〜 天使の羽根 〜     No.20




 夜間入口に辿り着いた穂高は、静かに息を潜めるように院内に入っていった。あらかじめ高生に病室のメモを渡されていた穂高は、真っ直ぐに智子のいる病室へと足を向けた。

 ドアの前まで来ると、光の漏れる窓から察して、まだ智子が起きている事に戸惑う。

 だが、穂高は大きく深呼吸をしてから、そっとドアを開けた。

 智子はベッドに横になったまま、隙間の開いたカーテン越しに、大きな満月を浮かべる夜空を眺めているようだ。

 微かに唇が動き、息を吐き出すような声が漏れ聴こえる。

「あんたがたどこさ、ひごさ、ひごどこさ、くまもとさ、くまもとどこさ、せんばさ……せんばやま……には……」

 弱々しさの拭いきれない声で智子は歌っている。その、聞き覚えのある歌に、穂高は優しい表情で耳を澄ませていた。なかなか、声をかけられないでいる。

「たぬきが……おって、さ…………」

 智子の横顔を見つめる穂高は、燻る感情で動悸を煽る胸を押さえた。

――俺だけが戻ってきた理由は……きっとここにある。

 暫くして、智子は病室に入ってきた穂高に気付いたようで、途中で歌を止めてしまった。

 智子はぎこちなく、やっと動く首を動かし、穂高を見据える。

「お帰り、穂高」

 冷たく鳴り響く機械音に囲まれ、物々しい雰囲気を漂わせている病室だったが、智子の温かさに包まれているようだった。

 既に、智子の意識も朦朧としているのか、瞼を全て開けていられる状態ではないらしい。それでも、懸命に、その瞳に穂高を映そうとしている。

「あの……」

 穂高はゆっくりと、智子に近付いた。

 そして、智子の今にも閉じてしまいそうな瞳を見つめて、懐かしい輝きがある事を、改めて感じさせられていた。

 穂高は喉元にある、拭いきれなかった疑問の塊を嚥下すると、言葉を吐き出す。

「あずみ……なんだな?」

 そう、声を震わせ呟いた。

 病室の中を流れる空気が一瞬止まったが、それはすぐにも温かさを取り戻し動き出す。そんな中で、智子はゆっくりと頷いた。

 途端に、穂高の目には涙が溢れはじめる。

 今まで、幼い頃から自分たちを叱り、見守ってくれていた智子が、本当は穂高にとって大切な人だったのだ。戸惑いの中で、膨らむ違和感は拭えないものの、思い当たる節がなかった訳ではない。

 他人であるはずの自分たちに、いつも甲斐甲斐しく世話をしてくれていた影には、そう言った理由があったのだ。そう思うと、穂高の心には気付いてやれなかった悔しさが募った。

 あずみは、智子として、いつも穂高を……そして自分自身を見つめてくれていたのに……。

 浅い呼吸を吐き出しながら、あずみは辛そうに眉を潜め話し始める。

「あの時……あたしは、あの二人を置いて行く事を躊躇っていた」

 穂高は、下唇を噛みしめ、拳を握った。

「だから、あたしの体はここに戻ってこれなかったんだと思う」

「俺……お前を守るって言ったのに……ごめん」

 あずみは優しく微笑みを浮かべると、小さく首を振る。その目から、止め処なく涙が溢れだし、頬を伝った。

「穂高のせいじゃない。あたしの心が、残る事を願ったのだから……穂高のせいじゃない。すごく心配で、亡くなった智子さんを思うと、いつも可愛がってたキヨちゃんを置いて来れなかった」

「だからって、お前だけが……」 

 悔しそうに語る穂高に、あずみは申し訳なさそうに唇を震わせた。

「あたしはあの時代から、智子として生きる決心をした。あの時、穂高が消えてしまって、すごく悲しかったけれど……穂高が幸せになれたらそれでいいと思ってた……そう、思ってた」

 あずみは言葉を詰まらせ、やがてそれは嗚咽へと変わる。

「思ってた……離れた時は……だな」

 そう聞く穂高に、あずみは返事をせず、窓の外に視線を向けてしまった。だが、穂高はあずみを愛しそうに見つめる。

「こんな、皺くちゃになって……知らせるつもりはなかったのに」

「でも、もうこうなるって運命は変えられなかったんだよ……で、俺がここに戻って来れたのは……」

 そう言いかけた穂高の言葉を遮るように、あずみはスッと手を重ねてきた。

「あの時代は、苦しいよ。食べ物も、何もない、それこそ辛い……生活が、待ってる。だか、ら」

 穂高は、あずみの手を握り「大丈夫」と微笑みを返した。だが、目の前のあずみは、今にも消えてしまいそうだった。

「苦しいのか、あずみ」

「穂高には……幸せになって……もらい、たい、から……行かない、で」

「……幸せだよ……お前さえいれば、何もいらない」

 そう言ったなり、あずみは双眸を閉じ、短い息を繰り返す。

「あずみ、今誰かを呼んで……っ」

   見る見る蒼白になるあずみを見かねて、穂高が立ち上がりコールをしようと手を伸ばした。すると、瞼を閉じたままのあずみは、その穂高の手を探る様に手繰り寄せると、力一杯に握り、引き寄せた。

