〜 涙 〜 


 

 やっぱ目立つよな、これ……。

 

 そう思いながら、首筋の残る痕を指先でなぞった。昨日、啓介に付けられた、痕。

 

 その上見事に赤く腫れた瞼に、充血した目……こんなんで学校行けるのか?

 

 でも、行かなきゃ、啓介に悪い気もする。きっとあいつだって自分がした事を後悔してる。あいつはそういう奴だよ。なのに、学校に行かなきゃ余計に後悔させちゃうかも……いやいや、なんでそこまで気を使わなきゃ……って、でも、俺のせいなんだよな。

 

 これ以上、啓介を傷つけるとか、できない。

 

 ずっと友達だったんだ、これからだって。

 

 でも、陽に会わす顔が……。

 

 俺の中で、でもでもでも、そんな言葉ばかりが浮かんでは消える。

 

 絆創膏を貼ってはみたけど、明らかに目立つし意味あり気だし。いろんな妄想されても困るし――……。

 

 どうしよう……そう思いながら、握りしめていたパーカーを制服の上から羽織った。フードを深くかぶり、紐をギュッと締め付ける。

 

 なんだよ、これ、ねずみ男かよ……最悪。やっぱこんなんじゃ学校行けねっての。

 

 そのまま、ため息を落としてベッドに横たわった。

 

 どうすればいい……どうすれば……。

 

「お〜い、学校遅れるぞ!」

 

 階段下から親父が叫んだ。

 

 わかってるっての、休む理由も見つけられないし、悪い事してないんだから迷う必要もないんだけど……でも。

 

 あ――っ、また「でも」ばっか、俺はでもでも星人か。

 

「お〜い、晶!」

 

「うるっせぇな、わかってるよ!」

 

 苛立ちを親父にぶつけても仕方ないのはわかってる。

 

 でも、気が進まないのは確かだ。

 

 俺はなおも、風邪をひいているかのようにマスクをする。

 

 だせぇ……これじゃ変質者だっつうの。ま、仕方ないか……。

 

 そのまま部屋を出て、階段を下りる。親父のいる居間へは行かずに玄関直行。親父にだってこの顔は見られたくない。

 

「おい、朝飯は?」

 

 なのに、親父は小走りに玄関に来ると、俺の背後に立った。

 

「っていうか、お前……なんでパーカー着て行くんだ? そんな寒いか? 風邪か?」

 

 靴を履きながら背中を向ける俺の肩を掴み揺らす。俺はその手を払いのけるように立ち上がると、振り向かないままに一歩を踏み出した。

 

「おい、返事くらい」

 

 そう親父は、今度は力任せに俺を振り向かせた。

 

 一瞬、驚いたものの、親父はすぐさま笑った。

 

「なんだ……お前、目しか見えてないぞ?」

 

「うるせぇ」

 

気を使ってるのかボケなのか。充血しきった眼を見ても何も言わないんだからな。

 

 どっちでもいいや、下手ないい訳をしなくて済む。俺は今一度、肩につかまる腕を振りほどく。

 

「行って来る」

 

「あ、ああ……気ぃつけてな……」

 

 何か聞きたそうな親父を残して、俺は家を出た。このままどっか行こうかな……やっぱ、親父だって変だって思ってんのに、学校じゃみんな思うはずだ。親父は深く聞かなかったけど、クラスの中には何があったかとか詮索だってする奴がいるかもしれない。

 

 聞かれなくても、興味の視線があるだろう。

 

「ママ、あの人コワイ〜」

 

 突然、すれ違う子供の一言に立ち止まった。保育園児くらいの女の子が俺を指差してる。怖いって言いながらも顔は笑ってるっつうの。

 

その子供の手を引く母親は「見ちゃいけません」なんて慌ててる。これまた笑いをこらえたような顔だ。そのまま親子は道端に寄り、俺を避けて行った。

 

まぁ当然か……こんな格好してたら不審者だよな。そう思い、渋々フードを脱ぎ、俯き加減にマスクを外した。

 

 やっぱ、学校休もうかな……そう思ってた時だ。目の前に人影が立ちはだかった。邪魔だな、なんて思いながらその人影を見上げる。

 

「え?」

 

 だけど、そこにある顔を見て、息をのんだ。

 

「よお」

 

 なんで、陽が、ここに……そう思っている間にも、体は咄嗟に反応して、見られたくない顔を逸らした。

 

「髪、切ったんだ」

 

