〜 心と心 〜 




 

     

 ふと、目が覚めた。

 

「あ、俺……」

 

 寝てたんだな……そう思って徐に体を起こした。 

 

 今、何時だ? まだ視界がぼんやりと霞む中、外を見やると、まだ太陽が高い事を知る。

 

あれからずっと、こうして大人しく家にいる。別に何も悪い事なんかしてないのに……何やってんだろ、俺。

 

そう思いながらも、啓介の事が頭に浮かんで身震いした。俺は、自分自身を両腕で抱きすくめた。

 

初めて、啓介の事、怖いと思ったんだ……だけど、そんな感情の中に哀しさが見え隠れする。啓介は悪くない……悪いのは、はっきりしなかった俺だ。

 

開いた窓の隙間から、やんわりと風が舞い込んだ瞬間、目に飛び込んできたリストバンドを見るなり、頬が紅潮していくのが解った。

 

『俺が好きなのは、今も昔も、ずっとお前だけだから』

 

 陽の言葉が脳裏に木霊する。

 

 あいつはそう言った。

 

 この俺に、そう言ってくれたんだ……まさか、夢じゃないよな…………。

 

 啓介の事で、かなり心は動揺してた。だけど、陽の言葉に、そんな蟠りが溶けていくのを感じる。

 

 怖いよりも、嬉しいの方がすごく大きい。

 

 そう考えてた時、部屋のドアを叩く音が聞こえた。

 

「晶……俺、今日、遅番だからもう行くけど」

 

 いつもよりも静かな親父の声。きっと、何も言わない俺の事、心配してるんだと思う。でも、言えるわけがない。

 

 なんて言えばいのかとかも、解らないし。

 

「昼飯、テーブルの上に置いといたから、温めて食えよ」

 

「ああ」

 

 俺は、ただそんな淡々とした返事しか出来ない。

 

「ちゃんと戸締りしとけよ」

 

「ああ」

 

「早めには帰ってくるけど」

 

 いつもはそんな事、言わないのにな……他の事ならずけずけと干渉してくるのに、俺の声のトーンが違う事わかってる時なんかは、すごく遠慮するって言うか……そういうとこ……結構、助かるけど。

 

「……ああ」

 

 ごめん、親父……心配ばっかかけて。

 

「……じゃぁ行って来る」

 

 そう呟いて、親父は部屋の前から遠ざかる。その足音は、すごく寂しげなのが解る。

 

 小さなため息が漏れた。

 

 今日はこれで何度目だよ。

 

 何も出来ない俺、何も言えない俺……すごくもどかしい。そうだよ、俺はまだ、陽に返事すらしてない。今まで抱えてきた想いを、伝えてない。

 

 陽は――……好きだって言ってくれた。

 

 だから、俺は腹を決めたんだ。

 

 こんな俺でもいいのかな。

 

 こんな――……俺でも。

 

 いつまでもぐずぐずしていたくない。絶対に伝えよう。そう思い、ギュッと両拳を握りと、俺はベッドから飛び降りた。そして、一階のリビングに向かう。

 

 テーブルにはきちんとラップされた皿が並んでいた。それを横目に、道路沿いの窓際まで駆け寄った。

 

 さすがに今日は外に出るのは気が引ける。親子連れにも笑われた事だし……ってか、あれは俺の格好にビビったんだよな。

 

でも、待つんだ、ここで陽が来るのを。

 

 今朝、陽が家の前にいたって事は、もしかしたら通るかもしれない。今まで会った事なんかなかったけど、気付かなかっただけかもしれない。きっとあいつの家はこの辺なのかもしれないんだ。

 

 ずっと学校に行けば会えるって思ってた。だから気が付けなかったんだ。

 

 同じ道だったとか、知らなかった。

 

 そう言えば、昔よく陽とテニスをしたコートが近くにある。ここは北区なんだし、不思議じゃない。

 

 そうと決まれば、俺はここから動かないぞ。

 

 絶対に陽に言うんだから……好きだって……言うんだ。

 

 ちらりと時計を見やる。

 

「あ、まだ二時じゃん」

 

 早すぎる時間に、俺はまた溜息を零した、と同時に腹の虫がなる。

 

 こんな時でも、腹は正直だな……辛い事があっても悲しい事があっても、何があっても腹は減るんだと思い知る。

 

 俺は渋々と、親父の作ってくれた昼飯に手をかけた。ラップをめくると、まだ温かい感触が指先に伝わった。そして、椅子に座る。

 

