〜 天使の羽根 〜     No.21




 何事もなかったかのような当り前の儀式の中で、穂高の内に膨らむ悲しみなど、弔問に訪れた者は誰も気付きもしない。

 誰もがただひっそりと、今まで智子として生きてきたあずみの人生を何も知らずに偲んだだろう。

 過去を生き、この時代で年をとり、あずみは何を思ったのだろう。今の穂高には、まだ計り知れない事だ。

 そんなあずみの葬儀が、智子としてしめやかに執り行われてから一ヶ月近く経つ。

 心にぽっかりと空いてしまった虚無の漂いを埋められないまま、穂高は家にも帰れずにいた。あれから、まだ高志の家に居候している。しかし、そう進めたのは史恵だった。

 ぎこちない高志と穂高の仲を気遣ったのか、解り合えるまで、納得し合えるまで傍にいるのが一番いい、と言ったのだ。

 それでも、史恵も同じ時間を過ごす事を諦めた訳でもなく、何故か毎日、藤波家に顔を出していた。そうして、男だけじゃ不便だろうと夕飯を作っていくのが日課になっていったのだ。

 既に穂高の、史恵への反発は消えていた。

 相変わらず夜の仕事を辞めずにいるが、生活するには必要な事だと理解している。だから、咎める事も出来ないままだったが、受け入れる素直さもなかった。

 ただ史恵の行動を黙って見ている事で、自分自身に許すという気持ちを植え付けていた。

 今日もまた、史恵は夕飯の支度を済ませ、寂しげな笑顔を穂高に向けて仕事へと出掛けて行った。

 食卓に並べられた夕飯から、温かな湯気が立ち昇る様を、穂高はジッと見つめていた。

「……母さん……」

 穂高は、聞き取れないほど小さく掠れた声で呟いた。

「おっ、穂高くん飯か」

 仕事帰りの高生が玄関から入ってきた音さえ聞こえなかった穂高は、驚いたように振り向いた。

「え、あ、はい」

「いつもありがたいね。穂高くん、高志は……」

「あ、部屋にいます……今日も学校に行ってなくて……まぁ、俺もだけど」

「ああ、いいよ。気持ちの整理がつくまで……ああ見えて、幼い頃はお婆ちゃん子だったから」

 辛そうに瞼を伏せた穂高は「俺、呼んできます」と言って、高志の部屋へ向かった。

「高志、飯だって」

 ドアを何度かノックするも、高志の返事はない。

 穂高は諦めたように高生の待つ居間へと早々に引き下がる。

 あれから何度も話しかけたが、解り合えるどころか、高志は穂高と目を合わせようともしなかった。

 大きなため息を吐き、穂高はいつも、投げやりな態度の高志の背中を見つめる事しか出来なかった。

「すまんね、穂高くん」

 着替えを済ませた高生が見兼ねて、申し訳なさそうに穂高に話しかける。

「いえ」

 穂高は何とか笑顔を作り返すと、座敷に飾られたあずみの遺影を見つめた。

「本当はどこまで聞いてるんですか? それに、高志には……どこまで言ってあるんですか?」

 ポツリと穂高は聞いた。

「それは」

「あの人が誰だったかおじさんは知ってるんですよね、でも高志にはまだ言ってないんでしょ? あずみを置いて、俺が過去から帰ってきた事以外……」

「とりあえず飯にしよう」

 煮え切らない返事をする高生は、穂高の言葉を遮り、居間のテーブルに向かい座った。

「おじさん」

 その背中を見つめながら、穂高は高生の後に続いて目の前に腰をおろす。

「史恵さん、いつも作ってくれてありがたいね。でも一緒に食べれなくて残念だよ」

 そう言って話を逸らしたがる高生の目を、穂高はジッと見据えた。

「ところで、おじさんのお父さんの名前……道彦って言うんですよね」

 とにかく、穂高は話を戻そうとしていた。

「あ、ああ……」

 言葉に詰まりながら、高生はまだ、穂高を見る事が出来ない。静かに箸を取り、茶碗を持つが、その手は微かに震えていた。

「道彦さんも」

 穂高が言うなり「え?」と、わざとらしく返した高生は、ようやく観念したように箸を置いた。そして、ゆっくりと顔を上げる。

「穂高くん、君はもう……知ってるんだね」

 その言葉に、穂高はゆっくりと頷く。

「道彦さんも俺の目の前で死んでた……生きてるはずがないんだ。だから……きっと」

 そう言った穂高は、再び高生の肩越しにあずみの遺影を見つめた。

「おじさんは、俺が帰って来る日の事を誰に聞いたんですか」

「…………」

「あずみが知ってたとは思えない。帰ってきたのは俺だから、このままだと知るはずがないんだ……戻る日も場所も……何をしに来たのかも……もし知ってたとしたら」

「…………」

 高生は、黙りこくったまま項垂れた。

「あずみは、俺が幸せになる事を願ってた……だから、過去へ行った事も、自分が誰なのかも言いたがらなかったのかもしれない……でも」

「でも?」

 掠れた声を高生が呟く。

 穂高は、それでも真っ直ぐに、自分の進む道を見つめるように、前だけを見ている。

「道彦って人なら、きっと伝えると思うんだ。ここにある未来で俺が……迷わないように導くために、さ」

「……穂高くん」

 高生はそう呟いて、強く瞼を閉じた。そして、徐に開けると、ようやく穂高を見つめ返した。

「俺に病院へ行けって言ったのは、誰かにそう言われたんだよな」

 高生は諦めたように小さく頷いた。

「何もかも、君の思うままだ」

「そっか……やっぱそっか」

 穂高は少し伸び始めた髪をくしゃりと撫でた。

 高生は静かに口を開き始める。

「親父が話してくれた事があった。もうすぐ、この近くに自分が生まれるんだって……初めは何を言ってるのかと思った。とうとうボケちゃったかって……でも、暫くして、それらを信じるしかないようになっていったんだ」

