〜 天使の羽根 〜     No.15




 五月二十四日。

 夕暮れになって、外の空気は微かに乾いていた。

 穂高は、庭先の作業を終えると、この頃は道彦を訪ねる事が多かった。穂高自身、道彦を慕っている訳ではなかったが、本能が男同志と感じているのか、居心地は然程悪くはなかったらしい。

 小さな撮影部屋で、仕事場から帰宅してすぐの道彦は、大事そうに、いそいそとカメラの手入れをしている。

 それを眺めて、何もすることがなくなった穂高は、窓際に腰かけると、薄い雲で覆われた空を見上げていた。

 遠くから微かに聞こえる、飛行機のエンジン音。

「なぁ」

 ふとした呟きに、道彦が顔を上げる。

「何かあったか?」

「いや、最近、やたらと飛行機が飛んでるなと思って……」

 そう言って穂高は、道彦に視線を移した。

「ああ、あれはB-29と言って、米軍機だよ」

 道彦は、それだけか、と言って再びカメラを丁寧に拭く。

「あれには焼夷弾(しょういだん)が積んであるんだ」

「焼夷弾?」

「ああ、何もかも焼き尽くす爆弾だ、今日もどこかへ落としに行くんだろう」

「行くんだろうって他人事みたいに……ここには落ちると思わないのかよ、怖くないのか?」

 穂高は不安げに聞いた。だが、道彦にあまり気にした様子はない。

「先日、名古屋が空襲される被害があったそうだ、米軍は大きな街を狙って落とすからな……ここにはもう、三月に落とされてるんだよ……それでも内心は怖いさ。いつ、自分が撃たれるかと思うとビクビクしている」

 そう言って目を伏せ、レンズを拭く手を止めたが、小さく溜息を落としてすぐさま、作業を始めた。

「そっか、誰だって怖いよな。でも全然そんな爆弾が落とされたような焼けた跡なんてどこにも……」

 カメラのレンズに息を吹き掛ける道彦は、穂高を見ないままに答えた。

「落とされたのは街の方、ここは山手だからな、あまり被害がなかった。標的にする物がないんだ、もう何もないだろ」

「そんな事言って、保証ねぇだろ」

 ごくりと生唾を呑みこんで、心配そうに言う穂高を、道彦は視線を上げ見据えた。

「ああ、確かに保証はない……」

 どうにも切羽詰まったという気配は感じられない。穂高が、両肩を大きく落とすと、項垂れて溜息をついた。

「隣の駄菓子屋は閑古鳥状態なのにさ、客を呼ぶとか宣伝する様子もないし、爆弾積んだ飛行機がうろついてるのに、慌てる様子もないし……あんたらどんだけ長閑なんだよ。悠長に構え過ぎだろ」

