〜 天使の羽根 〜     No.19




 手触りの良い布が指先に触れ、穂高は双眸を閉じたまま、その温もりを掴んだ。ふかふかと心地よく、疲れた体を包み込んでくれる柔らかさの中で、現のような寝返りをやんわりと打つ。

「……ん……?」

 飛び降りた時にでも体を痛めたのか、穂高は少し苦痛の表情を洩らしながら、ゆっくりと瞼を開けた。

「ここは……?」

 まず初めに、霞んだ視界に映ったのは天井だった。

「穂高くん……?」

 そして、そこに懐かしい顔が覗き込むように入ってきた。不安そうな表情を見せたのは高生だ。

「気付いたんだね、もう三日も寝てたんだよ」

「三日も?」

 どうやら、ここは高志の家らしい。だが、自分がどうしてここにいるのか見当もつかないようで、眉根を寄せる。

「叔父さん、俺……一か月もいなくて、あずみの親も心配して」

「いや、穂高くん達は一か月もいなくなってないよ……」

 穂高の言葉を遮るように、高生は首を小さく横に振って見せた。

「え、何言って……でも、だったら今日は何日」

「今日は、九月二十一日だよ。あずみちゃんの誕生日から、六日しか経っていない」

「そんなはずなっ……」

 そう言って、穂高は上半身を起こすと、狐にでもつままれたような面持ちで高生を見つめた。だが、どうにも嘘を言っている風には見えない。

「体の方は大丈夫そうだね、良かった」

 優しい声で言った高生は、穂高の顔色を見てホッと胸を撫で下ろしたようだ。

「嘘だろ」

 穂高は額に掌を当て、記憶の糸を手繰るように思い出そうとするが、眉間に皺を寄せ表情を歪ませた。

――頭、痛ぇ……。

 そう思い、髪をかき上げようとして穂高はハッとする。

 出来れば夢であってほしいと願い、生々しく体験した事が全て幻だったのかもしれないと願ったが、やはりあれは現実だった。

 髪の短さが、過去へ行っていた事が嘘ではなかったと知らしめる。

――夢じゃなかった……過去に行ってた事も……ここにいる現実も。

「でも、帰って来れた?」

 ふいに呟いた穂高に、高生が「そうだね」と返した。

 思わず、穂高は息を呑み、高生を見つめ返した。

「時間にずれはあるけど、俺達……ちゃんと帰って来れたんだな」

 そう言って穂高は徐に布団をギュっと握り締める。

「……穂高くん」

「そう言えば、何で俺はここに? どこで俺を……」

 心配そうに言った高生を見て、穂高は不思議そうに問いかけた。

 だが、何も言わずに目を伏せた高生に、不安を募らせた穂高はその胸倉に縋った。

「あずみは? あずみはちゃんと家に帰ったのか?!」

「……それは」

「俺達、信じてもらえないかもしれないけど過去に行ってたんだよ。あずみと二人で……それで、満月の夜に川に飛び込めば戻れるかもしれないって教えてもらって!」

 取り乱すように説明する穂高の両腕を掴んだ高生は、今度は真っ直ぐにその瞳を見据えてきた。

「穂高くん。落ち着いて聞きなさい」

「え?」

 高生は、一呼吸置いてから、深い溜息と共に吐き出す。

「私が見つけたのは穂高くんだけなんだよ。この家にいるのは君だけだ。あずみちゃんは、ここにはいない」

 思いがけない言葉に、穂高は大きく目を見開いた。

「は? どう言う……意味」

「あずみちゃんのご両親は何も知らないから、娘がいなくなって捜索願を出している」

「あずみの……って、俺の親は?」

「穂高くんのご両親も、私同様、知っているんだよ」

「知ってるって、何を」

 穂高は、緊張が漂う中で、ごくりと唾を呑みこんだ。

「ってか、叔父さん、俺がどこに行ってたのか初めから知ってたみたいじゃないか……何で……つうか、だから、その……」

 しどろもどろになりながら、穂高は現状を把握しようと必死だった。

「そうだ、俺の髪とか……何でこんなになってるか聞かねぇのか? つうか、驚ろかなかったのかよ、いきなり坊主になってて……じゃなくて、俺たちが三日もいなくなったってのに、その……くそ、何言ってんだ俺……」

