〜 天使の羽根 〜     No.10




 この時期、田んぼへの水供給の為に水嵩はない。落ちたらひとたまりもない現状に穂高は観念したように強く瞼を閉じた。

 だが、落下していった三人が水に触れる瞬間、衝撃を避けるように渦を巻いた水面にそれぞれの体が呑みこまれていった。

 衝撃を受けるどころか、あるはずのない川の水に穂高は溺れかける。

――な、なんだ? いつの間にっ!

 そう思うも束の間、突然の息苦しさにゴボゴボと泡立つ水中、その渦に身を預け、締め付けるような窮屈さが穂高たちを襲っていた。

 それでも穂高は、あずみの手を放す事なく、しっかりと握っている。もがく水中で、穂高は片目を開け、あずみの姿を微かだが確認する。握った手を更にギュッと締めると、同じように返ってくる力があった。

――あずみ!

 穂高は気をしっかりと持ち、ぐいっとあずみの体を引き付けると、そのまま、一気に水面へと泳ぎ上がった。

「ぷはぁっ!」

 大息を吸い込み水面に顔を出した穂高の隣には、あずみの顔があった。

「あずみ!」

「穂高!」

 そう言いざま、あずみには抱え込んだ女の人の顔を水面に引き上げる。

「この人、気を失っちゃったみたい! 早く上げないと!」

 大きく頷きを返した穂高は、あずみと共に女の人を両脇に抱え込むと、近側の岸を目指した。力のない人間を一人抱えて泳ぐのは二人掛かりでも至難だった。

 やっとの思いで女の人の体を岸に上げた二人は、同じく水から這い出るように体を引き上げた。大量に水を含んだ服は重く、穂高は力なく地面に体を預ける。

 だが、あずみはすぐさま、女の人の唇に耳を当て呼吸を確かめた。

「どうしよう……息……してない」

 視線を向けた胸の上下も確認出来ないあずみが不安げに呟くと、穂高は蒼白の面持ちを引っ下げて飛び起きた。

「ちょ、マジかよ!」

 あずみはすぐさま顎を上げ気道を確保すると、人工呼吸を施す体制を整える。

「あずみ、出来んのか?」

「うん、見よう見真似。でもこの前体験学習やったし……出来る事をやってみなきゃ」

 あずみは、女の人の額を固定すると鼻をつまみ、大きく息を吸い込んで相手の唇を自分の口で塞いだ。

 落ち着いた様子で、あずみはゆっくりと五秒間の人工呼吸をする。そして、再び鼓動があるか確認をした。

「ダメ……」

 あずみは言いざま一瞬、下唇を噛締め穂高を見上げる。

「次、穂高早く!」

「な、何だよ」

「穂高が人工呼吸するの!」

「え?! 出来ねぇよ!」

「出来る!」

「出来ねぇって!」

「大丈夫だから!」

 そう言って、あずみは鳩尾を確認して両手を宛がう。

「体験学習してない穂高に心臓マッサージは無理でしょ。二人でするの。大丈夫、出来るから。今、あたしがしたみたいにやって」

「でも」

「早く!!」

 怒鳴るあずみの声に押され、穂高は恐る恐る女の人に近付き両膝をつくと、顎に手を当て、くいっと持ち上げた。

「あたしがマッサージを十五回やるから、その後すぐに人工呼吸をゆっくり二回して、それを四回繰り返すの、いい?」

「あ、ああ……やってみる」

「いくよ……一、二、三……」

 あずみが手際よく胸を押さえ、十五回のマッサージを終えると穂高を見流した。穂高は少し躊躇ったが、このままではいけないと意を決し固く目を閉じると、あずみと同じように大きく息を吸い込み、女の人の口を塞いだ。