 この時代の切迫感のなさに呆れたように項垂れる穂高に、道彦は無表情のままだった。

「今は配給に頼ってるって言ってるだろ、駄菓子にしても仕入れが出来ない以上に、それを買う客だってそれどころじゃない。駄菓子を買うより先に米を買うよ」

「だったら、なんでまだ駄菓子屋開けてるんだよ」

「いつ終わるか知れない戦争だ、いつでも、また始められるように畳まないんだろう。それに、閉めてしまったら、子供たちの拠り所がなくなる」

「拠り所?」

「ああ、駄菓子を買わなくても、店先に集まって顔を合わすんだ。今日も無事で何より、ってな感じでな」

「なんだよそれ。ババァの井戸端会議かよ」

「子供同士でも互いの安否を確認するんだよ……誰も死んでないな、生きてるなって……そうやって自分も生きてるって思うんだ」

 ようやく道彦の瞳が悲しみに曇った。

 罪のない子供たちが、無邪気にも互いを気遣い合っている事に、心を痛めているのだろう。

――子供まで生きるとか、死ぬとかって考えなきゃならねぇのかよ。

 穂高も同じく、苛立ちを募らせて頭を掻き毟った。

 そして、ふと手を止めると、先程よりも茜色に染まる空をぼんやりと見上げた。

「未来はさ……生きてる事って、息するみたいに当たり前なんだよ……だから、何も見つけられない寂しさがあるのかもしれない」

 そんな穂高の横顔を見つめていた道彦だったが、自分の手の中にあるカメラに視線を落とすと、小さな声を発した。

「もし、君が未来に帰れなかったら……智子さん頼みたいんだが」

「なに縁起の悪い事言ってんだよ。俺は帰るんだよ」

 間髪入れずに答えた穂高は、その声に訝しく振り向く。

 道彦は「やはりダメか」と言って短く溜息をついた。

「当り前だ、ば〜か」

 苦笑いを返す道彦が、再び念入りにカメラの手入れを始めた。

 どう見ても奇麗になっているはずなのに、道彦は執着するように拭き続けていた。

「ところで……君らは未来に帰ったら何をするんだ? そこには何がある。自分に没頭できる事はあったのか?」

 そう聞かれて穂高は困った。

 自分が何も考えずに生きていた事を見透かされているようで、ある、とは簡単に答えられない。

 どうせ自分なんか生きている意味さえないと思っていたのだ。

 前の自分ならば、「ウザい」と考えながら、何もないとはっきりと恥ずかしくもなく言っていただろう。

 だが、この時代に飛ばされて、懸命に生きる事だけを考えている、死と背中合わせの人たちを前に、胸を張って言えるはずがなかった。

 それに今は、穂高にとって大切なものが何かが見え始めている。未来に帰って、まずやる事は決まっている。しかし、それを口にする事が出来なかった。

「特に決まってねぇ、けど……おいおい見つけるさ」

 考えた末の答えがそれか、と言わんばかりに、道彦は失笑を漏らした。

「なんだ、何も決まってないのか……」

「ダメなのかよ」

 そう言って穂高は、唇と尖らせた。

 憂いな瞳で、レンズを見つめる道彦は、初めて見せる柔らかな表情を浮かべていた。

 何もないこんな時代で、且つ厳しい表情を崩さなかった道彦にも、そんな優しい表情が作れるのかと、穂高の心が揺れる。

「私は……世界中の美しい景色を撮って旅する写真家になりたかった」

 ポツリと弾き出された言葉が、痛く穂高の心を軋ませた。

「なりたかった? 何で過去形なんだよ」

「……最早、叶わぬ夢だからだ」

 穏やかながらも、道彦の口調は固い。

 穂高には、そこに納得のできる余地がなかったようだ。

「そんなもんやってみないと解んねぇだろ、それに、あんたは智子さんと一緒に生きたいんだろうが、やる前から諦めてんじゃねぇよ」

 まるで、今までの自分に言い聞かせるように、穂高は言った。

 だが、道彦は重苦しい溜息を洩らす。小さく肩が落ちる。

「君には解らないだろうな……自由ではない苦しみが……私たちの青春が、戦争によって縛られている事など……」

「バカバカしい、あんたは出来ないんじゃねぇ、やろうとしてないだけなんだろ」

 その言葉に、道彦はムッとしたようで、眉根を寄せる。

「君の時代とは違うんだ……だから若者の考え方一つ、違ってくるんだろうな」

「はぁ?」

 道彦は、傍らにカメラを置き立ち上がった。そして、ゆっくりと穂高に歩み寄ると、窓越しに茜色の空を見上げて呟いた。

「一つだけ、聞いていいか?」

「何を?」

「日本は…………」

 そのまま語尾を続けないまま、道彦は双瞼を伏せた。

「いや、やっぱり辞めておこう……」

「なんだよ、ったく」

 腑に落ちない穂高は、舌打ちをして見せると、道彦の横顔を眺めた。思いつめたように強張った表情に、思わず息を呑む。

 再び瞼を開けたその瞳は、何らかの決意に充ち溢れたように強い眼差しを含んでいた。

「私は生まれつき片耳が悪い……だから徴兵検査の時に弾かれたのだ」

 思いも寄らぬ告白に、穂高は安堵の声を洩らす。

「へぇ、良かったじゃん」

 だが、道彦には面白くなかったらしい。途端にキッと穂高を睨んだ。

「良くない!」

 道彦は、腹の底から力の限りに怒鳴った。

「長男である私が戦地に行けず、弟を送り出した気持ちが解るか?! それで智子さんをどれだけ悲しませたか……それに、その事でどれだけ非国民と罵られたか、その辛さが君には解るまい……私さえ、この耳が悪くなければ……弟と代わってやれていれば」

「解りたくねぇよ」

 吐き捨てる穂高に、道彦は向き直り、真っ直ぐに見据えてくる。穂高はその視線に、微かな嫌悪感を抱き逸らした。

「だから、私は今一度、国の為に志願した」

 案の定、聞きたくもない言葉が届く。

「は? 何に志願したって?」

 穂高には、その意味が解っていたが、わざとらしく交した。それでも、視界に入る道彦の、ジッと見つめる重圧があった。

「今なら誰でも入れてくれる気がする。多くの若者も戦地に駆り出されているし、年配の方までも……だったら私だって軍に……」

 穂高は、最後まで言わせまいと、道彦の言葉を遮断するように怒鳴った。

「ばっかじゃねぇの? 一回ダメだったんだからさ、それでいいじゃん。運良く行かなくて良かったんだって思えば!」

「だが、友人が皆、戦いに行った。弟の大成も戦地に散り、私だけがのうのうと」

「そんなに人殺したいのかよ」

 穂高は、両脇に垂らした腕に力がこもり、いつのまにか拳を握っていた。掌に汗が滲み、じわじわと震えが全身に伝わる。

「人殺しではない、守るのだ。戦争で活躍すれば世間にも顔向けできる……ここにいる事を運良くだなんて思いたくない」

「何が守るだよ、誰だって死にたくないだろ。人殺していい事ないし、だったら自分のやりたい事見つけて生きてた方がよっぽどマシじゃね?」

 そう叫んで穂高は道彦を睨みかえしたが、そこにある決意が尋常ではない事を察した。

 それでも、はいそうですか、と簡単に見送るのは馬鹿げていると思えた。

「俺だって自分の時代じゃ人の輪よりはみ出てたし、面白い事何か一つもなかったさ。生きてる事に意味を見つけられなかったし……あんたみたいに、やりたい事もなかった。でも、あずみが居てくれるだけでホッと出来たって言うか……大切なもの見つけたって言うか……あずみがいなかったら俺……」

