〜 天使の羽根 〜 No.17
穂高はあずみの手をしっかりと握りしめ、炎の中ごった返す人波を掻い潜った。半狂乱になりながら体から炎を巻きあげ、助けを求める人を、心を鬼にして避け走り続ける。
横目に、息絶えていく様を見流し、穂高は唇を噛んだ。
「穂高……もう、ヤダよ……」
弱気なあずみの声が届く。それでも穂高は振り向かず、その手を握り離さない事しか出来なかった。
煙に巻かれそうな目の前に豊子とキヨの彷徨う姿が見えた。その傍には清が、百合を抱えたまま右往左往している。
「ダメだ、どこも火の海で川の方角がわからない!」
「あなた、でも川は危険だって……」
「それでも水のある場所の方が安全だろう! 学校のプールまでは距離があり過ぎる、だからみんな川へ行くんだ!」
「でも」
「どっちに行けばいいんですか?!」
追いついた穂高が叫びながら、清と豊子を交互に見やると、その先に空き地を見つけた。
「広い場所へ行っちゃダメなのか?!」
「あそこはダメ、さっき大勢の人が走って行ったから、子供が潰されちゃうよ」
「でも、ここに居ても火が回って……」
そう言いかけた時、その空き地目前に、親とはぐれたであろう幼い兄弟が抱き合って泣いているのが見えた。急ぐ大人の勢いに揉まれ、今にも倒れそうだ。
「くそっ!」
穂高がそう口にしてあずみの手を離した。
「どこに行くの?!」
心配そうにあずみは縋る。
「あの兄弟、親とはぐれたんだ。助けなきゃ……」
そう言って一歩を踏み出した時だ。再び旋回してきた戦闘機が、空き地の上空を掠めた。そして、おびただしい光を落としていく。
「みんな逃げろ――――っ!!」
火の粉に紛れる叫び声は、轟音にかき消された。
幼い兄弟の目前にも、非常にも焼夷弾が転がる。
焼夷弾は落ちると勢いよく火を噴き、悪魔のような炎をまき散らす。それは見る見るうちに、人々の衣服に飛び火し、瞬時に苦しみへと誘う恐ろしい爆弾だった。
「危なっ……!」
駆けだす事もままならないまま、穂高の手は宙をさまよった。
泣きじゃくる幼い兄弟は一瞬にして炎の中へと消えていったのだ。
「……っ!」
穂高は、おろす事も忘れた掌を悔しそうに握り締めるしかなかった。
「何したってんだよ……みんな……」
穂高は飛び去る戦闘機に向かって、思いの丈をぶちまけた。
「一生懸命に生きてただろ! 毎日毎日、汗水たらして働いた代償がこれかよっ! いったい、俺たちが何したって言うんだよっ!! ばかやろうっ!!」
聞こえるはずのない悲しみが、煙に吸い込まれるように消えていく。最早、その空に星はない。あるのは、黒く立ち昇る煙だけだ。
そんなやりどころのない悔しさに項垂れる穂高の袖を、豊子が掴んだ。
「それでも、生きるんだよ」
豊子はしっかりと言い聞かすように、穂高の瞳を見据えている。
「未来に帰るんだろう? こんなところで死ぬんじゃないよ……ここで死んでいった人たちの為に、未来で平和を約束しておくれ」
くしゃくしゃに濡れた頬を徐に拭い、震える唇を噛締めた穂高は、その言葉に押されるように、再びあずみの手を掴んだ。
「生きるぞ!」
そう言って穂高は、川を目指す清の後を追う。
「こほっ……」
噎ぶあずみを穂高が見やる。
「あずみ、息……苦しいのか……」
「ん、平気……ちょっと煙を吸っただけ……」
ちょっと、と言ったあずみだったが、辺り一面に炎と煙の世界だ。相当に苦しいはずだった。見れば、豊子に手を引かれ走るキヨも限界に近いらしい。時折、よろめいては転びそうになっている。
清に抱かれた百合も、既に意識がもうろうとしているようだ。
「あずみ、絶対に俺から離れるなよ」
「うん」
大きく頷いたあずみは、穂高の意思が解ったようだった。あずみはゆっくりと穂高から手を離した。
「おばさん、キヨちゃんが限界だ、俺が抱っこしてやるよ!」
「でも!」
「いいから!」
そう言って穂高は、半ば奪うようにキヨを抱きあげて走った。
「離れんなよ」
あずみを気にしながら、清を追う穂高は、何度も落ち崩れそうになるキヨを抱き直しては進んでいった。
