〜 天使の羽根 〜     No.4




「智子おばあちゃ〜〜〜ん!」

 空が赤く染まった時刻、大声で店先から叫んだあずみは、踵を上げながら心配そうに店の奥を覗き込んだ。

「なんだい、騒々しい〜」

 などと、然も面倒くさそうに言いながら顔を出した智子だったが、明かに嬉しそうな微笑みを浮かべていた。

 元気そうな智子の顔を見た瞬間、あずみの顔も優しくほころぶ。

 二人が笑うと、右頬に同じような笑窪ができる。互いにそんな他愛もない共通点がある事に親しみを感じる部分があった。

「思ったより元気そうで良かった」

「何言ってんだい、あたしはまだまだ元気さ、あずみちゃんがお嫁に行く日をちゃ〜んとこの目で見届けなくちゃと思ってるんだからね」

 そう言って智子は腕まくりをすると、細い腕に力こぶを作って見せた。

「やだ、おばあちゃんったら無理しないで、でも元気そうで良かった。おばあちゃんには、お嫁に行く日じゃなくて子供だって見て欲しいんだから、もっと長生きしてくれなくちゃダメよ。あたしはそんなに早くお嫁にいけないと思うし」

「またそんな謙遜して。穂高がいるじゃないか」

 途端に、あずみは耳まで赤くなる。とっさに熱くなった頬を隠したが、全ては隠せないようだ。

「や、やだ! 何言い出すのよ、おばあちゃん……あ、あたしは別に……穂高とは、そんな、関係じゃ……ないし」

 いつも威勢の良いあずみも、智子の前では何でも見透かされているような気がして、だんだん頼りなく声が小さくなっていった。

「素直じゃないねぇ」

 茶化すように智子は言い、肘で軽くあずみを突く真似をする。

「もう、おばぁちゃんには敵わないなぁ」

 あずみは、恥ずかしそうにはにかみながら舌を出した。

「当り前だよ、あんたより何十年長く生きてると思ってるんだい」

「おばあちゃんも、昔は恋とかしたんだよね」

「そうだよ」

 智子は思い馳せるように遠い目をして見せた。その瞳の中に、優しさと寂しさが交差しているようにも見える。

「人を好きになるって素晴らしい事だと思うよ。だから、言えないままって言うのは悲しいね。素直に自分の気持ちと向き合って、互いの心を確かめ合ってこそ、恋はもっと素敵になるんだよ」

「……うん」

 あずみが軽く頷くと、その心には誰が映っているのか智子には解っているようだった。

 それ以上何も言わず、あずみの肩をポンっと叩くと、深い皺がより一層刻まれた。



     ◇◆◇



 早退した手前、時間を持て余した穂高はゲームセンターで暇を潰し、夕刻に帰宅した。

「あ〜クソ……ババァのとこなんか行かなきゃ良かったぜ」

 そんな呟きを零しながら、穂高はズボンのポケットから無造作に鍵を取り出すと、鍵穴に差し込む。

「あれ?」

 いつもなら閉まっているはずのカギが開いている事に穂高は首を傾げる。

「何で開いてんだよ。締め忘れか」

 などと再び溜息と共に吐き出した言葉は重い。

 だが、玄関に入るなりその気力は更に下がる。ドタドタとリビングから走り寄る足音が徐々に近づく。

「お帰りなさい穂高ぁ、寂しかったぁ」

 廊下に顔を出しざまに叫んだのは母親の史恵(ふみえ)だ。待ちかねたように穂高に抱きつき頬ずりをする。

 歳に似合わず緩やかな縦巻きの髪に、大きく胸の開いた花柄のチュニックに厚化粧、おまけにきつい香水を漂わせ、穂高にとっては迷惑極まりない。

「んだよ、くっせ〜な! 離れろ! 馬鹿親!」

 そう言って訝しく顔を顰めると、穂高は史恵の体を自分から引き離した。

「いいじゃん、別にぃ……親子なんだからぁ」

 だが、史恵は懲りもせず穂高の腕に纏わりつく。

「うぜぇ」

 最早、抵抗も虚しく感じたのか、穂高は靴を脱ぐと、じゃれる史恵の腕を絡めたままリビングへ入った。

 ソファにカバンを置き、キッと史恵を睨む。

「つうか、何でいるんだよ」

 その言葉に史恵はにっこりと微笑んだ。

「あはっ。今からお出かけに決まってるじゃん。今日は彼、夜勤明けだったからデートは夜ぅ」

「何が『あはっ』だ、馬鹿か……てめぇ旦那いるだろうが」

 大きく溜息を落とす穂高の唇に、史恵は真っ赤なマニキュアの塗られた人差し指を「しっ」と宛がった。そして、艶やかなリップが光るふくよかな唇を尖らせる。

「……パパの事は言わないで、気分が悪くなるから」

 どこか寂しげに瞳を曇らせた史恵だったが、穂高はそれを避けるように視線を逸らした。

「どんな夫婦なんだよ」

「だって、先に女を作ったのはパパよ、あたしだって遊びたい年頃に穂高産んじゃったし、仕方ないじゃん」

 いつも聞かされる言葉に穂高はげんなりと肩を落とした。父親の話をすると必ず出てくる『仕方がない』という史恵の言い訳が好きではない。

 確かに、たかだか十六歳で子供を産んだ事は早いと穂高は思っていた。周りの友達が遊んでいる最中に子育てをしていたと溜息をつき話す史恵を見ては、幼い頃なら同情さえしていた程だ。