 それを見たあずみは、少しだけ視線を逸らす。

 そうして、三回目の人工呼吸を施そうとした時だ。

「ゴホッ!」

 女の人が水を吐き出し、大きく胸がふれ始めた。そして、荒々しいが呼吸が回復したようだった。

「やった!」

 穂高が歓喜の声を上げると同時に、あずみは女の人の体をゆっくりと横に向け、上になる膝を前方に曲げると、同じく上になった腕を前方に出し肘を曲げる。

「何やってんだ」

「回復体位……体験学習しといてよかったよ……でもうろ覚えだけど……たぶんこれでいいと思うんだ」

 幾分か、女の人は呼吸がしやすいようだ。

「でも、どうして死のうなんて思ったんだろう」

 悲しげな表情で、あずみは目の前の女の人を見つめた。

 すると、ハッと穂高は「救急車!」と叫びポケットを探る。

「無理だよ穂高、水に落ちたんだよ……それに」

「あ、鞄は橋の上か、すぐに取ってくる!」

「穂高っ!」

 慌てて立ち上がった穂高を、あずみは大きな声で制止させた。

 そして、ゆっくりと首を横に振る。

「な、なんだよ……」

「無理だと思う」

「何が……早く救急車呼んでやらないと……」

 そう言う穂高を尻目に、あずみは対岸を見流した。それに促されるように穂高も対岸に視線を送る。

「あ、れ……?」

「おかしいと思ってたんだ……水面に顔を出した瞬間に物凄い違和感があったの。さっきまであったはずのネオンが消えて、街の景観が変わってる……」

「なん……で」

 あずみは、今度は上を見上げた。

「同じなのは満月だけ……あの橋の作りも違う……水位もこんなになかったよ」

 再び視線を女の人の戻したあずみは、小さく溜息を落とした。

「慌ててる中、ずっと考えてた……初めて見た時からこの人の身なりも違うなって……」

 穂高もようやく、驚きの表情のまま女の人を見下ろした。

「そりゃ、俺も思ったけど」

 初めて見た時に、二人の中に浮かんだ違和感は服装だった。

「どう見てもあたしたちの時代の人じゃないなって……今時いないでしょ……モンペを穿いてる女の子って」

「でもそれ言ったら……俺達」

「よく解んないけど、この状況のどこをとっても何も説明できないでしょ」

「そうだけど」

 穂高は続けて「解らねぇ」と言ってクシャっと髪を掻き乱した。

「それに、見て」

 あずみが落した視線の先を、穂高は覗き込んだ。それは、女の人が着るセーラー服の胸元に大きく縫い合わされた名札だった。

「藤波……智子……?」

「うん、この名前……聞いた事ない?」

「藤波って、まさか高志?!」

 驚いた穂高は、まじまじと穴が開く程に女の人の顔を顔を覗き込んで見つめた。

「でも、あんまり似てなくねぇか?」

「うん、でも名前が智子……これってお婆ちゃんなんじゃないかな?」

 そう言われて、穂高は思わず先程触れた唇に穂高は手の甲を宛がう。

「マジかよ!」

 あずみは、解らないと言った様子だったが、一つの想像を口にした。

「もしかしてだけど、あたしたちタイムスリップしてきたんじゃないかな。初めはこの人があたしたちの時代に何らかの形でやって来て、そこにあたしたちが遭遇して……で、一緒に戻って来ちゃった、とか?」

「タイムスリップ?」

「たぶん……違うかな」

「お前テレビの見過ぎだろ? そんな事ある訳ないじゃん」

「あたしだって、そう思いたいよ!」

「それにしちゃ、お前やけに冷静すぎだろっ!」

 言われてあずみは、ギュッと両手を握りしめた。

「冷静じゃないよ、もう心臓バクバクだもん! すっごく不安だし、怖いし、もうどうしたらいいかわかんないもん! おまけに目の前で穂高は他の人にキスするし! しかもその人がお婆ちゃんかもだなんて……あたし」

「お前バカか?! いかにも俺の意思みたいに言うなよ。お前がやれって言ったんだろ?! しかもキスじゃなくて人工呼吸だ! こんな時にそんな事持ち出しやがって……っ!」