 そんな落ち着きのない様子を見ても、高生は至って冷静に頷いた。

「ああ、驚かない。何もかも知っているからね」

 落ち着きはらった高生に、まだ穂高は納得が出来ないでいる。

「何だよ、何もかもって」

 言葉を零しながら、穂高は頭を掻きまわすように項垂れ考えた。

 そして、一つの疑問が浮かび上がった。

「そう言えば……ここのクソ……じゃなくて叔父さんの母親も智子って名前だったよな……」

 恐る恐る聞く穂高は、ゆっくりと高生を見やった。そこには、先程とは違い今度は、沈痛な面持ちを引っ下げた高生が、今にも零れてしまいそうな涙を浮かべている姿があった。

「何とか言えよ、何を知ってるんだよ」

 答えを先急ぐように穂高は、高生の言葉を引き出そうとする。

「穂高くんが知っている事は……なんだね?」

 逆に疑問を返され、ぐっと拳を握った穂高は、高生に聞かれるまま話し始めた。

「俺が知っている事は……あずみと過去に行った時に、智子さんって人に出会って、その人が高志の婆ちゃんかも知れないって思って……でもその人は目の前で……目の前で」

 穂高は震える唇を抑えきれず、激しく噛締めると、目の当たりにした現実の悲惨さが蘇った記憶に襲われ震えはじめた。

「そうだ、死んでたんだよ……なのに、何でここには生きてんだよ……まさか今更、あれは人違いだったっていうのか? いや、でも……あずみだって間違いないって言って……それとも全部、俺の夢だったのか?」

 穂高は爆発してしまいそうな程の思考回路に苛立っていた。頭を激しく振り、魘される様に心を取り乱す。両手で頭を抱える穂高は、血の気が引いて、指先が冷たくなっていくのを感じていた。