 更に握った拳が震える。

「だからさ、何て言うか……あんたも智子さんが好きなら自分の傍に置いとけよ。俺らの時代で今、戦争したって若い奴らは誰も行きやしねぇぞ。俺なら好きな女の傍を離れたりしねぇ!」

 穂高は大きく肩を揺らし、道彦のやろうとしている事を必死に阻止しようと叫んだ。だが、何も伝わらないらしい。

 道彦は、更に訝しく穂高を見つめる。

「未来の若者ってのは、何とも心が貧弱なんだな」

「何だと?」

「国や家族を守ろうって言う意思が欠けているのか、それともないのか。傍にいるだけでは守れない事もある。だったら最前線に行って少しでも役に立って……」

「俺には、あんたらの方がよっぽど心が貧弱だよ、情けねぇ!」

「どこが」

「夢だってそうだ、やろうとしてない事、初めから出来ないって人に押し付けてるだけに見えるぜ。それに、好きな女を一人守れねぇ奴が、夢なんか語る資格もねぇけどな!」

 二人の間に重い沈黙が過った。

 暫く見つめあったまま、一歩も引かない。

 穂高と道彦、どちらの意見が正しいかなど、誰にも解らない。

 ただ、道彦を見て穂高が考えたのは、戦争とは人の心を間違った方向へと導いていく恐ろしいものだと言う事だった。

「ここでは誰もが家族を守るために戦場へ行くんだ」

 道彦が静かに沈黙を破った。それでも、穂高にはその考えに納得がいかない。

「絶対に間違ってる」

「言いきれないだろう」

 冷たくあしらう道彦は、もう止めても無駄だと言わんばかりに瞳を伏せると、踵を返して穂高に背を向けた。その背中を追いかけるように、穂高の視線が追う。

「あんたの守るって何? あんたはどれだけ人の心を知ってるって言うんだよ。誰が喜んで戦争いくヤツいるんだよ。自分が行けなかったからって、みんながみんな、行きたかった訳じゃねぇだろ、そんな気持ちは今も昔も変わらねぇよ」

 道彦の足が止まるが、振り向こうとはしない。ただ、穂高の言葉に、聞こえる方の耳を傾けている。

「絶対に何も変わってねぇよ! 誰も好き好んで死にたくねぇだろ。誰かを守りたいって思う気持ちは変わらねぇんだよ! 勝てるかわかんねぇ戦争なんかに行かないで、自分で智子さんを守ればいいだろ?!」

 勝敗の台詞に、ピクリと道彦の肩が反応した。そして、ゆっくりと振り向いた。

「勝つと信じている。勝てば家族を守る事が出来る」

「だから、あんたの言ってる事が全然わかんねぇって!」

「解って貰おうとは、既に思っていない」

「あんたが戦争に行く理由ってなんだよ。国の為か、それとも智子さんの為かっ?!」

 真剣に見据える穂高に、今度は道彦が視線を逸らした。

「私は……智子さんには幸せになってもらいたいだけだ……」

 呟いた小さな声は、微かに震え、肩を小刻みに揺らしている。

「ほら見ろ、国なんかより守りたいもんなんだろ。だったら、自分の手で智子さんを幸せにしろよ。人に頼むな。遠くへ行って智子さんと離れて、わざわざ死にに行く事ないって言ってんだろ?」

 道彦は、グッと両拳を握り締めた。

「あんたは間違ってるよ! そんな事したって、あんたが死んだって誰も喜ばねぇ!」

「戦地で死ねれば英雄だ」

 自信を失ったように、か細く道彦が言う。

「馬鹿だろ、お前!」

 追い打ちをかけるように穂高は叫んだ。

「智子さんを幸せに出来るのはあんたなんだよ。好きなんだろ?」

 返事をしない様子に、とうとう我慢できなくなった穂高は道彦に歩み寄ると、その胸倉を掴んだ。

 道彦は既に力なく、その反動に揺さぶられる。

 そして、道彦の頬に穂高の拳がのめり込んだ。

「だったら、あんたしかいねぇんだよっ!」

 ガタガタと傍にある机に傾れ込むように倒れた道彦は、痛みの走った頬に手の甲を宛がったまま項垂れた。

「智子さんを守れるのは、あんただけなんだ! 離れるな!」
 








    
   


               

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