 電柱に寄りかかりながら腕組をして陽が聞く。

 

「あ、ああ」

 

 俺は素っ気なく返事をした。

 

 陽は、スッと俺に近付いて来た。だから、俺は更に顔を背け、一歩下がった。

 

「で? なんでそんな避けてんの?」

 

「別に……」

 

 言いながら、俺は更に首をすくめた。

 

 一番、見られたくなかった相手だ。こんなことなら家から出るんじゃなかった。そんな後悔の中、陽が目の前に立つ。

 

「でも、さっきマスクしてたでしょ? 風邪? それとも顔、見られたくないとか?」

 

 陽はしつこく、俺の顔を覗き込もうとまた一歩近づいた。だけど、俺はその一歩に合わせるように後退する。

 

「なんで、いつも俺を避けるんだよ?」

 

「別に、避けてなんか……」

 

そう言いかけたところで、陽は、諦めたようにため息を落とした。

 

やべぇ……そう思いながら、ちらりと陽を見やる。

 

 眉間にしわが寄って、陽は怪訝な表情を浮かべている。

 

「そ、そんな事より、あ、お、お前……なん、で……ここ、にいるんだよ」

 

 ここまでどもる必要なくねぇか? 

 

やばい、マジでやばいって。こんな朝から家の前に陽がいるとか、嬉しいけど、困るっていうか。あんな事があった後に、どんな顔で接すればいいのかわかんねぇし、心臓もマジやばい事になってるし。

 

「アキに、言いたい事があって」

 

「え?」

 

 その言葉に、思わず陽を見上げてしまった。

 

 陽が俺に言いたい事、ってなんだ?

 

「それよりお前、なんでそんなに目が充血してんだよ……」

 

 あ、しまった。

 

 思わず見上げてしまった顔を陽が覗き込むもんだから、再び俺は俯き逸らした。そのまま、俺は陽を横切る。

 

「べ、別に……夜更かし? さ、さっさと学校、行こうぜ」

 

 行きたくないけど……今、行かないとか言ったら「なんで?」って聞かれるのが落ちだもんな……つうか、それ以上近付くな……泣いてたとか、ばれるかもしれないじゃないか。

 

「夜更かし? 誰と?」

 

 ぴたりと俺の足が止まる。「誰と」ってなんだ……何が言いたいんだ?

 

何も答えない俺に、陽はまた一つため息を漏らした。その様子を横目に見ながらも、俺の心臓が鼓動を速める。

 

 陽が、俺の家を知っていた。近くなのか? そうなのか? だったら、啓介と一緒にいると事か見られて……だから、陽は「誰と?」なんて聞くのか? そうなのか?

 

 そんな事を思っていると、陽の視線とかち合う。

 

「あのさ」

 

「な、な、なんだよ」

 

 やばい、声が上ずった……明らかに俺、おかしいだろ、緊張してんのもろバレじゃん。

 

 でも、陽は挙動不審な俺に構わない様子で、真っ直ぐに俺を見据えてる。こんな風に見つめ合うとか、どんだけ俺を壊す気だよ。もう心臓がやばい!

 

「俺、木下と付き合ってないから」

 

「は?」

 

 何だよいきなり……話ってそれか……って、なんで? なんで今?!

 

「は? じゃなくて、お前が、俺と木下が付き合ってると思ってるって長田が言ってたから」

 

「京子、が?」

 

「そう、だから、その誤解を解きたくて……」

 

 誤解……亜美と陽が付き合ってない? うそ、じゃぁなんで……亜美は、陽とキスしたって言ってたのに?

 

「や、でも……」

 

「でもじゃねぇ、付き合ってないもんは付き合ってねぇの」

 

「いや、だって……」

 

「だから、なんでそう否定しようとすんだよ、本人が言ってんだから信じろよ」

 

 俺だって陽を信じたいけど……あの時の亜美が嘘を言っているようには思えない。

 

 いや、今は付き合ってないって事か、前は付き合ってたのかもしれない。でも、なんで今さらそんな事、俺に……。

 

「俺が好きなのは、お前だから」

 

 

――……え?

 

 

一気に、いろんな事を考えていた頭の中が真っ白になった。思ってもみない言葉が一瞬聞こえた気がした。

 

 え、いや、今――……なんて?

 

 目が泳ぐ……いや、待て、何があった?

 

「俺が好きなのは、今も昔も、ずっとお前だけだから」

 

「――……あ……」

 

 聞き違いじゃない……陽が俺と……同じ気持ち、だった?