 高生は乾いた喉を閏わすように、一気に目の前のお茶を飲み干した。

「まるで予言者のように言い当てていくんだ。その子の名前も、その幼馴染の名前も、家族構成も通う高校も何もかも……君らが大きくなっていって、だんだん怖くなっていった」

「そりゃ怖いよな……」

「ああ、だから本当の事を確かめたくて、よく穂高くんにちょっかい出しちゃって……」

「そう言えば、高志よりも俺にちょかいだしてたね、おじさん」

 そう言いながら、穂高はクスリと笑って見せた。

「親父には……背中に」

 そう言いながら高生は自分の背中を探り指す。

「ほらちょうど、この肩の部分に大きなホクロがあったんだ」

「ホクロ」

 言いざま、穂高はキョトンとした表情を見せた。

「……ああ、だから必死におじさん、俺と風呂に入りたがった訳か」

「それもそうなんだけど。でも次第に、それはもう必要なくなっていった。大きくなる君を見て、親父の言う通りに未来が描かれていったから。でも、どうにも接し方を突然変える訳にもいかなくて」

「そうなんだ。でも簡単にはやっぱ信じられないでしょ……例えば他にもある? おじさんが、その話を聞いて信じた決定的な証拠」

「ああ、あるよ」

 そう言って暫く黙りこくった高生だったが、やんわりと腰を上げると、仏壇の横にある古びたタンスの一番上の引き出しを開けた。

 そして、何かを取り出すと、それを穂高の目の前に差し出す。

 だが、それを見て、思わず穂高は息を呑んだ。

「これっ……て」

 それは、見覚えのある色褪せた一枚の写真だった。

「俺が過去で撮った、写真?」

「ああ、親父に何も聞けなくなった時、まだ真実を確かめたくて母さんにも聞いてたんだ。でも察しの通り初めは母さんも恍けててね、なかなか教えてくれなかった。でも、親父に聞いた事を話すと、母さんは全てを語ってはくれなかったけど、これを見せてくれたんだ。それで確信したかな」

「なんでここに……これは、あの日に焼けたはず……」

 震える手で穂高は写真を受け取ると、穴が開く程に眺めた。

 過去に行ってすぐ、豊子に言われるまま流され、道彦に撮ってもらった写真だ。

「大きくなる君たちを見る度に、心が引き裂かれそうになって……でも、親父は嘘を付いていなかったってようやく解った」

「でもこれは」

「それは、本当の智子さんが命に代えて守った写真だったそうだよ」

 高生の言葉に愕然とする穂高は、わななきを抑えきれず、だんだんと手の中の写真が震えていった。

「じゃ……あ、まさか、智子さんはこの写真の為に戻って……」

 褪せた写真の表面が、滴に濡れる。

「そんな……たかが写真の為に……」

「当時の智子さんの気持ちは解らないけれど、燃やしたくない大切なものだったんだろう」

「こんな写真なんかの為に……」

 穂高は、あまりの悔しさに、唇が切れるほどに噛締めた。

「他にも幾つか写真を抱き締めていたそうだよ。婚約者の写真を何枚も……もう会う事がなくて、形がなくなっても、写真の中で生きている思い出を燃やしたくなかったんだよ、きっと」

「だからって、命がなくなったんじゃ意味ねぇし……」

「そうかもしれない……でも、そうじゃないかもしれない。それはもう、智子さんにしか解らない価値だから……」

「そんなの……」

「確かな事は、生きている者が誰かの意思を、幸せを繋いでいくしかないって……忘れちゃいけないって親父が言ってた」

 穂高は小刻みに肩を揺らし、項垂れたまま顔を上げる事が出来なくなっていた。

「くそ……俺って、こんなに泣き虫じゃなかったのにさ」

 そう負けん気を押し出すも、既に涙は止められない。

――繋げる。

 それが、何を意味するのか、既に高生も解っているのだろう。

 静かに穂高を見つめ、優しく見守っているようだった。

 鼻を啜り、穂高はようやく顔を上げる。

「これ、俺が帰った後にでも、高志に見せて説明してやってよ」

「穂高くん」

「俺がいる時じゃ、全然話も聞いてくれないだろうし、でも何も知らないまま俺がどこに消えたのか説明しやすいだろうし」

 穂高はそう言うと、大切に智子が守った写真を、高生に手渡した。

「おじさんも母さんも、こうなる事は知ってたんだろ。俺が戻ってきた事が事実になった時から、きっと、この先に俺がどうするのかも聞いてるはずだよな」

 高生は何も言わない、だがそれが、知っているという解釈になるだろう。

「満月……来週の十月十五日だから……」

 穂高は小さく呟いた。












    
   


               

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