〜 天使の羽根 〜     No.16




 この時代に来てからというもの、穂高もあずみも、満腹感を感じる事がなかった。それは胃袋もさることながら、極めて大きな影響は心の方だった。

 毎日がジャガイモや、汁が多めのすいとん、梅干といった食事ばかりが並ぶ中でも、我儘な穂高でさえ文句など言わなかった。

 いや、言えなかったのかもしれない。

 穂高にとっては、誰かと一緒に食事をするというありがたさの方が上回ったのだろう。どんなに暗い世の中でも、明るい笑顔を絶やさない人たちを見るだけで、自分はもっと頑張らなければならないと思ったに違いない。

 どんなに自分の未来が贅沢なものなのか、目の当たりにして感じていたのは、一番に穂高自身だった。

 それが証拠に、今まで生きてきた穂高のやる気のなさと言えば自他ともに認める部分だっただろう。それなのに、こんなにも人の考えに対して熱くなれる自分がいる事に、正直驚いている。

 道彦の考え方に納得の出来ない穂高は、初めて人に反発心と言うものを抱き震えた。

 それが出来た事の一つに、あずみの存在は大きい。

 きっと、人を愛するという自分の気持ちに気付かなければ、道彦の考えも行動も、もっと軽く捉えてしまったかもしれない。

 戦争でもどこへでも、好きな所に行けばいい、と言っていたかもしれない。

 そんな穂高とあずみが、縁側で月を見上げていた。

「俺、本当は自信ないんだ」

 そんな呟きに、あずみは穂高を見流した。

「どうしたの?」

 見た事もない深刻そうな顔に、不思議そうにあずみが聞く。

「……なぁ……誰かを守るって……何だろうな」

 穂高が、月を見上げたまま呟いた言葉に、あずみは目を細めると、同じように再び月を仰いだ。 

「難しい事は解んないし、人それぞれ意見は違うと思うけど、あたしなら……傍に居てくれればそれでいいけどな」

 思わず穂高は頬を紅潮させた。

――同じ気持ちだ……好きな人の傍にいる事、それで、どんな時でも守る事が出来るんだよな。

 穂高は思いながら、そっと、あずみの手に自分の手を重ね触れた。

 そういった行動をしてくれた事が初めてだった穂高に、あずみは一瞬焦ったが、その行為がとても嬉しかったのか「ありがとう」と呟いていた。

「何が?」

 今度は穂高が不思議そうに聞く。

「傍にいてくれて」

 互いの顔を見合った二人を煌々と輝く月が照らす。

 そして、微笑みを交わし、再び月を見上げた。

「もうすぐだな」

「え?」

「え、ってお前……満月だよ」

「あ、そっか……忘れてた」

「忘れんなよ」

「だって、何だか慣れちゃったって言うか……ここの人たちの暮らしを見てると、自分だけ未来で幸せでいいのかなって考えちゃうし」

「でもここは、俺たちの時代じゃない……」

「解ってるよ、でも考えた以上に大変だけど、みんな明るいし楽しいし……住み難くないよ」

「そうか? 俺は不便で仕方ないけどな。風呂は薪だし、コンビニはねぇし、ゲーセンも」

 そう言って穂高は苦笑いを浮かべた。

「まぁ、確かに不便だけど、でもなんか心が満足してるって言うのかな……っていうか、毎日、傍に穂高がいるから、そう思うのかも」

「あずみ」

 そう言って穂高が、あずみの手を強く握り締めた時だった。

 暗い空の彼方から、激しい轟音が近付き、けたたましいサイレンが鳴り響いた。

「な……何だよ」

 穂高は瞬時にあずみの肩を抱き寄せ、遠い空を見やった。何機にも及ぶ光が徐々に近付いてくる。しかも、いつもよりも低空飛行で町の上を掠める。

 その機体の腹から、数え切れないほどの光が落下してくる。

 暗かったはずの空が、異様な明るさを生み出していく。

 穂高は、骨の髄から来る震えに怯えた。

「空襲だ!」

 背後では、清が大声で叫びながら家の中を駆けずり回っていた。

「マジかよ……あれが……」

「あずみさん、穂高君! 早く防空壕へ!」

 豊子が、まだ眠気眼を擦るキヨと百合に頭巾を被せている。

「あずみさんたちの防空頭巾もあっちにあるから取ってらっしゃい! 早く!」

 豊子が叫ぶと、穂高は大きく頷いて見せる。

「あずみ、今、頭巾取ってくるから待ってろ!」

「でも」

「すぐに戻るから!」

 穂高はそう言って、奥の間借りしている部屋へと急いだ。

 百合はまだ幼く、こんな慌ただしい中でも「おしっこ」と言って泣き始めると、被っていた頭巾を脱いでしまった。

「何やってるの、百合! ちゃんと被りなさい!」

 豊子の声にビクリと肩を上げた百合は、更に大きな声で泣き出す。

「大丈夫よ、百合ちゃん」

