〜 天使の羽根 〜 No.11
それは、二人にとってテレビや教科書でしか見た事のない、戦時中の国民服を身に纏った男だった。すらりと伸びた長身は、穂高よりも頭一つ大きく、凛々しい顔立ちだ。
「道彦(みちひこ)さん」
智子が驚いたように呟いた。
ずぶ濡れになった姿を見て血相を変えた道彦は、穂高に見向きもせず、一目散に智子に駆け寄り肩を抱すくめた。
「いったいどうしたって言うんだ、こんなに濡れて……まさか死のうなんて考えたんじゃ……」
「ごめんなさい」
道彦は、やっぱりと言った顔で眉尻を下げた。
「君が死んだら、キヨちゃんや百合ちゃんはどうするんだ。みんなが君の帰りを待ってるんだ……ご両親を悲しませるな」
その言葉に、智子は唇を震わせた。
「でも、死ねなかった……大成(ひろなり)さんのところに逝けなかった……」
「智子さん」
そう言って道彦は、あずみと穂高の存在に今気付いたように交互に見流した。
「あの……その」
しどろもどろになる穂高に、道彦の視線が釘付けになる。
「お前は誰だ。どこから来た」
訝しく道彦が聞く。
その視線は二人の姿を上から下まで舐めまわすように見ながら、不審に満ちた表情を浮かべた。
「あの……未来……から?」
恐る恐る穂高が言うと、道彦はくっと唇を噛締め「からかっているのか!」と、怒鳴り立ちあがった。
つかつかと穂高に近付いた道彦は、ぐいっと胸倉を掴む。
「ちょ、何すんだよ!」
穂高は咄嗟に道彦の手を振り払った。
だが、道彦は更に、今度は穂高の髪を鷲掴みにする。
「いってーなっ!」
「しかも何だこの頭髪は!」
言いざま、月明かりに照らされた穂高の髪の色を見て、ギョッと目を丸くした道彦は、一層に鋭い目つきを突き付けた。
「貴様! 日本人にこんな髪の色はない! まさかアメリカのスパイなのかっ!?」
「ちげぇ−よ! 何だよスパイって、あ?!」
お互いに一歩も引く事なく睨み合う中、智子が道彦の背中に縋り寄る。
「待って道彦さん」
道彦は、不可解だと言わんばかりに、眉間に皺を寄せると、智子に振り向いた。すると、目の前にある悲しげな瞳に、涙を潤わせた智子を哀れに思ったのか、労わる表情を見せた。
「この人たちは、死のうとしたあたしを助けてくれたんです」
「え?」
智子の言葉を聞くなり、道彦の表情が変わる。そして、訝しい態度を一変させると、穂高の髪を掴んでいた手を離し、先程とは明らかに違う、律儀な態度で深々と頭を下げた。
「すまなかった。勘違いとはいえ嫌な思いをさせた。許してくれ、この通りだ」
元々血の気が多い穂高だ、はいそうですか、とはいかないらしい。
「謝れば何してもいいのかよっ!」
道彦の都合のいい言い草に、怒りの治まらない穂高は、掴まれて乱れた襟を整えながら言った。
「いや、いいとは思っていないが……智子さんを助けてくれた事は感謝している。命の恩人だ、ありがとう」
腑に落ちない穂高は、グッと拳を握り締めた。
だが、道彦が現れた事で更なる動揺は隠せないようだ。二人の身なりを見るからに、ここが現代ではなく、智子の言葉も嘘ではない事が明らかだったからだ。
ここまでの大仕掛けで、二人を騙す理由もない。
「顔を上げてください」
あずみが、スッと道彦の前に出る。
道彦は、その言葉にゆっくりと顔を上げ、あずみを見つめた。
「あたしたちがこの時代に生まれてない事は本当なんです。どうしてこうなったのか、自分でもわからなくて……」
道彦は、そう語るあずみの瞳をジッと見つめている。そして、小さく溜息を落とすと左右に首を振って見せた。
「すぐに信じろ言われても信じられません……でも、智子さんを助けてくれた事は本当です。出来る限りの事はさせてください」
道彦はそう言って智子に向き直ると、冷たい頬に手を宛がった。
「もう、死のうなんて考えないでください。大成もそれを望んでいるはずがない……」
「道彦さん」
「とりあえず、この人たちを家に連れて帰りましょう」
コクリと頷いた智子を確認した道彦は、再び穂高に視線を移す。
「特に、あの男が軍に見つかっては一大事になる事は間違いない……とにかく話を聞く為にも家に……いいですね」
返事を聞くまでもない言った感じで道彦は、智子を労わるように肩を抱き寄せ歩き始める。ついて来いと言わんばかりだ。
「穂高、どうするの」
不安げに呟くあずみに、穂高は「行くしかない」と言った。すぐさま、あずみの手を引き、道彦の後に続く。
「俺たちだってこの状況を整理しなくちゃな。ここに居てもヤバそうだし、ついていくしかないよ。あの、智子って人がどうやって俺たちの時代に来たのか解れば、帰れるかもしれないしな」
「……うん」
握られた手を、あずみは強く握り返し頷いた。
四月と言った智子の言葉通り、まだ肌寒さが残る夜。
見上げる満月だけがひっそりと照らす道を、ただ歩いた。
◇
「お姉ちゃん!」
暗い夜道が続く中、一件だけ明かりが灯った家先から飛び出してくる子供がいた。
涙を目に一杯に溜めこんで、その子は縋るように智子に抱きついた。
「智子!」
「帰って来た!」
その後に続き両親と、もう一人、更に小さな子が縺れる小さな足には大き過ぎる下駄を穿き駆けて来ると、同じように智子に重なる。