炎は鎮火するどころか、益々猛威を奮ってくるようだ。足が既にピンと張り詰めている。それでも進まない訳にはいかない。
若い自分でさえ辛いと思った穂高は、前を走る清の体力が心配になった。案の定、清の足は縺れ、今にも止まってしまいそうだった。
「おじさんっ!」
その声に反応するように、やっと足が前に出るという感じだ。
そうこうしているうちに、ようやく土手を上がったらしい。ここを降りればすぐだ。煙で視界が悪かったが、微かに湿気が感じられ、人は更に吸い寄せられるように多くなっていった。誰もが乾いた喉に水を求めて、疲れ切った体を無理やり前に押し出していく。
その先からは、バシャバシャと激しく水面を打つ音に混ざって、罵倒や呻き声が聞こえた。幾度となく背中を押されながら、異様な雰囲気に穂高はキヨを落としそうになる。
「何だ……?」
「穂高……よく見えないんだけど……」
「ああ、でも後ろから炎が迫ってきてる。水の傍の方が安全だろ」
「うん」
あずみの心配そうな顔に一瞥の不安が過る。それでも、穂高は込み上げる違和感をかき消すように前へ進んだ。
「川はすぐそこだ」
清がそう言ったなりだった。
「あなた! 百合がっ!」
叫んだ豊子の声に、皆が一斉に百合を見た。
「百合っ!!」
「早く消せっ!」
慌てて穂高はキヨをあずみに渡すと、百合に駆け寄った。
清は、自分でかぶっていた頭巾を取り外し、百合の頭を叩きはじめる。
どこかで燻っていた炎が、百合の頭に飛び火したのだ。
「百合っ!」
髪は見る見る燃え上がっていく。穂高も懸命に炎を消そうと必死だった。
「百合! 今消してやるからなっ!」
ようやく消えた炎の下から出てきたのは、大やけどを負ってぐったりとした百合だった。
「百合! 百合しっかりしろっ!」
言いざま、清は百合を抱えて川へと一目散に駆け出した。
だが一瞬、先ほどの嫌な予感が蘇った穂高は「待てっ!」と言って清を追いかけた。そして、煙の切れた視界に飛び込んだ光景に、思わず息を呑む事になる。
「うわっ!」
穂高はすぐさま尻込みをしたが、意思に反して、その背中は次々に押され川へ誘導されていく。
「押すなよっ!」
穂高の叫びは、すぐさま溢れかえる恐怖に消えていった。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
そう言いながら人を押しのけ進む者。
「どけっ!」
我先にと、人を踏みつけて進む者。
「おかあさん!」
家族を探して必死に人を掻き分け溺れていく者。
「助けてっ!」
火を身に纏い、誰かれ構わず掴み、道連れにしようとする者。
穂高の耳元で、突然と飛び込んできた幼い鳴き声が掠れていく。その子供を背負う親は、既に水に浮かんでいる。このままでは時期にこの子供も沈むだろう。
「死ぬな……っ!」
穂高は必死に子供を抱き上げようとした。しかし、しっかりと親と繋がった紐はなかなか外れない。死んでも尚、我が子を離さないとしているように見える。
穂高の頬だけが濡れていく。
「ちっきしょう……」
顔の半分も水に浸かり、もがく子供を見ているだけの自分にやるせなさが募っていく。穂高は、その小さな瞳と交わった視線に生がなくなっていくのを感じていた。今にも、命が消えていきそうだった。
「くっそぉ……何で、みんな……死ななきゃならねぇんだよ」
どんなに必死に持ち上げようとしても、次から次へと人波が押し寄せてくる。挙げ句には、目の前の子どもの頭さえ踏みつけられて行った。
最後に合った目が、どうして助けてくれないの、と責められているようで、自分の不甲斐なさを突き付けられた。
だが、穂高は何もしてやれなかった。必死に逃げる人さえも責める事が出来なかったのだ。
「……ここは地獄なのか……」
ふいに漏れた穂高の声は、奈落の底へ落ちていく。
穂高は、川の水を目指す人波に揉まれ、成す術がない。
それでも一人の穂高は何とか、その勢いに呑まれまいと踏ん張る事が出来ていた。
「穂高君!」
「おじさん!」