 

 これは夢か……俺を――――……好き?

 

 ずっと俺が言いたかった気持ちが、陽の口から飛び出した事に、突然過ぎて困惑する。

 

「聞いてる? 俺が好きなのはお前なんだって。他の誰でもない、木下も関係ない。俺は加藤晶が好きなんだ」

 

 また、夢のような言葉が降り注ぐ。今度は、心まで震えはじめた。

 

 晶……今、そう、言ったのか?

 

 嘘だろ。

 

 入学式の日に、言えなかった名前。

 

 消してしまいたい男みたいだった過去。隠したかった……名前。

 

 それが、陽の口から……。

 

 陽は、わかってたのか?

 

「小学生の頃、初めて会った日から、ずっとお前だけを見てたんだ」

 

 覚えていた……俺が……あの時のアキラだって事……覚えてたのか。あの時から、陽は俺の事、女として見てくれてたって事なのか?

 

 だったら、なんであの時……女なんか嫌いだなんて言ったんだよ。

 

「それを……言いに来たんだ」

 

 陽は、少し頬を紅潮させて、そう言ってくれた。

 

視界に映る陽が、徐々にぼやけていく。

 

 泣いちゃダメだ、何か答えなきゃ……そうわかってるのに溢れて止まらない。

 

 今までの想いが一気に溢れていく。

 

 でも、あの時の陽の言葉が気付かせてくれたんだ。

 

 陽が好きだって事に……もっと、女らしくなりたいって事に……。

 

 何も言えないで泣きだした俺の前で、当然、陽は目を丸くした。だけど、俺だけを真っ直ぐに見据えてくれている。

 

 何か言わなきゃ……何か……なのに、声が、出ない。

 

「なんで、泣いてんだよ」

 

 お、お前が好きだって言ってくれたからに決まってんだろ。

 

 同じ気持ちだった事が、嬉しくて仕方がない。

 

 俺も……好きだ……ずっと好きだった……そう言いたいのに、喉の奥が熱くなり過ぎて言葉を殺す。

 

「やっぱ、この気持ちは言わない方が、良かったか?」

 

 そんな事ない……凄く嬉しいに決まってる……だけど。

 

「でも、もう限界だった。ずっと抱え過ぎて壊れそうだった……お前が……」

 

 そこまで言って、陽は言葉を濁すと、眉根を寄せた。そして、視界にすっと伸びる指先が映った。

 

 陽の指が、俺の首筋に伸びて、ハッとした。

 

「やめっ……」

 

 思わず、俺はその手を払いのけてしまった。

 

 陽が触れようとしたのが何なのかわかったから……。

 

「――……晶」

 

 凄く悲しげな声が、耳の奥に響いた。

 

それと同時に、昨日の啓介との事が脳裏をかすめる。激しい後悔が押し寄せる。

 

いくら幼馴染だからって、簡単に部屋に入れなければ良かった、そしたら、今こうして陽と向き合う事にも、後ろめたさを感じずに済んだんだ。

 

陽の中でいろんな詮索が飛び交ってるに違いない。さっき「誰と」って聞かれたのは、きっと啓介と一緒にいるところを見られたんだ。

 

「服部に……」

 

 やっぱり、陽の聞きたい「誰と」ってのは、啓介の事なんだな。

 

どうしよう……どうしたらいい。

 

何もなかった、そう言えば済むはずなのに、言えない。

 

昨日の恐怖心だけが、俺を襲う。

 

俺も好きだって言いたいのに、邪魔をする後悔の波に飲み込まれそうだ。

 

「……なんか、された?」

 

「……っ!」

 

 動揺が隠せない。やばい、震えが止まらない。

 

 何もなかった、俺が好きなのは陽だって……言いたいのに。

 

「やっぱり服部が……好きなのか?」

 

 ずしりと心に圧し掛かる、重い一言。

 

 違う……俺は啓介の事、そんな風に見てない。

 

俺が好きなのは……お前だけだ。そんな想いを込めた視線で、陽を見つめた。

 

そして、小さく首を横に振る。それが精いっぱいだった。

 

「違うのか?」

 

 その言葉に、今度は頷いた。

 

 何も言えないもどかしさが募る。

 

「お……俺、は……」

 

 言いかけて、ピクリと、俺の体が跳ねた。

 

 震える陽の指先が、首筋の絆創膏を撫でる。

 

 だけど陽は、そこに何があるのかわかっているかのように辛そうな表情を見せた。

 

でも、それ以上、何もしなかった。

 

そのまま、指先は頬の涙を救い取り、ぐっと拳を握りしめ、震えている。

 

「お前、今日は学校来んな」

 

 そう不機嫌さを前面に押し出した声で言って、陽は俺に背中を向けた。

 

 陽?

