〜 天使の羽根 〜     No.9




 カーテンの隙間から朝の光が漏れる部屋に、目覚まし時計が鳴り響く。眠りの世界にけたたましく届く音と同時に、ドンドンとドアが叩かれた。

「まだ寝てるんか? 高志、はよ起きなさい」

 智子の声で、のそのそと布団から手が伸び、鳴り響く目覚ましを止めた。

 やんわりと体を起こした高志は、大きく背伸びをする。

「あ〜かったるい」

 そんな呟きを零しながら、高志は部屋を出ると居間を覗いた。

 すると、そこには仕事に行ったはずの高生が、まだのんびりと新聞を広げている。

「お、おはよう、高志」

 眠気眼を擦りながら、高志はじっと高生を見つめる。

「つうか、何でいるんだよ、親父仕事は……」

「今日はちょっと体調が悪くてな……ごほっごほっ……いや〜参った参った」

 わざとらしく空咳をした高生は、高志を見る事もなく、今度はテレビのニュース番組を見いった。

「嘘くせぇんだよ……ったく。ばあちゃ〜ん! 親父がズル休みしてるぞ〜!」

 その声に、智子は面倒くさそうに台所から居間を覗いた。

「何だい朝から騒々しい……おや、ズル休み?」

「そうなんだよ、ガツンっと言ってやれよ」

 だが、高生を見ても素知らぬ顔で「ああ」と言っただけで、すぐさま台所へ戻り朝御飯の支度の続きに忙しさを醸し出す。

「ま……たまにも良いんじゃないかい」

 普段は生活態度にも口うるさい智子の言葉だとは思えない高志は、訝しく眉間に皺をよせた。

「はぁっ?!」

「は〜さてさて、ご飯を食べたらさっさと学校行きなさい。店番も楽じゃないんだよ、はい座った座った」

 智子は少し曲がった腰を叩きながら、いそいそとみそ汁の味見をしている。

「ちょ、ばあちゃん。俺にはいつもズルはダメだって怒るくせに、何で親父には何も言わないんだよっ」

 苛立ちを募らせる高志に見向きもせず、智子は忙しなく食卓にご飯を並べていった。

 それを見て、高生も平然と食卓に向き直ると箸を持つ。

「高志も早く顔を洗って食べてしまいなさい」

 そう言って「いただきます」と手を合わせた高生は、何食わぬ顔でご飯を食べ始めた。

「おい、親父……」

「母さん、目玉焼き半熟がいいって言ってあるのに」

「贅沢言うんじゃないよ、まったく」

「おい……ズル……」

「あ〜母さん、そう言えば俺、ワイシャツにソース零しちゃって滲みを……」

「知ってるよ、まったくこの子は……ちゃんと取れたよ。あたしを誰だと思ってるんだい。早く気付いたから良かったけど」

「え? 取れたのか?」

「当り前だよ、ソースの滲みにはご飯粒を塗り込むんだ、でもこれが有効なのはその日のうち。今度は隠さずに言いなさい」

「はいはい。まぁ取れたから良かった。昔の人の知恵は結構役に立つもんな〜今度からは忘れずに……」

 そんな会話を交わしながら、突っ立ったままの高志に、口を挟ませる余裕を持たせないようにしているようだった。

「何だよ、ったく……」

 高志は疎外感を拭いきれず、不貞腐れたまま洗面所に向かい、身支度を整え始めた。

「ご飯は?」

 居間から飛んでくる高生の声に「いらねぇ!」と叫んだ高志は、さっさと部屋に戻ると、制服に着替え始めた。

 鏡を覗きながら指先で前髪を整えると、愛用の眼鏡をかける。そこに映る自分自身を見つめ、高志は小さく舌打ちをした。

 高生に似た顔に、更に苛立ちが募るようだ。

「くそ、納得いかねぇな……親父の奴」

 言いざま拳で鏡を小突くと、部屋を後にした高志は、居間にいる二人を無視するように足を踏み鳴らして玄関へと向かった。

「静かに歩きなさい」

「うるせぇ」

 反発心を露にしながら高志は靴をはいた。

「なんだい、その態度は、高志! 朝ご飯を抜くと一日持たないよ」

 説教じみた智子の声に返事をしないまま、荒々しくドアを開けた高志は、目の前に立つ人影に一瞬、おっと身を引く。

「おっす」

「あ、穂高か」

 軽く手を上げる穂高だったが、不貞腐れた表情を引っ下げた高志は、それすらも無視すると地面をトントンっとつま先で叩いた。そして、待っていた穂高を横切り、さっさと先に歩きだした。