 恥ずかしさのあまりに慌てて怒鳴り散らす穂高だったが、目に涙を溜め、頬を濡らしたあずみを見て、何も言えなくなった。

――俺の方がショックだっつうんだよ、好きな女の目の前で他の女と……しかもタイムスリップなんてバカげた事言いだすし。

 そんな事を思っていると、微かに女の人の体が動き、穂高は息を呑んでチラリと見流した。

「……ん……」

 女の人の意識が戻ったようで、微かな声を発して目を開けると、やんわりと上半身を起こした。

 だが、眩暈がしたのか頭に手を宛がい、軽く瞼を閉じる。

「あたし……まだ、生きてる……」

 そう呟いて深い溜息を落とした。

「まだ言ってるよ」

 穂高が短く息を吐き出し、呆れたように言った。あずみは、優しく手を差し伸べ、細い肩を撫でる。

「あたし、あずみ。あの……あなたは……誰?」

 あずみが怖々と問いただすと、女の人は顔を上げ視線を絡めた。そして、あずみの姿を上から下まで見ると、震える自身の体を抱きしめ、ブルッと身震いをした。

「あたしは……智子。藤波智子」

 そう、とあずみは頷くと言葉を続ける。

「いくつ?」

「十六才」

「若いのに、どうして死のうなんて……」

 会話を続ける二人を、穂高は固唾を呑んで見下ろしていたが、あずみの言葉に、ふと割り言った。

「そんな事よりも、ここがどこなのか聞けよ。今、何年なんだよ!」

 穂高は、智子が死のうとした理由よりも知りたかったのはそこだった。

「え?」

 不思議そうに智子は穂高を見上げたが、その視線の鋭さに身を固くすると、すぐさまあずみに視線を戻した。

 本当にここが現代でないなら、どうやって帰ればいいのか、それとももう帰る事が出来ないのか、穂高は不安でいっぱいだった。勿論、あずみも同じ事を考えていただろう。

「怒鳴らないでよ、怖がってるじゃない」

 そう言ってあずみは、智子の肩を抱き寄せると、穂高の言葉を優しく言いなおした。

「あの、変な事聞くけど……今、何年かな、教えてくれる?」

「何年って?」

 智子が顔を上げる。

「あ、ほら、その。昭和とか平成とか」

「平成?」

 聞き返された時点で、あずみも穂高も心は穏やかではない。

「あ、じゃあ、今は昭和何年?」

 動揺するあずみの声は震えている。智子はごくりと息を呑みこむと小さく口を開いた。

「昭和……二十年、四月……だけど……どうして」

「はぁっ?!」

 あまりの小ささに、穂高は明らかに怒った口調で身を乗り出した。だが、すぐさまあずみに睨みを飛ばされ、ぐっと踏み止まる。

「穂高! 何でそんなに怒鳴るのよ、怖がってるって言ってるじゃない!」

「だって、昭和って……」

 納得のいかない穂高は「ふざけんなよ」と、地面を蹴り散らした。

 濡れた衣服のままの三人の間に、闇夜の冷たい風が吹き付ける。

「ぶぇっくしっ!」

 くしゃみをかました穂高は、ブレザーを脱ぎ固く絞ると、震える智子を一瞥する。

「家、どこだよ」

 そう言って絞ったブレザーを智子の肩に掛けた。

「冷たいけど我慢しろよ、一応病人みたいもんだろ」

「穂高……」

 安心した面持ちであずみが呟くと、更に体を震えさせた智子は、嗚咽を漏らし泣き崩れた。

 心配そうにあずみは智子を見つめる。

 その時だ。

 ガサガサと川縁の草むらが揺れ、人影が姿を現した。

「智子さん!」

 息せき切ったその声は、徐々に近付く。穂高もあずみも、一瞬で身を強張らせた。






    
   


               

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