〜 天使の羽根 〜 No.13
あずみは、裏庭で細々と菜園を育む智子の手伝いをしていた。穂高は、髪が目立ち過ぎる為に、家の中に大人しくしていろと言われたらしい。
いくら、竹垣があるからと言って、いつ誰が見ているやもしれない。あずみが、念には念をと注意したのだ。
そんな竹垣の隅には、所狭しとセリが茂っている。あずみは、そのセリを鎌で少しずつ刈ってはザルに入れていった。
この季節、じゃがいもの収穫がある。それに、キャベツも少し巻き始めている。と言っても、痩せた土で豊作とまではいかない。だが、智子の家族が食べる分には、腹いっぱいまでとはいかないが十分なのかもしれない。
そんな事を思うと、あずみは申し訳なさで心が軋んだ。
それでも何もしない訳にはいかない。出来る事をやる、それがあずみのモットーだ。
「野菜を育てるのも大変ね」
あずみが汗を拭きながら言った。
「セリは雑草だけどね」
「え、そうなの?」
「でも結構楽しいよ、こんな世の中、他にやる事ないし、配給に頼ってばかりじゃ食べていけないし……今日中にしてしまわないと、明日からまた仕事だし」
「え? 智子さん、仕事に行ってるの?」
思わずあずみは手を止めた。
「ええ、町外れの工場に」
「工場って、何を作ってるの? でも学校は……」
「あたしの行ってる学校の校舎は軍需生産工場になってね、航空機部品を生産してるの……」
「航空機部品……?」
「そう、戦闘機のね……でもマシな方かも」
「え?」
「小学生なんか、油が足らなくて松根を掘ったり、こことは比べ物にならない広い畑でジャガイモ掘ったり麦を刈ったり、家畜の餌やりを朝から晩までやらされて、あたしなんかよりもずっと重労働よ」
「……そんな」
あずみの横で、淡々と当り前のように話しながら汗を流す智子を見やると、ふと、疑問が湧き上がった。
智子を自殺するまでに追い詰めたものは何か、と言う事だ。
簡単に考えれば、こんな時代が嫌で自殺しようとしたとも思えるが、これだけ頑張っている人が、そんな事を安易に思うだろうかと考える。智子のような人なら、まずこんな戦争が終わるまで生き抜いてやる、と思ってくれるのではないかとあずみは感じたからだ。
そうなれば、もっと内情を抉るような事があったのかもしれない。
「ねぇ、聞いていいかな」
思わず、心の声が出てしまったあずみは、しまったという顔をした。だが、智子は手を休めないまま「何?」と、聞き返す。
あずみは、少し躊躇ったが、ここまで聞いてしまったのだから切り出そうと意を決した。もしかしたら、自分が少しでも悩みを聞いてあげれば、智子が楽になるのではないかと思ったのだ。
「智子さん……どうして死のうなんて考えたの? こんなに優しい家族がいるのに」
だが、意に反して、智子はピクリと体を強張らせ、困った表情を浮かべた。
「あ、ごめんなさい。あたし……ずけずけと聞いちゃって」
あずみは慌てて取り消そうとした。しかし、智子は笑って答えた。
「ううん、迷惑かけたから気になるのも解るし……いいの」
「智子さん」
一息置いて、智子は作業をする手を止めると、あずみを見やる。
「あたしね、婚約者がいたの」
何とも言えない寂しげな瞳で、智子は言った。
「え? 道彦さんじゃないの?」
「ヤダ、道彦さんじゃないわよ。あたしの好きな人は、大成さんって言うの……幼馴染でね。道彦さんの弟なの」
そう言って智子は笑って見せたが、どことなく目は笑っていない。
「弟……」
「ええ、でも」
智子は土の付いた手先を払いながら立ち上がると、青く澄んだ空を、遠く思い馳せるように見上げた。
「学生は戦争に行かなくても良かったのに、つい二年前には誰もかれも軍に入隊させられたの。自分の意思関係なく……」
同じくあずみも立ち上がり、智子の寂しい横顔を見つめる。
「戦争に行ったって事……よね」
「ええ、二年前、戦地に赴く二万五千人もの学生の為の壮行会が行われた」
「壮行会?」
「学生の意識を昂揚する為だって、馬鹿げてるでしょう? あの日の事は今でも忘れない……十月二十一日は雨が降っていて、そんな雨にも負けずたくさんの観衆が詰め寄せて、みんなに見送られる学生が凛々しく見えた。でも、その中に大成さんもいた」
あずみは、その名前を聞いて、昨日の事を思い出していた。
『でも、死ねなかった……大成さんのところに逝けなかった……』
確かに、道彦が迎えにきたとき、智子が言った名だった。
「スタンドから大成さんを探したけど見つけられるはずもなくて、ただ、あたしは出陣して行かれる方々に手を合わせるのが精いっぱいだった……でも、戦争なんて誰も行きたくなかったはずよ」
「なんで行きたくもない戦争なんかに……」
智子はようやく、あずみに視線を移した。
「今は、そんな時代なのよ……行かなかったら非国民と罵られるんだもの。どの道、簡単には生きていけない……でも」
智子の重い言葉に、あずみは声すらも出せなかった。
「でも、非国民でもいいから、大成さんには戦争に行ってほしくなかった」