 

「このまま家に戻れ、いいな」

 

「……で……」

 

「いいな!」

 

 今一度、念を押すように言うと、陽は振り返る事なく歩き始めた。

 

 背中が遠くなる。

 

 好きだと言ってくれた優しい声が、憤りに変わった気がした。

 

 怒ってる……何に……?

 

はっきり言わなかった俺に? 

 

この絆創膏に隠れた痕に? 

 

昨日、啓介と居たから?

 

いろんな事が脳裏を巡りながらも、俺はすぐさま踵を返した。

 

慌ただしく玄関に駆け込み、靴を脱ぎ散らかしたまま階段を駆け上がる。

 

「晶?!」

 

 慌てた親父の声に背中を押されて、そのまま部屋に飛び込んだ。後ろ手に荒々しくドアを閉めた途端、足に力が入らなくなった。震える体をどうする事も出来ないまま崩れ落ちる。

 

 背中に、ドアの振動が伝わった。

 

「おい、晶、どうした?! 何かあったのか!?」

 

 親父が何度もドアを叩く。

 

「なんでもねえ!」

 

「何でもない訳あるか?! 晶?!」

 

「うるさい!」

 

「晶!」

 

「一人にしろよ!」

 

 その怒声に、親父の手が止まった。渋々とドアから離れていく足音に、心底ホッとする。

 

 何も聞かれたくない。何も言いたくない。親父に、心配かけたくない……って、もう十分に心配かけてるか。 

 

どうしようもない奴だよな、俺って。

 

いくら言葉使いが男みたくても、気持ちはてんで小さいし、いくら柔道で鍛えた技があっても、行動はバカだし……家事もろくに出来ないし……いいとこなんか一つもない。

 

でも、こんな俺でも、陽は好きだって言ってくれた。

 

凄く……凄く嬉しかったのに、陽の言葉に答える事が出来なかった自分に腹が立つ。散々、あいつが好きだって思って来たのに、いざ、目の前に迫ると何も出来ないなんて情けねぇ……。

 

 なんで、答えなかったんだろう……陽が好きだって……俺も、好きだって。

 

 徐に首筋に掌をあてた。

 

 この、痕のせい?

 

 昨日の、自分の不用心な行動が招いた結果だ。陽はわかってた。俺が昨日誰といたのかを……だから言えなかった。

 

 怖かったんだ。

 

 陽の中で渦巻いた詮索の誤解を解かない限り、俺に気持ちを伝える資格がない。

 

 陽は初めに亜美の誤解を解いたんだ。昔はどうあれ、今現在、二人が何もないって事。

 

 だから、俺も啓介との昨日の事をきちんと「なにもなかった」と言わなきゃならない。

 

 今度は泣かずに……そうだよ、今度は俺の気持ちを知ってもらいたい。

 

 俺の中に、陽の声が幾度となく繰り返される。

 

『好きだ』

 

 その一言が、また俺の鼓動を加速させる。

 

 いつだって、陽は俺の心を奪っていく。

 

 今も昔も、それは変わらない。

 

 そう、いつだって俺は――……陽を想ってる。

 

 だから、ちゃんと伝えなきゃ――……。

 

 俯けていた顔を上げ、真っ直ぐに前を見据えた。

 

 昔、陽がくれたリストバンドが視界に映る。

 

 俺は、やんわりと立ち上がると、窓際に近付いた。そして、大切にしていたリストバンドを手にする。

 

 あの時から変わらない気持ち……俺がテニスを始めたのも、好きになったのも陽のお陰なんだ。あいつが居たから頑張れた。同じテニスをやってるって事だけで、続けられた。

 

 今度は、あいつの足手まといにならないように練習した。

 

 

 やっと追い付けた。

 

 

 やっと、同じコートに立つ事が出来るようになった。

 

 

 

 全部、陽の為だった。

 

 

 

 そうだよ、今まで、陽中心に俺の世界はまわり続けてたんだ。

 

 

 

 

 このまま、失うなんてヤダ。

 

 

 

 

 

 何も言えないままじゃ、ダメなんだ。

 

 







 

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