〜 天使の羽根 〜     No.5




 何も口にする事なく二階の部屋に戻った穂高は、着替えもしないまま早々に布団に潜りこんだ。

 満たされぬ腹に同じく、心の中にもぽっかりと隙間が開いたような感覚に襲われ、何度も大きく寝返りを打ちながら溜息を繰り返していた。

「あ〜くそ、イライラする」

 特に両親に何かを求めている訳ではないのに、どこか寂しさが拭いきれない言葉が布団の中にくぐもる。

 ふと、抜け殻のような瞳で窓の外を眺めた。そこには、深く茜色に染まり、今にも闇に飲み込まれそうになっている空があった。 

 徐々に襲い来る暗闇に、穂高は一瞥の不安を募らせる。その原因が何なのかはっきりと解らないままに、再び深い溜息を吐いた。

「ほっだか〜」

 いつもの声が響くと同時に、部屋のドアが開いた。

 穂高はハッと我に返り起き上がると、開いた先を見やる。そこからは、あずみがひょっこりと顔を出していた。

「何だよあずみ、勝手に入ってくんな」

「いいじゃない、いつもはそんな事言わない癖に」

 ぷっくりと頬を膨らませたあずみは穂高の傍に近づくと、ベッド脇に腰をおろす。

 そっぽを向く穂高の顔を覗き込み、あずみはその頬を茶化すように人差し指で突っつき始めた。

「こらこら、機嫌悪いぞ。何かあった?」

「別に」

 あずみの指を払いながら、穂高は更に顔を背けた。

 フウッと溜息を落としたあずみは「そう、ならいいけど……」と、少々呆れ顔でカバンを開き、一冊のノートを取り出すと、穂高の目の前に差し出した。

「これ今日のノート、取って置いたから後でちゃんと勉強しなさいよ」

 それを横目に、穂高は「……ああ」と一言だけ発すると、再び頭からすっぽりと布団を被ると横になった。

「何、今日は全然素直じゃないな……あ、いつもか」

 言いながら、あずみは布団を大きく揺さぶる。

「マジで何かあったんじゃないの〜?」

「うるせぇよ、用が済んだらさっさと帰れ」

 穂高は更にギュッと布団の中に丸まりながら叫んだ。

「ほんっと穂高ってばそう言うとこあるよね」

 妙に引っかかる物言いのあずみ。

「どういうとこだよ」

 思わず穂高は布団を捲ると顔を出した。そこにあるあずみの顔は、穂高の瞳に心なしか悲しげに映った。

「何も話してくれない」

 悲しそうに言った言葉に、チクリと胸の奥が痛んだように感じた穂高は、分が悪そうに視線を逸らす。

「話す必要ねぇし」

 言いながら、穂高はやんわりと体を起こすと、無愛想にあずみの手からノートを取り上げた。

「せっかくだから見てやるよ……大して頭に入らないだろうけどな」

 そう言って頬を紅潮させたが、それを悟られないように再びそっぽを向く。

 だが、そんな穂高にあずみは「うん、期待してない」と言いながら満面の笑みを見せた。

フッと表情がほころんだ時だ。穂高の腹の虫は我慢ならずに大きな音を部屋中に響かせた。

「あ……お腹、空いてるんだ」

「す、空いてねぇよ」

 穂高の頬はますます赤みを帯びていく。

「え〜嘘、今お腹鳴ったでしょ?」

「鳴ってねぇって」

 あずみは、そんな恥ずかしげに否定する穂高を余所に腕まくりをすると、スッと立ち上がった。

「よし、何か作ってあげる」

「いいよ別に」

 だが、穂高の制止する言葉も聞かず、あずみはそそくさと部屋を出て階段を駆け下りて行った。

「ちょ、あずみ!」

 穂高もその後を追い、階下まで駆け降りる。すると、既にあずみはキッチンに向き合っていた。

「キッチン借りるね」

 そう言いながら「冷蔵庫も開けるよ〜」等と聞き、了承する間もなくその中を覗くと、奥の方で出番を待っていた使いかけの野菜や総菜等を、鼻歌を交えながら適当に見繕って抱えていく。