戦争の事はあずみも授業で習った事があった。しかし、あずみの将来の夢は、定まりこそしていなかったが、過去を振り返るものではなかった。いつも未来を担う職業に付けたら、と思っていたのだ。
興味もなくただ聞いているだけの授業だった事に、少し後悔の念が押し寄せる。
上辺だけで知った気でいた戦争とは、あまりにもかけ離れていた事に、あずみは愕然と心が凍てつく闇に落ちていった。
戦争に行く若者は、皆が進んで家族を守るために戦いに行くと思っていたのだ。
すると、二人の背後で低い声が聞こえた。
「海行かば、水漬(みづ)く屍(かばね)」
静かな歌が耳に届き、あずみが振り向く。そこには、道彦が真剣な面持ちで立ち尽くし、ゆったりとした重苦しい歌を口ずさんでいた。
「道彦さん……」
「山行かば、草生(くさむ)す屍……」
「辞めてください!」
智子は、振り向く事なく、固く目を閉じて叫んだ。
その歌が何なのか、見当もつかないあずみだけが、智子の様子に驚きを隠せない。
「どういう歌ですか?」
あずみは眉根を寄せ、道彦に尋ねた。
道彦は一度、深呼吸をしてから、智子を見据える。
「海を行くなら水に漬かる屍ともなろう。山を行くなら草の生える屍ともなろう。天皇のおそばにこの命を投げ出して悔いはない。決して振り返る事はない……この歌は、壮行会で歌われた」
静かに道彦が言った。
「壮行会で……?」
あずみは、やっと理解したように瞳を曇らせる。
「あたしはその歌が大っ嫌いなんです」
「智子さん」
智子の、大きく震わせる肩に、あずみは宥めるように手を乗せた。
「あたしはどんな姿でも大成さんには生きて帰って来て欲しかった。なのに、初めから死にに行くなんて歌は聞きたくない!」
智子の叫びが突き抜けた空に、薄い雲が流れてく。
ゆっくりと沈黙を流す空気を「智子さん」と呼んで動かした道彦は、グッと両手拳を握り締めると、沈痛な面持ちで、震える背中を見据えた。
「でももう、大成は帰ってこない」
「解ってます」
「大成は死んだのです」
「解ってます!」
徐々に、智子の震えが増していく。
だが、道彦は言葉を止めない。
「忘れろとは言いません。でも、振り向かないで前だけを見て、智子さんには生きて欲しい……もう二度と、死のうなんて考えないでほしい」
道彦は、心から願うと付け足すと、双瞼を閉じた。
「私は、智子さんが幸せになってくれればそれでいい」
優しい声で奏でた言葉は、穏やかで素直な気持ちを表していた。
「道彦さん……もしかして」
そう、あずみが聞きかけた時だった。
けたたましい叫び声が、家の中から轟いた。
「ぜってぇ〜ヤダ! 死んでもヤダッ!!」
あずみは、穂高の声に溜息を落とす。
「まったくもう、何やってんだか……」
呆れた顔を浮かべ、あずみは道彦を見やった。そして、智子の肩を放すと、道彦に委ねた。
「道彦さん、あまり智子さんを悲しませないであげて」
そう言って、家の中へと駆け出した。
道彦は、そんなつもりでは、と呟きながらも、泣く智子に近付けないでいた。
◇
「何、どうしたの?」
居間を覗き込むと、そこには豊子と向き合い、何やら興奮した穂高がいた。
「豊子さんが、俺に坊主にしろって言うんだぜ?!」
「仕方ないでしょう、この時代に穂高さんの頭は目立ち過ぎます」
豊子の手を見れば、きらりと光るハサミが握られている。
「でもっ!」
「でももへったくれもありませんよ!」
豊子はそう言いながら、穂高ににじり寄る。明らかに穂高は、あずみに止めて欲しそうだ。
「穂高」
「何だよ!」
あずみはゆっくりと深呼吸をすると、ジッと穂高を見据えて言った。
「あたしも切った方がいいと思う……」
「何でだよ!」
期待外れの言葉に、穂高は顔を真っ赤にして怒鳴った。だが、あずみは平然とした態度で穂高に歩み寄り、その手を握る。
そして。
「無事に帰るためだよ」
と、真剣な眼差しで言った。
「え?」
思いも寄らないあずみの言葉に、穂高は途端に目を丸くした。
「もし、この時代で穂高が捕まったりしたら帰れないじゃん……だから、それまで後一ヶ月じゃない、ここは我慢して髪を切ろうよ」
「髪切ったら無事に帰れるのかよ」
「解らない」
「はぁっ?!」
「でも、この時代を甘くみたくないの。いつ、どこで死んじゃうかも……」
「髪切らなきゃ死ぬのかよ!」
「解らないけど! 帰ったらまた、伸ばせばいいじゃない」
「くそ…………ふざけんなよ……」
説得力の欠片も見出せないあずみに、穂高は短く溜息を落とした。
だが、その気持ちは伝わったようだ。
「絶対に笑うなよ!」
そう言って、穂高は髪を切る事を了承した。
「笑わないよ」
安心した面持ちで、あずみは更に強く穂高の手を握り締めた。
「じゃ、いいんだね」
嬉しそうに言う豊子が持つハサミが光ると、ざっくりと重い音を弾き出した穂高の頭上から、はらりと茶髪が落ちていった。
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