「あ、おい、待てよ」

 慌てて穂高はその後を追う。

 だが、横に並んだまでは良かったが、澱んだ空気が伝わったようで、様子を窺うように穂高が口を開いた。

「何だよ、嫌に今日は機嫌が悪そうだな」

「別に……」

 明らかに不機嫌さが伝わる声色だ。

「女にでも振られたか?」

「俺が振られる訳ねぇだろ」

「だよな」

 お茶らけて笑って見せる穂高だったが、内心は心配しているようで、ふうっと溜息を落とした。

 そんな穂高を横目に、高志も同じく溜息をつく。

「俺、何でもねぇから……ちょっと親にムカついただけっつうか」

 ぼそりと高志が呟いた。

「親か……あんな明るい親父にでもムカつくんだな。結構、俺から見たら羨ましい親だぜ」

「明るいっつうか、ウザくね? しかも自分の親じゃないからそう言えるんだよ。都合のいい事ばっか言うって言うかさ」

「どこの親も一緒だよ。でも、高志んとこの親はまだ子供を見てると思うよ。まぁ確かにウザい部分はあるけどな。でも無いもの強請りっていうか……全然、子供に見向きもしないで構わない親もいる訳だし」

「……それって」

 言いかけた高志の言葉を遮るように、穂高は歩きながら、ぐんと大きく背伸びをして見せた。

「あ〜朝から暗くね? 俺ら」

 はぐらかした物言いの穂高に、高志はそれ以上の言葉が繋がらず、フッと笑みを零す。一応、慰められているという事が解ったようだ。

「確かに……」

「話題変えようぜ。せっかく久しぶりにお前の顔見て登校すんだし」

「っていうか、どういう風の吹き回しだよ。迎えに来るなんて」

「ま、たまにもいいだろ」

 言いながら口を尖らせた穂高に、高志は眉を上げた。

「はは〜そっか、あずみに置いてかれたんだな」

「先に行かせたんだよ」

 ムキになって穂高が反発する。その態度で、高志は再び溜息を吐いた。

「何だよ、また図星かよ。俺はあずみの代わりですか〜」

「またって言うな」

 二人はじゃれ合うように突き合い、先ほどの気持ちの蟠りを解したようだった。

「それより、もうプレゼント渡したのかよ」

 ふと高志が聞くと、穂高は「ああ、あれ」と言ってはにかんだ。

「……放課後渡す事にした。どうしても誕生日に欲しいんだってさ」

 穏やかに微笑むその表情に、高志は温かい眼差しを送る。

「女心だねぇ……そっかそっか……ま、頑張れよ」

 肩を叩く高志に、穂高は耳まで真っ赤に染めていった。

「何を頑張るんだよ!」

「だってお前、あずみに告るんだろ?」

「ば、ちょ、え、何?!」

 慌てふためく穂高を尻目に、高志は悪戯っぽく視線を流す。

「いい加減さ、首に紐でも付けとかないと他の男に取られるぜ」

「は? 紐って」

 キョトンと穂高が聞き返す。

「知らないんだろ。あずみが他校の男に人気あんの」

「え、そうなのか?」

「当り前だろ、あずみはなんだかんだ言って顔は可愛いからな。結構狙ってる奴いるぜ。少なくとも俺の学校にもいる。この前聞かれた」

「な、何て?」

「あずみと同じ中学だろ、とか、彼氏とかいるのか……とか色々さ」

 指折り思い出すように言った高志が、ふと穂高を見ると、明らかに表情に曇りがさしているのが解った。

――そんなにモテるのか、あずみのやつ。

 穂高は焦りに似た感情を湧かせていた。

 自分の世話を焼いてくれるからと言って、近くにいるからと言って、それが好意に繋がる自信はなかった。幼馴染だと言われてしまえばそれまでなのだ。高志の言葉に、穂高はだんだんと心を沈ませていく。

