見詰められている事の喜び。

 そして何より、毎晩、夜中に部屋を抜けだす緊張感が、更に胸を焦がせる。

 私の中には悪い事をしているなどと言う感情はなかった。ただ、一人の人を好きになっただけ、ただ会いたいだけ。これが自然な気持ちで、当り前の行動だと思っていた。

 共に過ごす時間がとても大切で、ずっと義孝と居れたらいいのにと弾む心だけが、私を突き動かしていた。

 現に、私の中で義孝を求める恋が愛に変わっていた。甘酸っぱい感情は情熱の炎へと姿を変え心の全てを支配する。一気に燃え盛る愛は、もう誰にも止められないのだと信じていた。

 私だけを見つめてくれる瞳が、永遠に続く幸せなのだと。

 そして、五日目の朝。その日は私の誕生日だった。

 いつものように、朝早くから両親は店の仕事が手一杯で私の事など忘れている。でも、それが私にとっては好都合に思えた。だから、敢えて自分からは何も求めはしなかった。

 義孝も「今日には描きあがる」と言っていたし、きっと今日は仕上がった絵を眺めて、より一層近付いた心で、二人の時間を満喫できるという期待を胸に忍ばせていた。

 一日中、義孝の事ばかり考えて二ヤツいていたかもしれない。傍から見れば変だと思われても殊更気にもしない。私は頭の中で、幸せの空間に浸る妄想を繰り広げていた。

 夜になって、いつものように部屋を抜けだし蔵へと急ぐ。中に入ると既に義孝は待っていた。

「もう少しだから……」

「うん」

 私はそう頷き、すぐさま慣れたように衣服を脱ぐと椅子に座った。

「辛くないか?」

 義孝が筆を動かしながらも、気遣いの言葉をかけてくれる。

 私はすぐさま「大丈夫」と微笑を返した。

 キャンパスに擦れる音が、また何とも言えぬ心地よさで、子守唄のようで気持ちが安らいだ。この音をずっと聞いていられたら……そんな未来に夢を馳せる。

 暫らくすると、その音が止む。ふと見れば、義孝はジッと私を見据えていた。

「出来たよ」

 義孝はそう呟くと、ゆっくりと立ち上がり私に近付いた。鼓動が速くなり、まともに顔さえ見る事が出来ない。このまま流されてもいい。そんな思いを胸に、私は瞼を閉じた。

 すると、肩にするりと温かさを感じた。

 義孝は、傍らに置いてあった上着をそっとかけてくれたのだ。そして「ありがとう」と言って私の髪を撫でた。

 その言葉がなんともくすぐったい半面、拍子抜けした事は言うまでもない。

「そんなお礼なんて……いいよ」

 私は、そうぎこちなく返事を返した。

 義孝に触れたい。その唇に……でもその気持ちを言う事はない。義孝は、私の軋む心を知る由もないだろう。それでも、この充実した時間をくれた事は、一生の宝ものになるはずだ。物ではない、心の奥に義孝は温かいプレゼントをくれたのだから。

 愛というプレゼントを……。

 義孝は上着をかけた手で、私の肩を掴んだままゆっくりと立ち上がるよう促した。そして、私をキャンパスの向こう側へと連れて行ってくれた。

「……奇麗……」

 私は思わず声を漏らした。

 そこにあったのは、義孝の才能を前面に押し出すように力強い色遣いで描かれた絵があったのだ。

 目に飛び込んできたキャンパスの中の自分が自分ではないように思えて少し照れくささを感じる。

「実物よりも、うんと綺麗に描いた?」

 私は照れ隠しにそう言ってみた。

 義孝の私を掴んだ指に少し力が入ったと感じたのは気のせいだろうか。その指先に神経を尖らせ、振り向いて義孝を見ようとしたけれど、更に義孝の指には力が入って「振り向かないで」と言った。 

 私の体が硬直する。

 その指先から義孝の震えが伝わり、私の声も震える。

「どうしたの?」

「いや……実物の方が綺麗だよ」

 義孝はそう言うと肩から指をゆっくりと離し、私を後ろから強く抱しめてきた。私は抵抗する事なく、耳にかかる義孝の吐息にそっと目を閉じる。

「紫音が振り向いたら……自分を止められないような気がして……怖いんだ」

 義孝の声も震えている。

「いつも、このキャンパスを越えて、紫音を押し倒してしまいたいって考えてたんだ。でも、ずっと我慢してた……そんな事したら、紫音に嫌われるんじゃないかってビクビクしてた」

 思いもよらなかった義孝の告白に、更に私の鼓動が高鳴りを増す。それが今にも伝わってしまいそうなほどに、心が暴れている。

 落ち着け……私は自身にそう言い聞かせた。

「嫌ったりなんか、しない……よ」

 そう言うだけで精一杯だった。

 義孝の腕が更に強く私を包む。

「僕は……ただの使用人の息子だから」

「関係ない」

「紫音を好きになっていく自分が怖かった」

「義孝……」

「良くしてくれている紫音のお父さんやお母さんに、すごく申し訳ないと思って、いつも自分の気持ちを閉じ込めてた……でも、もう無理だ。このまま紫音をさらってしまいたいっ」

 初めて知った義孝の心の奥に、私は嬉しさに震えが止まらなかった。義孝も私と同じ気持ちでいてくれた事に、胸の高鳴りはどうにも押さえきれなくなってしまったのだ。

「私も……ずっと願ってた。義孝といつか愛し合えたらって」

 その言葉を言った瞬間、抱きしめる腕が緩んだ。そして、私はそっと振り返り義孝を見つめた。

「紫音……今、何て?」

「私も義孝を愛してる。もう、ずっと前から……」

 この時、お互いをどれくらい見詰め合っていただろうか。

「……紫音」

 そう義孝が言うなり激しく重ね合った唇が熱くて、心も体も蕩けてしまいそうなくらいに幸せだった。

 義孝にならどこへでもついて行く、何も怖くない……そう思った。

 義孝の愛しい唇が次第に優しく首筋に滑り落ち、私は愛しい人を両腕でしっかり抱しめ返した。

 その時だった。

 微かに耳に届いた声にピクリと体が跳ね上がる。

「……音……っ!」

 それは、確かに私を呼ぶ父の声だった。

 咄嗟に義孝は電気を消し、私達二人は息を殺しながら蔵の前を父の足音が過ぎ去るのを待った。だが、父の声は、すぐ隣りに建つ離れ座敷の方へと向かって行く。

「義孝はいるかっ!」

 父の怒声が闇夜に響き渡った。








    







                

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