 目の前にあるのはオムライス。

 

 俺はスプーンを手にして、カチャリと皿を叩いた。

 

「ガキじゃねぇんだから」

 

 そう呟きながら笑った。

 

 親父は何かあると決まってオムライスだった。

 

 俺に嫌な事があった日も、友達とけんかして泣いて帰ってきた日も、試合に負けた日も……母さんが死んで初めて作ってくれた親父の手料理も。

 

そこにある真っ赤なケチャップが俺を笑顔にする。

 

 親父は、とろとろ卵のオムライスに、必ずニコニコマークを書き添えて、二本の小さな旗を立てるんだ。

 

 旗に支えられて、ラップに潰されなかったニコマークは綺麗に笑顔を作っている。

 

「久しぶりに見たかも」

 

 言いながら一口すくって食べる。変わらない味、思い出の味……そして、優しい味だ。

 

「味、かわんねぇ……」

 

そう笑いながらも、涙が溢れる。

 

 もう一口食って、更に食って……俺はいつも、親父に元気をもらう。

 

 嫌な事も忘れて、友達の事も許せて……親父の優しさに喜びも幸せも倍増するんだ。

 

 

 

 

     ***

 

 

 

 

俺は食べ終えた食器を片づけて、そのままリビングに居座っていた。窓際に椅子を置いて座り、通りを見つめる。

 

 すごく長い時間だった。

 

 今まで陽を好きだった時間の方が長いはずなのに、今日、この時の方が長く感じる。会えない時間が、今までよりも寂しい。

 

 好きだって言われたら嬉しい半面、どんどん欲張りになるのが解るんだ。

 

 陽の事を考えるだけで幸せだった。毎日教室で、その姿を見るだけで満足だった。なのに、今はどうだ……一分一秒でもいい、早く会いたい。長く見つめていたい。

 

 ずっと、傍に――……居たい。

 

 秒針の音がやけに耳に届く。

 

「まだかな」

 

 そんな言葉を何度呟いただろう。

 

「石になっちまう、訳ないか」

 

 そんな言葉が漏れて、ふと、不安が過る。既に七時だ。いくらなんでも部活は終わってるだろ。

 

もしかしたら、ここは通らないかもしれないんじゃないのか?

 

いくら北区でも道は何本もあるっての……たまたま陽が俺の家を知ってて、来てくれただけなのかもしれない。

 

 でも誰に聞いて……知ってたんだ?

 

 いや、今はそんな事どうでもいい。

 

もし、今日このまま陽に会えなかったら……いや、明日言えばいいのか。いやいやいや、明日は土曜だ、学校がない。

 

おまけに部活も二連休だった気がする。

 

そしたら、月曜日まで、このもやもやした気持ちを抱えてなきゃならないのか?

 

そんなの辛すぎる。

 

折角、陽が言ってくれたのに……早く会いたいのに。

 

 でも、この時間なら、もう陽は家に帰ってるはずだから、外に出たとしても会える確率は少ない。

 

「何やってんだろ、俺」

 

俺はまた、今日何度目かも知らないため息をつく。

 

 こんなに陽に会いたいと思ったのは、初めてかもしれない。

 

 俺を好きだと言ってくれたんだ。こんな、俺を……だから、早く、会いたいんだ。

 

 だけど、いつまでたっても陽は通らなかった。

 

「今日はもう……会えないかもな」

 

 俺は、また大きな溜息を落として部屋に戻る事にした。

 

足が重い……でも、心はそんなに重くないんだよな。

 

 陽に会えない時間は長くて苦しいけど、繋がってるんだって思えば平気だ。今までずっと片想いしてたんだから……こんなもん……。

 

部屋に入り、時計を見やると既に八時を指していた。

 

「……陽――……」

 

 不意に漏れた声に、感情が溢れ始める。

 

 やっぱり会いたい、今、会いたい。

 

 会って……好きだって伝えたい。

 

 何年も抱えてきた想いを……今――……。

 

 言えなかった時間の分だけ、寂しさが募っていく。陽の気持ちを知った今、切なさが増す。

 

 だって、俺は言ってないんだから……早く、伝えたい衝動が抑えられない。

 

「江口って表札を探せばいいんだろ」

 

 自分に言い聞かせるように呟くと、上着を手に取った。そして、ドアノブに手をかけた時だった。

 

コツン、と窓に何かが当たる。

 

 風か?