「遅かれ早かれ、素直になって損ないだろ……自分の気持ち伝えないままってのは後悔だけが残るぞ」

 穂高は「後悔」と言う言葉を聞くなり、ギュッと拳を握った。

「……後悔……したくねぇな……でも」

 元気なく呟く穂高に、やれやれと高志は肩を竦めた。

「はは、でもそれで振られても俺のせいじゃないからな」

 高志は思い切りよく、そう言って穂高の背中を叩いたが、「でも、大丈夫だよ」と、安心させる優しい声で小さく呟いた。

 そのまま、反対方向の道筋に辿り着いた二人は、拳と拳を合わせ打つ挨拶を交わすと「じゃあな」と言って別れた。

 互いに背中を向けて歩いていく。だが、ふと足を止めた高志は、頑張れよ、と背中を押すように、いつまでも穂高の背中を見つめていた。



     ◇



   一日、珍しく穂高は教室を出る事なく授業を受けた。

 三つ斜め前に座るあずみの背中を眺めるも、結局その日、放課後の鐘を鳴らす今まで、視線を絡める事はなかった。

――こんな調子で、今日来るのか?

 あずみが、本当に言葉通りに約束の橋に来るのか不安だけが募る。

 実際、昨日プレゼントを受け取らなかったのは、穂高の気持ちを察して避けた為ではないのだろうか、という曲った思いさえ浮かぶほどだった。

 声をかけようにも、あずみは友達といる事が多く、穂高を避けているようにも見えたからだ。いつもなら弁当を持ってくるあずみが、今日は持って来なかった。

 あずみの涙を見たにもかかわらず、一瞥の不安が過るのも当たり前だった。

 穂高は、教科書をしまう際、鞄の奥に忍ばせたプレゼントをジッと眺めた。

――それでも、結果がどうあれ、気持ちを伝えてはっきりさせたい。

 それは、自分自身への気持ちの整理なのかもしれない。

 振られたら振られたで、今までのように怖がって避ける必要もなくなる。恥ずかしさに冷たくあしらう事もなくなる。

 子供の頃のように、素直に接する事が出来るかも知れない。

 そう思ったのだ。

 いざとなって悩み始めると止まらなかった。

 プレゼントを眺めたまま時間だけが過ぎ去り、いつのまにか閑散とした教室に穂高だけが取り残されていた。

 西陽を取り込んだ教室が赤く染まる。

――よし。

 ようやく穂高は、決意新たに教室を駆け出すと学校を後にした。



     ◇



 すっかり空に陽がなくなり、薄暗く染まった街を駆け抜ける。

「マジ俺ってネガティブじゃね?」

 誰にともなく言いながら、息せき切って走る穂高だったが、既に約束の放課後という時間は過ぎている。

 悩み始めるとキリがない。

「くそ、結果なんかどうだっていいんだよな」

 人波溢れる街を掻き分け、やっとの思いで郊外を目指した。その間、空に暗雲が過り、しとしとと雨を降らせ始めた。

 約束した月夜ヶ橋は、市街地を抜けた場所だった。そこは海に近く、潮の風が流れてくる。田園と区切られた大きな川に架けられた全長五十メートル程の橋で、車の通りこそあるが、人は極めて少なく、週末ともなればデートスポットに変わる。

 街のネオンをバックに、橋の上から遠くに灯る漁火が良い具合に恋人たちの雰囲気を高ぶらせるのだとか……だが、穂高にとっては幼馴染と言う三人の思い出の場所だった。

 今でこそ冷たいコンクリートに塗り固められた用水路のせいで少なくなったが、昔はよく、智子に連れ立たれ蛍を見に行った場所だった。

 仄かに灯る思い出の光に、三人の胸にはいつまでも消えなかったのだ。大人になったら、三人の恋人を連れてこの場所に来ようなどと約束した橋。だからこそ、穂高はこの場所を選んだ。