 見た通り口も行動も軽い女だが、穂高にとっては唯一の母親なのだ。

 そして、その反動が今なのだろう。だが、それをまるで他人を責めるような言い草なのが穂高には気に入らない。それが自分のせいであると聞こえるのだろう。

「嫌なら産まなきゃ良かったんだよ」

 ポツリと落とされた言葉だったが、史恵は気にも留めないのか更に穂高の腕に頬を擦り寄せ甘える。

「ああん、そんな事言ったら寂しいぃ」

「うそつけ」

 穂高は史恵の腕をすり抜けるとキッチンへと向かった。冷蔵庫を開け、目の前に並ぶ酒類を眺める。食べ物が少しあるがそれは摘まみと言われる物ばかりで、ほとんどが酒類だ。

「これしかねぇのかよ」

 そう言いながらも、穂高は一本の缶ビールを取り出した。

「コラ未成年、あまり飲み過ぎちゃダメよ〜」

 言いながらウィンクを飛ばす史恵は、いそいそと出かける準備をしているようだ。

 普通なら止めるだろ、と穂高は史恵を流し見ながらも、この母親に限ってないだろうと諦める心が先に湧き上がる日常だ。

 プルタブを引き開ける虚しい音が響く。

「明け方には帰るから、パパも三日は帰ってこないし」

「別にいいんじゃね? どっちもずっと帰ってこなくて」

「もう、意地悪なんだから! 穂高のお弁当作らなきゃダメでしょ?」

 そう言いながらも、鏡を前に髪形をチェックする史恵の心は既に彼氏の所に飛んでいるのだろう。穂高を見ようともしない。

「別に作ってくれなんて頼んでねぇだろ」

「でも、ママがいるのにお弁当なかったら嫌じゃん」

 ジャラジャラとバックを掻き回しリップを取り出すと、更に丹念に塗り始める。

「それは俺じゃなくてアンタがだろ」

「……だってぇ、少しは母親らしい事したいじゃない?」

 自分を見て欲しい訳ではない、それは当の昔に諦めている事だった。だが、今現在こうして近くにいるにもかかわらず向き合って会話をしようとしない史恵に穂高は苛立った気持ちを募らせた。

――どうでもいい時には絡んでくるくせに。

 そう思うも、史恵には何を言っても無駄だと諦める心がある。

「何で疑問形なんだよ……ったく、いつも持たされるあずみの身にもなれよ、迷惑かけんな! 外面だけ上手く行ってますって言う家族ごっこが嫌なんだよ」

「ひっど〜い穂高、それでもあたしの息子?」

 そこでようやく、史恵は準備を整えたのか脹れっ面を引っ下げて穂高を見た。

「好きで息子になったわけじゃねぇだろ」

「っていうか、あずみちゃんは穂高の事が好きだから嫌じゃないはずよ」

「ばっ!」

 史恵の言葉に動揺した穂高は、耳まで赤く紅潮する。

「ばっかじゃないの?! 誰がそんな事言ったよ! 話すり替えんな!」

「見てれば解るわよ〜あずみちゃんは昔から穂高が好き……っていうか、好きじゃないと困るぅ」

 あはは、と笑いながら史恵はリビングのドアに手をかけた。

「何でだよ、勝手に決めんなババァ!」

「だってあずみちゃんなら可愛いから穂高上げてもいいかなって」

「俺はモノじゃねぇよ!」

 当たり前じゃない、と呟きながらも史恵は腕時計を見やると時間がないのかさっさと玄関へと向かった。

「さっさと出て行け!」

「あ〜御夕飯はテーブルの上に置いといたからねぇ〜」

 史恵の叫び声がフェードアウトするように小さくなっていくと同時に玄関が閉まる音が響いた。

「ばっかやろう……」

 穂高は震える手に持ったビールを、ヤケクソのようにぐいっと飲んだ。大きく喉を通過する炭酸がきつく、引っかかる感覚に穂高は眉を顰めた。あまりにも一気に流し込んだせいでむせ返った穂高は一息ついたが、しつこく纏わりつくような味に、その後を飲む気にはなれなかった。

「苦っ……」

 悲しげな瞳をぶら下げてそう言い、袖口で口を拭うと、そのまま飲みかけのビールを一気にシンクへと流し捨てた。

 泡立ち流れていくそれを見ながら虚しさだけが沸々と蟠っていく。

 傍らを見れば、夕飯だと言ったカップラーメンが視界に飛び込んできた。空き缶を握る指に、自然と力がこもる。

「何が母親らしい事だ……どこに男とデートして朝帰りの母親がいるってんだよ……ろくに帰ってこない父親って有り得ねぇっつうんだよ……どこが家族なんだよ」

 流しきった空き缶を勢いよくシンクに叩きいれた穂高は、両手拳を強く握り締めた。

「初めから結婚なんかすんなってんだ、くそったれ!」

 震える肩を慰めるようにゆっくりと落とすと、立ち竦んだ穂高は、静かになった部屋を見回した。

 誰もいない空間に、何も見出せない虚無感が心の中を漂う。

「俺なんか……ここにいる意味ねぇよな……」

 誰かに答えを求めているように呟く声は、より一層の静けさを運んだ。






    
   


               

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