 

 そう思いながら首を傾げて、今一度ドアを引こうとした。だけど、また窓に何かが当たる。そして、耳の奥に声が届いて、俺の身体が震えた。

 

「晶?」

 

 

――……え? この声……まさか。

 

 

「いるんだろ?」

 

 思うよりも先に体が反応して、すぐさま窓際に駆け寄る。そして、恐る恐るカーテンを掴み、外を覗いた。

 

 鼓動が、破裂するくらいに跳ね上がる。

 

「あ、あきっ?!」

 

 なんで?!

 

 そこには、ずっと会いたいと思っていた陽が、ベランダ越しに立っていた。

 

「よお」

 

 柵に両肘をつき、俺を見つめる陽が、いる。

 

「え、そこ」

 

 綺麗なお姉さんの部屋だよな? え? なんで陽が?

 

「俺の部屋」

 

「え?」

 

 この状況が上手く飲み込めない俺は、硬直したまま動けないでいた。

 

「い、いつから……」

 

 声が震える。

 

「お前が越してくる前から、ここ、俺の家」

 

「う、そ、だろ?」

 

「マジだよ、つうか、お前どこ行ってたんだよ……ずっと待ってたのに」

 

 にっこりと陽は微笑んで、すぐさまその表情は真剣に変わる。

 

「初めは姉貴の部屋だった。でも、晶が隣だって知って、代わってもらったんだ」

 

「な、んで」

 

「お前の傍にいる為に決まってるだろ」

 

「俺の……傍に?」

 

「ああ」

 

 そう言って陽は俺に向って手を差し伸べた。

 

「来いよ」

 

 俺は、カーテンをギュッと握りしめた。一歩が踏み出せない……ずっと会いたかったはずなのに、なかなか足が前に出てくれない。

 

「早く出てこい」

 

「う、うん……」

 

 俺の身体、ガチガチだ。

 

 こんな近くに居ると思ってなかったから……こんなすぐ傍に……。そう思いながらも、踏みしめるように俺は足を前に出していく。

 

そして、やっと陽の目の前に立った。

 

「長かったよ……ここに出る勇気がなくて……すごく、苦しかった」

 

 言いながら陽は、俺の頬にそっと触れた。

 

 ぴくりと肩が上がる。

 

 冷たい陽の指先に、俺の全神経が集中する。緊張しすぎて硬く瞑った目を開ける事ができない。

 

 いったいどれくらい待ってたんだよ。冷え切った陽の手が、その長い時間を物語る。

 

 ――……俺が、待たせてた……?

 

「晶……俺を見て……」

 

 その言葉に、ゆっくりと瞼を開けた俺は、陽を見上げた。

 

 夢なら、覚めないでくれと願う。

 

 月明かりに照らされた陽の顔が目の前にある。こんな幸せがあっていいのか? 本当にこれは現実か?

 

 そう思いを巡らせながらも、見つめる陽の口端が切れている事に気付いた。

 

「あ、お前……怪我、してる?」

 

 絞り出した声に反応して、陽はその口端を撫でた。

 

「ああ、でも大した事ない」

 

「でも」

 

「そんな事より、返事」

 

「え?」

 

「お前の返事、まだ聞いてない」

 

 お互いの目を見つめ合って、俺たちの間を風が擦り抜けた瞬間、陽の柔らかな黒髪が靡いて、キラキラと月明かりに光った。

 

 俺は、小さく深呼吸した。そして、ベランダの柵にかけられた陽の手の甲に、そっと、自分の掌を添えた。

 

 そこから伝わる陽の体温に、緊張が解けていく。

 

 見れば、陽の頬も、俺と同じく紅潮しているのが解った。

 

「……ずっと、解ってたのか?」

 

「え?」

 

 俺の言葉に、陽は少し目を見開いた。

 

「俺が……あの時のガキだって」

 

 だけどすぐに、柔らかく目を細めて微笑みをくれる。

 

「ああ、解ってた。ずっと……」

 

 優しい眼差しに、俺の胸がきゅっと締め付けられて、想いが溢れる。

 

「俺は……怖かったんだ」

 

「怖い?」

 

「そう、ずっと怖かった……お前が『女は嫌いだ』って言ったから……」

 

 そう言って、俺は少し強く陽の手を握り締めた。

 

「は? 俺が?」

 

 きょとんとした顔で、陽が聞き返してきた。

 

「だから、あの時も俺の事を男として見てたから仲良くなれたんだって思ってたんだ」

 

「いや、俺はお前が女だって知ってたよ。だから一緒にいたんだ」

 

 そう言って、陽は俺の手に、もう片方の手を重ねてきた。そして、優しく包み込む。

 

「そう、なのか?」

 

 今度は俺が目を丸くした。

 

「当たり前だろ。晶じゃなきゃ、誘ってない」

 

 俺だから、声をかけたのか? 俺が女だって知ってて、あの時から、陽は俺の事、見ててくれたのか?