 あずみは、傍らに落ちた頭巾を取ると、百合を宥めながら被せた。

「おしっこ……」

「後でね、今は逃げるの、いい?」

「ヤダ、おしっこ〜」

 そう泣いた瞬間にも、地響きを伴う爆発音があちこちから聞こえた。その大きな音に驚いた百合は、表情を蒼白させ、あずみの言う事を大人しく聞き始める。

「いい子ね、ちゃんと被ってるのよ」

 あずみの言葉に、百合は鼻を啜り、小さく頷いた。

「早くしろ! 物凄い火が近付いてくるぞ!」

 荷物を両手に持っていた清だったが、それらを放り出して怒鳴ると、百合を抱え上げた。

「行くぞ!」

 そう言いざま、家族を先導する。

 そんな中、家の奥から智子も駆け出してきた。

「あ、智子さん!」

「あずみさん、穂高さんは?」

 だが言いざま、智子はハッとした表情を浮かべると、再び奥へ戻ろうとする。

「智子さん、どこ行くの!?」

 思わずあずみは、智子の腕を掴み取った。 

「大切な物を持ってくるのを忘れたわ」

「そんなのいいじゃない!」

「ダメなの!」

 智子はあずみの腕を振り払うと、すぐ戻るから、と言って戻っていってしまった。

「行くぞ! これ被れっ!」

 ようやく戻ってきた穂高は、手に持っていた頭巾をあずみに渡すと、その手をしっかりと握りしめた。

 慌ただしく家の前に出ると、炎は既に町中に広がっていた。

 火の粉が舞い、まるで生きているかのように体を熱くさせる。目の前には、火を纏った人影が走る。のた打ち回り、地面に転がるも、誰も助けようとはしない。

 いや、出来ないのだ。

 誰もが、自分が逃げる事だけに一生懸命で構っていられない。清もまた、百合を守るのに必死で、火だるまの人間を避けて走る。

「うそ、だろ……」

 穂高もあずみも、乾いた喉に無理やり息を呑んだ。

「あずみ! 離れるなよ!」

 尋常ではない光景に、穂高は更にあずみの手をギュっと握った。

――絶対に生きてみせる。

 そんな想いを胸に、あずみの腕を引っ張った。

「あ、でも智子さんがまだ出てきてない!」

「何だって?」

「大切な物を取りに行くって言って、まだ中に……」

「そんな」

 不安げに穂高は家に振りむいた。

 既に裏からの火の手が回り、家を焼き始めている。燻るような煙が朦々と上がる。

 穂高は、ギュッと唇を噛締めた。

「だったらあずみは早く豊子さんに付いて防空壕へ行け、智子さんは俺が連れてくる」

「ヤダ、穂高! 一緒に行く!」

「馬鹿言うな! お前だけは危ない目に会わせたくないんだよ!」

「でもヤダ! 傍にいるって約束したじゃない?!」

「我がまま言うな!」

 今までに見た事もない剣幕で穂高はあずみを睨んだ。

「絶対に戻ってくるから」

 真っ直ぐに心に突き刺さる言葉だったが、それでもあずみは納得できない様子だった。

「俺が行く」

 そう言って二人に近付いて来たのは道彦だった。

 店先から出て来てすぐ、穂高とあずみの声が聞こえたのだろう。大事そうにカメラを胸に、穂高を見据える。

「道彦さん」

「俺が行く、だから二人は早く、おじさんとおばさんと一緒にキヨちゃんと百合ちゃんを連れて防空壕へ行け」

 道彦は言いざま、首からカメラを取ると、穂高の目の前に差し出した。

「智子さんは俺が守る。必ず戻ってくるから、それまでこれを預かっていてくれないか」 

 穂高は震える腕を伸ばし、カメラを受け取る。

「お前」

「教えてくれたのは穂高だ、大切な人を守る方法は一つじゃない」

 口角を上げ、初めて見せた笑顔はぎこちない。穂高がしっかりとカメラを受け取った事を見届けると、道彦は一目散に炎が巻きあがる家中へと走り出した。

「おいっ!」

 穂高の声も虚しく炎にかき消され、あっという間に道彦の姿が見えなくなった。

「二人とも早く、こっちだよ!」

 豊子の呼び声にハッと振り向いた穂高とあずみは、更に強さを増す炎の力が辺りを焼き尽くそうとしている光景に震えた。

 それでも、戦闘機の群れが途切れる事はなく、爆発音もあちこちから聞こえる。

「こんなに……もういいじゃない……」

 震え呟くあずみの手を握り、穂高は今一度、カメラと共に握り締めた。

「あずみ、行くぞ!」

 穂高のぶれない力強さに、頷くしかなかった。

 智子たちに後ろ髪を引かれる思いを残したまま、あずみは、まるで生き物のような火の粉に呑まれそうになりながら駆け出した。
 





    
   


               

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