「君の見たままだよ」

 穂高を見て、静かに高生は呟いた。

「え? それって……過去の智子さんは、あの、この時代の智子婆さんで、いや、でもそんなはず……見たままってなんだよ」

 穂高の中で何も繋がらない。穂高は頭をくしゃくしゃに掻き毟るように苛立ちを露にした。だが、一緒に帰って来たはずのあずみが、ここにいない事に納得がいかなかった。

「と、とりあえず、あずみの家に行ってくる。叔父さんはあずみがここにいないって言ったよな、だったら家に帰ってるかもしれないし」

 穂高は、整理のつかない気持ちのまま布団から立ち上がると、すぐさま部屋を後にしようとした。

「待ってくれ」

 だが高生は、そんな急ぐ穂高を引き留める。

「何だよ」

 苛立ちを隠せない穂高は、訝しそうに振り向いた。

 そこにいる高生は、何とも言えない寂しそうな表情を浮かべている。

「話を聞いてくれないか」

「何の話……後にしてくれないかな。今は早くあずみに会いたいんだよ」

 そう言って、襖に手をかけた時だ。

「無理なんだ!」

 高生の悲痛な叫び声が、穂高の心を抉り突き刺した。

「何でだよっ!」

 思わず反抗心を剥き出しにする穂高は、一歩も引かないと言った感じに、納得の出来ない言葉に食って掛かった。

 だが、高生は冷静さを取り戻した態度を見せると、小さく首を振って見せた。

「さっきも言っただろう、あずみちゃんのご両親は何も知らない、というより私の話に耳を貸さなかったんだ。だから、六日も帰らない娘を心配して捜索願を出している……」

「だからなんだよ! 俺が帰って来てるんだから絶対にあずみもいるはずなんだよ! 叔父さんが何を知ってるのかは俺にとっちゃ二の次なんだ!」

 怒りを露に叫んだなりだった。

 背後の襖がスッと開き、徐に振り返った穂高は、そこに立つ人物に否応なく驚かされる。

「いないのよ、どこにも……」

 その場に立ち尽くしているのが史恵だったからだ。

「か、母さん……何でここに」

「穂高が心配だから」

 取って付けたような言い草に、穂高は鼻で笑って見せた。

「は? 俺の心配より自分の男のとこ行った方がいんじゃね?」

 懸命に生きる過去の人たちを目の当たりにしてきた穂高だ。尚更、史恵を安易に認める事が出来なかったのだろう。

 しかし、史恵はいつになく真剣な表情を見せている。

「男なんかいない」

 そう言って、目に涙を浮かべていた。

「何言ってんだよ。だって毎晩のように男のとこに行くって化粧して出掛けて……」

「仕事してたのよ……」

 唐突すぎるその言葉を、簡単に鵜呑みにする穂高ではなかったが、驚きがないといえば嘘になる。

 史恵は、どうにか解ってもらいたいと思ったのか、穂高を真っ直ぐに見据え、いつものように視線を逸らす事はなかった。

「穂高の嫌いな水商売だったし……それに、父さんと本当は離婚している事も、自分で仕事している事も言えなかった」

「何、言って……」

「だって穂高の事だから、絶対に高校辞めて働くとか言いだしかねないでしょ。それだけは避けたかった。だから、お父さんにも、慰謝料なんていらないから……たまにでもいいから家に顔だけは出すようにって頼んでたの」

 穂高は、両脇に垂らした腕を震わせた。その拳を居た堪れない気持ちで握り締めている。

「……嘘、だろ」

「穂高には高校くらいは出て欲しいって思ってたんだけど……やっぱり意味なかったみたいね」

「……その意味が解んねぇんだよ……」

 どうにも煮え切らない空気が漂う中で、穂高は震える心を抱えたまま史恵を直視できないでいた。

「ごめんね、穂高。あたし、何もかも知ってたんだけど、どうしても受け入れられなくて……」

「だったら、あずみがどこにいるのか言えよ!」

「少しでもその時が来ても平気でいられるようにしてたんだけど……でも、無理みたい」

「そんな事、今更聞きたくねぇんだよ。あずみがいないってどういう事か説明しろっつってんだよっ!」

 二人の間で気持ちを彷徨わせる穂高は、苦しい喉元を抑え叫んだ。

 すると、高生は徐に行動を起こし、押入れを開ける。そして、あの晩、橋の上に置き忘れた二人の鞄を取り出した。

 高生は、その中から大切そうに小さな箱を取り出すと、穂高に差し出して見せた。

「……これは」

 穂高は下唇を噛締めた。

「穂高くんが、あずみちゃんに渡すはずだったプレゼントだろう? 誰かに持っていかれては大変だと思ったから、私が預かっていたんだ……君が帰ってくる今日まで……」

 穂高は、恐る恐る、その箱を手に取った。

「帰って来る日を……知ってたのか?」

「知ってたよ」

 そう言って高生は深く頷いた。

「何で……?」

 穂高の問いに、高生は申し訳なさそうにスッと視線を逸らした。

「……それは……」

「今更、言えないのかよ?」

「すまない、でも、何もかも聞いていたんだ。過去へ行く事も、戻る日も……」

「だったら、あずみの事も聞いてるよな? 俺が帰る日が解ったんなら、あずみは今どこに……」

「たぶん、まだ過去に」

 信じられない言葉を吐く高生に、穂高は怒りが心頭し、思い切り襖を拳で叩いた。その荒々しさにビクリと肩を竦め、史恵は両手で顔を覆い泣きだしてしまった。

「俺は確かにこの手にあいつの手を握ってたんだぜ! 離す訳ねぇんだよ! なのに、あいつだけ過去に置いてきちまったってのかよっ!?」

「たぶん……そうなんだと思う」

「思うってなんだよ! 俺の事は確実みたいな言い方したくせに、あずみの事は『思う』かよっ! くそっ!」

「……すまない」

 高生はそう言って、悔しそうな表情を見せた。だが、今、一番悔しいのは穂高なのだ。どうして自分一人だけがここにいるのか、そう思うと居た堪れない気持ちに押し潰されそうだった。