 

 陽は更に頬を赤らめ、少し視線を外した。そして、恐る恐るというふうに言葉を繋ぐ。

 

「じゃあ、入学式の日に名前を偽ったのは……嫌われてたからじゃなくて?」

 

「俺がお前を嫌う訳ないだろ?!」

 

 咄嗟に叫んでた。

 

 嫌ってたからじゃない、怖かっただけなんだ。

 

「ガキの頃は俺の事を男だと思ってると思ってたから……女として向き合いたかった……女として、俺を見てほしかったんだ……だから、あの時は怖くて……男だと思われてたのに、今更女だったって知られるのが怖くて……嫌われたくなくて」

 

「俺だって晶を嫌うはずない……絶対!」

 

 重なるだけだった両手を、陽は自分の胸に押し当てて、更にギュッと握りしめてくれた。そして、両肩をぐいっと引き寄せられた。

 

 陽の胸に、顔が埋まる。息が出来ないほどに、強く。

 

 全身が陽を感じている。そして耳に吐息がかかるほど近くで、優しい声が落とされた。

 

「俺たち、離れてても、ずっと繋がってるって信じてた。だけど、俺も怖くて言いだせなかった……その気持ちは一方的なんじゃないかって感じて、怖かったよ……お前を誰かに盗られるんじゃないかって思えば思うほど……苦しかった……好き過ぎて、壊れそうだった……」

 

「俺だって――……」

 

 陽は亜美の事を好きなんだって思って、苦しかったよ。もう、俺の気持ちは言っちゃいけないって思って、苦しかった。

 

 陽の腕の力が強くなった。その胸の中で、俺はきゅっと下唇を噛みしめる。そして、陽の胸をゆっくりと押しのけ、見上げた。

 

「ずっと……」

 

 陽も、俺だけを見つめ返してくれた。

 

 こんなに愛しくて、ずっと待っていた人が目の前にいる。俺を好きだと言ってくれる。こんな幸せがあるなんて想像すらしてなかった。

 

 俺の気持ちが、受け止められるなんて、思わなかった。

 

 同じ想いを抱えて、真っすぐに、俺だけを見てくれてた――……陽。

 

「……好きだ……今までも、これからも……ずっと陽だけが好きだ」

 

 そう言った瞬間、満面の笑顔を浮かべた陽は、今一度俺を抱きすくめてくれた。そのまま俺も、ごく自然に両腕を陽の背中に回した。

 

 夢じゃない温もりがここにある。

 

 誰かを傷つけて、傷ついて、それでも好きで仕方がない。

 

「やっと聞けた……」

 

 震える陽の声。押しあてる鼓膜に優しく、陽の鼓動も届いてるよ。俺に負けないくらいドキドキしてんのな。

 

「陽」

 

 そう言うと、身体を離した陽が、俺を見つめる。そして、ゆっくりと顔が近付いた。

 

 これ、まさか、だよな?

 

 心臓がやばい事になってる。

 

 鼻先が擦れるほど、吐息が触れるほど、近い。

 

「俺も好きだ、晶……」

 

 そう言って、陽は俺の唇を求めた。

 

「キス、してもいい?」

 

 え、い、あ、キ、キス?

 

 で、でも、俺も……やっぱ触れたい、かな。

 

 そう思うと同時に、俺はこくりと頷いていた。

 

 優しくて甘いキスが、今までの時間を埋めるように長く重なる。

 

 なんだろう、これは……体の芯からじわりと湧き上がるくすぐったい感情。

 

 離された唇を風が冷やりと撫でる。まだ、足りないと言わんばかりに、角度を変えて再び唇を重ねた。

 

 それから、何度も何度も、確かめるように、愛しい唇は俺を啄ばんだ。

 

「好きだ」

 

 そんな言葉が何度も心をくすぐる。

 

嬉しくて嬉しくて、ずっと聞いていたい声。

 

求めていた温もり。

 

 長い間探し続けた心と心が、今、優しく繋がったんだ。

 

 

 俺も、大好きだよ、陽――……。

 





 

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