何とか耐えていた清だったが、百合を抱えたままでは限界があった。穂高が伸ばす腕を離れ、束の間に水を求めた人波に押されて行った。
「おじさん! 百合ちゃんっ!」
掴みかけた指先が、絡む事なく遠ざかる。
「くそっ!」
穂高は泥水を噛みながら、何とか岸辺に辿り着いた。しかし、そこには清の姿も、百合の姿もなかった。
「穂高?!」
あずみが涙を浮かべて駆け下りてくると、しっかりとその腕を掴み泣きじゃくった。
「バカ穂高! 潰されちゃったかと思ったじゃない!」
大丈夫、そう言いたくても穂高は声を発する事が出来なかったらしい。すぐさま消し去りたい現実が、痛みとなって心を抉っていく。
「みんなが取り憑かれたように川へ入って行くの……あたし怖くて、キヨちゃんを守るのが精いっぱいで、ごめんなさい、百合ちゃんの事、見てただけで」
あずみは嗚咽を漏らしながら「ごめんなさい」と謝り続けた。
穂高は、そんなあずみの体を抱き寄せ、そっと包み込む事しか出来なかった。
あずみの腕の中で、微かな意識を保つキヨの髪を優しく撫でる。
「……あずみ……」
「ごめんなさい」
◇
やがて空襲が終わり、いつのまにか人が途切れていた。だがその静けさは、大半が命を落としたからだった。生き残った人々には生気さえない。誰もが項垂れ、現実に打ちひしがれている。
橋の下に身を寄せ、静かに時が過ぎるのを待つ。
そんな暗闇の中、家族を探す声が、この空間を埋め尽くしていった。その中に豊子の姿もあった。
清と百合を探して、豊子は掠れた声を張り上げていた。
「あなた――――っ! 百合――――っ! 智子――――っ!」
しかし、その声は届かない。
豊子は、智子が「大事なものがある」と言って家に引き返した事を知らない。その声は今にも潰れてしまいそうなほどにしゃがれていた。
智子が無事でいてくれる事を願うばかりだ。
必死に這いつくばりながらでも誰もが自分の家族を探している。すすり泣く声が聞こえる。
穂高にもたれて、あずみとキヨが疲れた表情を浮かべ、瞼を閉じていた。
そんな二人を、穂高は今一度、確かめるように抱き竦めた。
唇の震えが止められない。
やがて漏れる嗚咽に、穂高は抑えきれない悔しさが重なっていった。
◇
次第に辺りが薄っすらと明るさを取り戻し、朝が来たことを知らせた。空襲で焼けたのは人間の世界だけではなかったようで、鳥のさえずりさえも聞こえない、静かな朝だった。
見上げる空は、まだ煙が燻り、朝陽も弱い。
やがて、転寝をしていたあずみが目を覚まし、穂高を見やる。
穂高は一睡もしていなかったようで、目は真っ赤に充血していた。泣き腫らした瞼が痛々しく見えるが、あずみは何も聞かなかった。
「帰ろう」
静かに言って立ち上がった穂高は、大切そうにキヨを抱き上げた。
守れなかった命もあったが、キヨを救う事は出来たのだ。それだけが、今、穂高を立ち上がらせる気力になっているのかもしれない。
「……うん」
あずみはそう答えて、ゆっくりと立ち上がった。そして、傍らに呆然と座る豊子の腕を、そっと引き上げる。豊子は、まだ信じられないと言った様子で、清と百合が消えて行った川の中を見つめていた。
そこには、水面が見えない程に無数の遺体が込み合い、流されていく様があった。
穂高もあずみも、それを避けるように視線を背ける。
だが、土手を上がったそれぞれは、辺り一面が焦土と化した光景に愕然とする。そこには、折り重なる黒い物体が幾つも転がっている。
「嘘だろ……」
穂高はそう言いざま息を呑んだ。再びわななく唇を噛締め、溢れる涙を止める事が出来なかった。
「酷い……よ」
あずみは怖さの余り、穂高の袖を掴むと、震えを止めるようにギュッと握りしめた。
「こんな時代……あったんだよな」
「智子さん……たちは?!」
ハッとしたように恐る恐る、あずみは呟いた。
その声に押されるように、穂高は「行こう」と足を進めた。あずみは、ふらつく豊子を支えながら、家のあった方角を目指す。
視界に映るもの全てを排除するように、真っ直ぐに前だけを見据えて。
励みにして頑張ります!!