「傍に、居て、ください……ずっと、ここに」

 年老いたあずみの手が、穂高の手を握り締める。その皺を、穂高はそっと撫でた。

「傍にいる……あずみ」

「もう……先に逝ってしまったあなたに、看取られるなんて、こんな幸せはない……」

「……あずみ……」

「ありがとう、名前、呼んで、くれて」

「……あずみ?」

「……ほ、だか……来て、くれて……ありがとう」

 愛する人に名を呼ばれ、愛する人の名を呼び、あずみは最後に幸せそうに微笑むと、静かに息を引き取った。

「あずみっ?!」

 虚しさが突き上げる叫びに、もう返事はない。

 懐かしい怒声も聞く事はない。揺さぶる体は、まるで人形のように動かなかった。

「あずみ」

 嗚咽が木霊する病室で、いつまでも穂高は、愛しい手を握り締めていた。

 どれだけの時間、そうやって傍にいただろう……そして、穂高は心に誓う。

――もう一度、帰ろう……あずみが待っている、あの時代へ。あずみが何と言おうと、それを望んでいなくても、俺はお前の傍にいたいんだ。

 そう思った時だ。

 智子の首元にきらりと光る物を見つけると、穂高はそっと、それを手に取って見た。

「これは……」

 指先に触れたそれは、紛れもなく穂高があずみの為に買った『天使の羽根』だった。

 現代に置き忘れ、渡せなかったはずのペンダントを、目の前のあずみが持っているはずがなかった。何故なら、自分の手の中にも同じものがあるからだ。

 一本のチェーンに飾られた天使の羽根は、まだ輝きを失わずに重なっている。

 穂高は、そっとペンダントを裏返して見た。

 そこには、やはり『hodaka』『azumi』と一枚ずつに同じ文字が刻まれている。

 この世に、二つと同じものがないプレゼントだ。穂高は、自分の考えに確信を得ると、真剣な瞳をあずみに向け、意を決した面持ちでギュッと唇を噛締めた。

「やっぱり、俺は……この為に……」

 穂高は、自身の手の中にある箱を握った。

「……待ってろよ」

 穂高はそう言って、そっとあずみの手を名残惜しそうに放すと、コールを押して病室を後にした。



     ◇



 穂高は、大切なプレゼントを握り締めたまま、月夜ヶ橋まで来ていた。だが、見上げた空に、満月はない。

「やっぱ、今じゃ無理かも……」

 そう呟いた時だった。

「信じられるかよっ!!」

 穂高の背後から、涙声とも取れる叫びが飛んできた。

 ゆっくりと振り向いたそこには、息を切らした高志がいた。

「高志、何でここに?」

「お前が病院から飛び出してきたから、後追って来たんだよ!」

「……そっか」

 その返事を聞いた高志は、怒りを露にして足早に穂高に近付いた。

「過去に行ってたなんて事、そんなの現実的に有り得ねぇだろ?!」

 そう言って、高志は穂高の胸倉を掴んだ。今にもその頬に拳が突き出されそうな勢いだ。

「信じられなくて、当り前だよな」

 小さな声を洩らす穂高に、高志は拳を震わせたが、徐に下ろすと胸倉を掴んでいた手を離した。

「でも、あずみだけがいないんだ……」

 穂高は、真っ直ぐに高志を見つめる。

 すぐさま高志はその視線を逸らすと、拳に募った怒りを突出した。だが、その矛先は穂高の頬を掠め、冷たい欄干に突き当たる。

 鈍い音が弾き出され、穂高の心が震えた。

 出来る事なら、自分を殴ってほしい、そう思ったのだ。

「あずみを過去に置いてきやがって」

 高志は、何度も欄干に拳を叩きつけた。

「ごめん」

 悲しみに打ちひしがれた声で謝る穂高に、高志は振り向き、再び胸倉を掴むと、鼻先が擦れる程近く引き寄せた。

「俺はあずみが好きだったんだ! でもお前の事、あいつが好きなの知ってるから、俺は言わなかったんだよ!」

 驚きを隠せない穂高は、目を見開いた。それでも、逸らす事はしない。

「高志、ごめん」

  驚きを隠せない穂高は目を見開いた。それでも、真っ直ぐにその気持ちを受け止めようと、逸らす事はしない。

「高志、ごめん」

 渡せない、そう言わんばかりに穂高はぐっと拳を握った。

 高志の気持ちを受け入れるも、絶対に引き下がる事は出来なかった。かといって、受け流す事も出来ない。

「ごめん」

「謝るなよ!」

「ごめん」

「謝るなって言ってんだろっ! お前がもし、本当に過去へ行ったんだったら、お前一人で過去に残ればよかったんだよ! 何であずみだったんだよ!」

「ごめん」

 最早、穂高にはそれしか言えなかった。

「くそったれ!」

 高志は思い切り良く穂高を突き放すと、欄干に突っ伏して泣き崩れた。勢いよく尻餅を付いた穂高だったが、すんなりと立ち上がる事は出来なかった。

 交差する想いが穂高の心を痛く抉る。

――もし、俺が……高志の気持ちに気付いてやれてたら。

 そう思うと、苦しくて苦しくて仕方がなかった。













    
      


               

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