「賞味期限は……うん、大丈夫そうね……ご飯もある、っと」

 ビールが殆どの割合を占める冷蔵庫を見られて穂高の心には羞恥が湧き上がっていくばかりだ。

「ちょ、いいって、そんな事しなくても」

 手にした残り物を奪い取り言った穂高。

だが、気にも留めず、すぐさま奪い返した野菜をシンクに置いたあずみは、穂高の背中をリビングに向けて押した。

「いいからいいから、穂高は座ってて」

 そう言って無理矢理にソファに転がすように突き飛ばされる穂高は唖然とするしかなかった。

 そして、そのまま諦めたように溜息を落とした。

「まったく、お節介だな……」

 呆れたように呟いた声だったが、どことなく弾んだ部分がある事は、穂高自身、否めない気持ちがあった。

 そして、昼間の言葉を思い出す。

『ただあんたはあずみちゃんが好きなくせに意地張ってるみたいだからね』

――うっせぇババァ。

 心の中で言われた言葉に反抗してみるも、どこか虚しい。

 楽しそうに料理を作るあずみの背中を見つめるだけで、鼓動が加速して行くのを感じている。お節介と言いながらも、本当は自分の傍に居てくれる事が嬉しいのかもしれない。そんな感情が穂高の中に渦巻いていく。

 いつも一緒にい過ぎて気付こうとしなかった。

――ババァが変な事言うから、余計に意識しちまうんじゃねぇか?

 そう言い聞かせるも、やはり嘘は付けない自分がいるのかもしれない。

 正直、いい加減な母親にはうんざりしている。そんな寂しい部分をいつもあずみの存在が補ってくれているのは確かだった。

 ない物を求めているのかもしれない。

――当たり前過ぎて気付かない振りをしていた……はっきり言って恋愛なんか良く解らねぇ、でも俺は……きっとあずみが……。

「おばさんは今日も仕事でしょ? 大変ね、ここ最近ずっと夜勤じゃない?」

 不意に振りかえったあずみに、穂高は慌ててテレビのリモコンを手にした。

「あ……ああ、そうだな」

 しかし、反対に持っているせいでなかなか電源が入らず、更に慌てふためく。すると、その手から軽々しくひょいっとリモコンが取り上げられた。

 見れば、呆れた顔を引っ下げたあずみが「ば〜か、反対」と言いながら横に立っている。

「反対に向けてても付く訳ないでしょ」

 そう言ってあずみはテレビの電源を入れた。特に見たかった訳ではない穂高だが「サ、サンキュ」と、ぎこちなく礼を言った。

「い〜え、どういたしまして」

 にっこりと微笑んで、再びあずみはキッチンに戻った。

 それを横目に、穂高は激しく躍動する鼓動が抑えきれなくなっていた。

「おじさんも出張ばっかりで滅多に帰ってこないし、穂高ってばウチにご飯食べに来ればいいのに」

 独り言のように呟くあずみの声も、穂高にとっては右から左だった。呆然とあずみの背中を瞳が追ってしまっている。

 あずみの家では、出張が多い父親と、夜勤で忙しい母親と言う家族像が出来あがってしまっている。ゆえに、幼い頃から一人でいる事が多かった穂高を気遣ってくれる部分があった。

 こうやって、年頃のあずみが出入りしていても何も言わないのは、可哀想だと言う先入観と並行して、信頼と言う壁があるのかもしれない。 

 穂高にとっては、もどかしく募るあずみへの気持ちを打ち明けられない理由がそこにあったのは確かだ。

「前は良く一緒に家族旅行に行ったよね」

 再び、あずみの声が耳に届き、穂高はハッと我に返る。

「また行きたいなぁ」

「……もういいだろ。子供じゃないんだし、家族ぐるみなんて面倒臭いよ」

 穂高はそんな寂しげな言葉を落としていた。

「そんな事ないでしょ〜絶対にみんなで行ったら楽しいって」

「そうかな」

「そうだよ……ハイ、出来た」

 会話を交わしながら目の前に並べられたのは、あずみ特製のチャーハンだった。

 あずみは穂高の好きな物を知っている。だが、ここで作れるものと言ったら乏しい材料の中では限りがあった。その為、作ってあげると言うあずみの料理は必ずと言ってこれだった。

 既に定番になっているメニューだ。

 穂高は傍らに添えられたスプーンを持ち、一口食べる。

「美味しい?」

 目の前に座ったあずみが、頬杖を付いて聞いてきた。だが、その笑顔には素直に答えられないらしい。

「……不味い」

 そう言って、穂高はチャーハンを口に運んで行く。それを聞いたあずみは、頬を膨らませ「え〜何それ」と言うが、それ以上責めはしない。それどころか、すぐさましゅんと瞳を伏せ反省の態度に変わる。