 昨日の約束に、幼い頃の約束を照らし合わせる。

 そして、今宵は満月。

 ネオンも漁火もいらない。ただ、自然の光だけが二人を包み込んでくれれば、素直になれる気がしたのかもしれない。

 橋に辿り着いた穂高は、肩で大きく息をしながら中心に目を凝らした。前髪が雨に濡れ、視界が悪いが、そこにはっきりと見つけた。

「あずみ?」

 人影を見出した穂高は、徐々に近付く。

「あずみ!」

 そう言って、来てくれていたという嬉しさを胸に、穂高は再び駆け出した。

 だが、そこにいた影は、一つではなかった。

「危ないよ? こっちに来て……降りて」

 必死に叫んでいるのはあずみだった。

「あずみ何やってんだよ」

 ようやくあずみの声を聞けた喜び反面、穂高は並成らぬ空気に表情を顰めた。

「だって、この人が死ぬって言うんだもん、止めなきゃ」

「え?」

 あずみが指差した方向を見て、穂高は驚きのあまり目を見開いた。その欄干の上には、フラフラとした足取りで女の人が立っている。

「ね、お願いだから、そこから降りよう?」

 あずみが緊張した声を発しながら手を差し伸べ一歩近付いた。

「おい、マジかよ……つうか、この人……」

 雨に濡れた人影は、見慣れない格好をしていた。お下げ髪に、セーラー服こそ着ているが、違和感がある。良く見れば、頬も黒く煤汚れていた。

 穂高の中でその違和感が大きな蟠りとなって締め付ける。

「いや……死なせて」

 女の人は小さな声で呟くと、ゆっくりと二人に背を向けた。

「ダメだよ! そんな簡単に……あっダメっ!」

 ふわりと倒れかかった女の人を見て、慌ててあずみが身を乗り出した。咄嗟に掴んだ手に吸い込まれるように、あずみの体も濡れて滑りやすくなっていた欄干を超え宙に浮いた。

「あずみっ!」

 穂高の体が反応し、落ちる寸前のあずみの腕を絡め取る。

「穂っ……」

 欄干に体全体を預ける形で穂高は二人を支えた。だが、片腕に圧し掛かる二人分の体重は限度を超えていく。やがて、震えだした腕は体を伝わり力を奪っていく。

「離すなよ……くっ……あずみ……」

 必死に掴むあずみの手が、徐々に緩み雨に滑っていく。

「絶対に……離さねぇからな!」

 言いざま、グッと穂高はあずみを持つ手に力を込めた。

「お願い死なせて! あの人がいないのに生きてても意味ないっ! お願い! あたしだけ離してっ!」

 その下にぶら下がった女の人は、涙ながらに訴えた。その言葉にハッとした穂高は、怒りが心頭し怒鳴った。

「ばっかやろう……生きてる意味ないなんて言うな! 少しでもいいから意味見つけろよ! 絶対に誰も離すもんか……あ……暴れんなよ」

 以前は自分でも考えていた事に腹が立ったのかもしれない。自分に言い聞かせるかのように、必死に離すまいと歯を食いしばる。

 しかし、その腕の限界は近付きつつあった。

「ダメ穂高……離して……みんな落ちちゃう」

 宙ぶらりに両腕を引き千切られんばかりのあずみは、穂高を持つ手を緩めていく。

「バカ! 離すなっ!」

 そう言って今一度、力を込めた瞬間だった。片方の腕に気を取られた穂高は、欄干を持つ手に痺れが走り、且つ滑った。

 そして、そのまま、三人の体が橋を離れた。

「うわっ!」

 闇に飲み込まれる雄叫びと共に、三人の体は真っ逆さまに落下して行った。



     ◇



 しとしとと雨が降り注ぐ。

 今しがた、三人が落ちて行った橋の上に一人、傘を差して立っている人がいた。

 その人は、穂高とあずみの残した二つの鞄を拾い上げると、小脇に抱える。

 そこへ、どこからか見ていたのだろうか、傘も差さずに必死に走り寄ってくる男が、蒼白の表情を引っ下げて橋の下を覗き込んだ。

「今、誰か落ちませんでしたかっ? 遠くから影が見えて、叫び声も! 警察に連絡をっ!」

 慌てふためく男の肩を、傘を差した人物は掴み止めた。

「いえ、誰も落ちてませんよ……勘違いじゃないですか?」

「え、でも、確かに……」

「ここにずっといました、誰もいませんでした」

「……そうなんですか?」

 その返事を聞きざまに、踵を返した人物は、足取りも緩やかにその場を去っていった。

 やがて雨はやみ雲が切れていく。大きな顔を出した満月は、何事もなかったかのように橋を照らした。






    
   


               

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