「高志は?」

 ふいに思い出したように穂高が呟くと、高生は「ああ」と言って続けた。

「高志には、穂高くんを連れて帰って来た時に話したんだ。居なくなった友達が帰って来たと思ったら坊主だなんて説明するには嘘がつけなかったからね……それに、一人で穂高くんを抱えては来れなかったから。でも、どうにも納得してくれなくて」

「当り前じゃん、誰が信じるかよ。過去から帰って来たなんて」

「それもそうだね」

 高生はそう言って、すぐさまクッと意を固めたように、穂高を見やった。

「母さんに、会って来てくれるかな」

「え?」

 思いも寄らなかった突然の申し出に、穂高は戸惑った。

 言われてみれば智子の姿がない。いつもならしゃしゃり出てくるような騒がしい人がいない事が、心のどこかには引っ掛かっていただろう。

 だが、内心ホッとしていた穂高だった。

 それもそのはずだ。目の前で死んだはずの人間かもしれない。高生は何も否定しない。今の時代に生きているかもしれないのだから、怖くないとは言えない。

 それでも、高生の意思には意味があるのかもしれない、と感じている事も事実だった。

「どこにいるんだよ、っていうか、何で会わなきゃならないか教えろよ」

「母さんは、一昨日入院した……前は食中りだなんて言って誤魔化してたようだけど、本当は違うんだよ。随分、痛みを我慢してたと思うよ……でも、会って欲しいのは、穂高くんがこの時代に帰ってきた後の過去を実際に知っている唯一の人だから」

 そう言って小さなメモを差し出す。

「本当は母さんも全てを語らない、でも穂高くんになら話してくれるかもしれない……それに、もう長くないらしい」

 差し出された紙には、智子の入院している病院名と部屋番号が書かれていた。

 高生の言葉に、穂高は納得したように頷くと、メモを受け取った。

「だったら、行くさ」

 そう言いざま、高生に背を向けた穂高だったが、崩れ泣く史恵を見流すと、ふいに脳裏を過る言葉があった事に気づく。

 すると、何かしらの違和感が湧き出す事に困惑した。

『高校くらいは出て欲しいって思ってたんだけど……やっぱり意味なかったみたいね』

 一瞬、ハッと瞼を開き動揺したが、この状況の何もかもを飲み込めたような気がしたのだろう。

 穂高は、フッと笑った。

――そっか……そう言う事か……。

 そう思い、穂高は手の中にある小さな箱を握り締めた。

「なぁ叔父さん。一つ聞いていいか?」

 穂高は振り向かないままに、高生に聞いた。

「何だね?」

「叔父さんの父親って……名前……何て言うの」

 思いがけない質問に、少し戸惑ったようだが、高生はクッと唇を噛締めると口を開いた。

「道彦……藤波道彦だよ」

「藤波?」

「ああ、養子だそうだ」

「そっか」

 穂高は確信したように、再び笑みを零す。

――だったら、俺のやるべき事は……一つしかないのかもしれないな。

 穂高は、そう感じて、智子の入院する病院へ向かう為、高生と史恵を残して家を後にした。

 穂高の背中を見送った高生が呟く。

「すみません、史恵さん」

 背中を丸め顔を上げないまま、小さく首を振り史恵は答えた。

「いえ、謝らないでください」

 高生は申し訳なさそうに唇を噛締めた。

「私はただ一人の親として……高志を守りたいんです……」

 その言葉に、声を張り上げて更に泣きじゃくる史恵の肩が大きく揺れた。












    
      

               

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