「ごめんね」

 こんな時、穂高は激しい罪悪感に襲われる。美味いものを不味いと言ってしまう自分の捻くらしさが、心底嫌になる瞬間だ。

 いつも素直になれないまま、あずみを傷つける事に慣れている訳ではないが、どうにも上手く伝えられない。

「嘘……美味いから……」

 小さく呟いてみるものの、落ち込んでいるあずみの耳には届かないらしい。

「じゃぁ今度はもっとマシに作るからさ」

 あずみは気持ちを切り替えたように明るく振舞いながら言う。こんな健気な部分も、穂高にとっては心をくすぐられる。

「そうだ、今日、智子婆ちゃんのとこ行ったらね」

「ぶっ! な、ななな、何言われたんだよ」

 思いも寄らなかったその言葉に、思わず穂高は口に含んだものを噴き出してしまった。

「何慌ててんのよ……べ、別に何も言われてないよ」

「げほっげほっ! あ〜違うとこ入った! ごほっ!」

 穂高は痞えた胸を叩きながらキッチンに向かうと、忙しなく冷蔵庫を開けた。

「恋は素直になるものなんだって教えてくれただけだよ」

 あずみは穂高に向って言ったが、今度は穂高が聞こえていないらしい。

「だぁ〜くそ! この家にはビール以外の飲み物がないのかよっ!」

 乱暴に冷蔵庫のドアを閉めた穂高は、コップを手に取ると蛇口を捻り水を汲んだ。そして、一気に飲み干す。

「ぷはぁ〜くそ。まだ取れねぇ、何か痞えて……ってあれ……あずみ今何か言ったか?」

 二杯目を飲んだところで、ようやく穂高はあずみの声がしたような気がして振り返って見た。

「ううん、別に。何も言ってない」

 あずみは両手を左右に振って笑った。

「そっか」

 二人にはどうやらタイミングというものがないらしい。いつもすれ違う関係に、お互いの気持ちだけが募る毎日だった。

「そうだ、今度の日曜日に買い物行かない?」

 目の前に戻ってきた穂高に、あずみは嬉しそうに言った。

「何でお前と一緒に行かなきゃならないんだよ」

「いいじゃない別に、欲しい本もあるし服だって、それに駅前に新しいケーキ屋さんが出来たんだよ。穂高ケーキ好きでしょ」

「嫌いじゃないけど……」

 穂高は再びスプーンを持ち、銜えながら答えた。

「けど?」

 沈黙が二人の間を通り抜ける。暫し考え込んだ穂高は、思いついたように拳で片方の掌を叩いた。

「あ〜そうそう、日曜日は……ほら、高志と約束があるんだよ」

「ほらって言われても……高志とだったら三人一緒でもいいじゃん」

「ダ、ダメだろ、高志は甘いものが嫌いだし、それに……男同志で語りたい事もあるんだよ」

「何それ。語るって青春ドラマじゃあるまいし、二人の話が合うとは思えないけど……高志が興味あるのは女の人のスリーサイズと……って、まさか穂高! 高志とナンパしに?!」

「んな訳ねぇだろ! 俺と高志を一緒にするな」

「だったら別にいいじゃん」

 執拗に食い下がるあずみに、穂高はいい加減にしろと言わんばかりに口を尖らせた。

「ああもう、うるさいなお前、マジでもう帰れ」

 その言葉に、流石のあずみも頭に来たようで、いつもの素直さはどこへやら、穂高に向って思い切り舌を出した。

「はいはい、わかりました! 帰ればいいんでしょ、帰れば!」

 あずみは立ち上がるとリビングを出ようとドアに向かう。

「あ〜帰れ帰れ」

 そんな穂高の声に押されながら、あずみは振り返るともう一度舌を出して見せる。

 そして、荒々しく締められたドアに続き、玄関を出ていく音が響いた。

「ったく……毎日毎日、良く飽きもせず来るよな……」

 そこで、ようやく穂高は肩を落とした。

「日曜日か……高志と約束……」

 考える事もなく答えは明らかだ。

「してねぇな……」

 穂高はすぐさま携帯を取り出して高志への交渉を始めた。






    
   


               

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