「キヨ、百合……ごめんね」
智子は小さな目線にしゃがみ込むと、二人を抱きすくめて肩を小刻みに揺らした。そして、涙ぐんで佇む両親を見上げた。
「無事でよかった」
嬉しそうに父親の清(きよし)が言うと、隣の母親、豊子(とよこ)も、うんうんと頷き涙を拭っていた。
「とにかく中へ」
道彦に促されて、穂高はあずみの手を引き家の中に入る。だが、穂高は目の前に広がる光景に息を呑んで立ち止まった。
「……駄菓子……屋?」
あずみも同じように立ち尽くし、ギュッと穂高の手を握り返した。
「駄菓子屋がそんなに珍しいですか?」
道彦が背後から、穂高に尋ねた。
「いや、別に……」
「早く中に入ってください」
背中を押されるように、二人は家の奥へと入った。
「藤波……駄菓子屋……智子」
小さく呟く穂高の中で、疑心が確信へと変わっていく。
「やっぱり、お婆ちゃんなんだよ」
追い打ちをかけるように、あずみの言葉が耳に届いた穂高は、込み上げる不安に震え、下唇を噛締めた。
――俺達は、本当に過去へ来たのか……。
愕然とする心がもう消えないようだった。
駄菓子屋の奥の居間へと通された二人は、言われるままに小さな円卓の前に、寄り添うように座った。その目の前には、清と豊子が、二人の子供を挟んで、物珍しそうに穂高を見つめて座っていた。視線は明らかに髪へといっているようだ。
豊子の隣に腰をおろした道彦が、智子の両親に命の恩人だと説明をしている。目の玉が飛び出るほどに、穂高を見て興奮していた智子の家族は、道彦の説明で何とか理解はしたらしい。
だが、いつのまにか、二人の子供は、夫婦の間で寝息を立てていた。その頭を撫でながら清が穂高を見つめる。
「本当にアメリカの人じゃないのか?」
それでも恐る恐る、言葉を選ぶように清が言った。
「はい、れっきとした日本人ですが」
穂高が喋ると一瞬身を引いたが、少しだけ安心した面持ちに変わった。それでも心底、信用したようには見えない。やはり「未来」という事を理解するには無理があるようだ。清と豊子は、苦笑いを浮かべて互いを見合った。
当の穂高やあずみでさえ、未だに信じられない事なのだから仕方がない。
「そ、そうかそうか。いや失礼、智子を救ってくれて本当にありがとうございました」
清はそう言って、額が畳に擦れるほどに頭を下げた。続いて豊子も同じく、深々と下げる。
そんな二人を見つめる道彦は、考え深く溜息を落とした。
「私も信じられなかったのですが、二人の身なりと、真剣な眼差しを見て信じる事にしました。それに、ここに来るまでの間、智子さんに聞いた話も交えて確信へと……」
「智子の?」
清の言葉を聞いて、道彦の横で智子が静かに頷く。
「ええ、私は一度、月夜ヶ橋から身を投げようとしました……でも、強く目を閉じてすぐ、キュッと体が締め付けられるように感じて目を開けたんです。そうしたら、何とも言えぬ違和感に襲われて」
ゆっくりと話し始める智子に、みんなの視線が集中する。
清も豊子も、死のうとした理由を知っているからか、智子を責めようとはしなかった。それどころか、その心情を察したかのように涙ぐんでいた。
「急に手が悴んで、木製だった橋が突然、冷やかな鉄製に変わっていました。そして振り向くと、そこにあずみさんが驚いたように立って居て……その奥には見た事もない煌びやかな光が沢山」
そこで、今度はあずみを一斉に見流す視線。
「え、ああ、その……はい。あたしはあの橋で穂高を待っていたら、急に突風に煽られて、それで振り向いたんです。そしたら、そこには誰もいなかったはずなのに、智子さんがいて……」
あずみは視線を落とし、膝の上に載せた拳を握った。
清と豊子は、互いを見合って頷く。すると、豊子が話し始めた。
「昔からあそこを通ると、不思議なものが見えると噂だから」
「不思議なもの?!」
穂高とあずみの声が重なる。
「ええ、でもほんの一瞬で、橋の向こうに光が無数にとか、何もないのに車の走る音がするとか……そんな大した事はないんだけど……それも満月の夜にね」
「満月の?」
思わず穂高が喰いついた。
「今日はそう言えば満月だったね」
穂高とあずみは、帰る道が見えたと感じ互いを見合った。
「そんな……だったら今すぐでも間に合うんじゃ……」
そう言ってすぐさま立ちあがった穂高は、あずみの手を引き上げた。
「俺ら帰ります!」
「あ、ちょっと、お礼も何もしてないよ」
叫ぶ豊子を尻目に、穂高は「いらねぇ!」と言いざま家を飛び出したが、玄関を開け外へ出た瞬間、足が止まる。
「……朝……?」
呟くあずみの声が悲しげに響く。
東の空が薄っすらと光を運んでくる。その明るさに、見覚えのない街並みが浮かび上がっていた。
たった一つの道標、満月はもう、どこにもない。
途方に暮れた二人の背後に立ったのは道彦だった。
「私もそんな噂を聞いた事があります。でもそれは……満月が顔を出し輝く時だけ……夜が明けては無駄かと……」
道彦の言葉は、二人の心を奈落に付き落とすには十分だった。
「そんな」
穂高はガックリと肩を落とし、繋いだあずみの手を力の限り握り締めた。
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