〜 vol :17




「来てくれた、のか?」

 それはまるで確かめるように、義孝は不安な声で言った。

 今にも消えてしまいそうな気がするのか、その手は腫物を触るように、優しく包んでくれている。だから私は、もう一度触れた温もりが離れないように、義孝の背中に腕を回した。ただ、義孝の存在が幻で終わらないように、全身で受け止める。

「紫音?」

「私……待ってたの。ずっとずっと義孝を待ってたの。でも、お父さんが病気になって私は折れてしまった」

「お父さんが……病気?」

「でも、ここに来れば会えるって思って……もう一度、昔のように抱きしめて欲しくて……我がままなのは十分に解ってるつもり、でも……何もかも忘れたくても忘れられなかったから、まだ……好きだから」

 私は義孝の胸に顔を埋めたまま、苦しくも愛しい気持ちを打ち明けた。義孝の腕の強さが増していく。

「紫音、俺も同じ気持ちだ……でも、君はもう他の人と結婚している」

 義孝の言葉に、私は唇を噛みしめた。今にも心は引き裂かれそうだ。

 でもそれは、武雄に対しての申し訳なさからではない。義孝を裏切った自分自身が憎くて堪らない。義孝を信じて待っていなかった事が悔しい。

 その後悔だけが、私を苦しめる。

 どうにもならない事実だという事は解っている。でも、すべてを否定してしまいたい。何もかも、なかった事にしたい。このまま、二人だけが過去に戻ってくれればどんなにいいかと願ってしまう。

 出来る事ならば……その想いが私を突き動かす。

「もう誰にも止められないわ。私の気持ちは私にだって止められないもの! 義孝が好き、どうしても好きなの。結婚なんかしてって思われるかもしれないけど、それでも私は待ってたの!」

 ほとんどが無意識だったと思う。でもそれが本心。私の心の全て。

 義孝の鼓動が速くなるのを感じる。

 やっぱり、戸惑っているの? 

 そう思い、私はゆっくりと顔を上げ、義孝を見つめた。

 そこにいるのは、店で会った時の無精ひげを生やした義孝ではなく、綺麗にヒゲを剃った、昔のままの姿だった。

 何も変わらない、昔も今も……そして心も。

 優しい眼差しさえも昔のままで、私の胸は愛しい思いでいっぱいに満たされていく。

「お願い……私を受け止めて……」

 その言葉に義孝は何も言わずに、ただ私を力強く抱しめてくれた。

 それが、義孝の答え。

 義孝の瞳が溢れ出しそうな涙を堪えていたのがわかった。

 潮の香りを含んだ風が、体を切り裂くほどに冷たく吹きつける。それでも、不思議と込み上げるのは、温かな感情だった。



     ◇



「ねぇ、義孝は覚えてる?」

 真夜中の海。まだ私には時間の余裕があると言って、義孝と車に乗り込んだ。今までの離れた寂しさを埋めるように、私は義孝に寄り沿う。

「何を?」

 義孝は私の髪を優しく撫でると、暗い海の先を見つめながら応えた。

「私を描いてくれた事……」

 ほんのりと頬が紅潮するのがわかる。

「ああ、勿論覚えてるさ」

 額にあたる義孝の唇。その温もりに心地よく浸りながら、私はそっと双眸を閉じた。

「あの絵、私が持ってるんだよ……ずっと大切にしてた」

 そう言うなり、義孝は驚いたように少し身を離した。私は思わず義孝の袖を掴み、離れないように引き留める。

 目を見開いた表情を浮かべる義孝は、真っ直ぐに私を見据えている。

 その義孝の顔が嬉しい顔なのか、哀しい顔なのか、私には判断が付けられなかった。

「どうしたの?」

 不安に感じた私は恐る恐る聞いてみた。

「い、いや、別に……」

 義孝は動揺したように声を震わせている。

「ダメ……だったかな?」

「いやっ、ダメじゃないよ。ただ」

「ただ?」

 聞き返した私を義孝が見つめる。何度見つめられても足りないくらい。もっと、私だけを見て欲しいと心が叫んでいる。

「ビックリしただけ……まさか、あの絵を紫音が持っているとは思わなかったから」

「どうして?」

「あの絵は、蔵に置いてきたものだとばかり思っていたから……きっと、紫音のお父さんが見付けて、捨ててしまっただろうと思ってたんだ」

 そう言い終わるなり、義孝の顔に安堵を思わせる優しさが戻ってきた。

「ありがとう、紫音。あの絵は……あの時の俺の全てだったから」

 そうして、義孝は今一度私を引き寄せ、今までにないほどに強く抱きしめてくれた。

 今、私は最高に幸せを感じている。

「私には、あなたが全てなの」

「俺もだ、紫音。今までも、そしてこれからも俺にも紫音が必要なんだ」

 あの時のように、私達はお互いの心を確かめ合った。静かに重なる唇が熱い。何もかもを焦がしてしまう程に、熱くて、熱くて……。

 何も変わらない、心はいつも繋がっている。そう信じていたあの頃に、私達は戻れた気がした。

 でも、離れた熱さに寂しさが残る。

「このまま、あの日に戻れたら。もっと幸せ」

 私は、心の底からそう思い、呟いた。

 義孝のいない私じゃダメ。義孝もきっと同じだと信じてる。

 私の瞳に義孝が映る。そして、義孝の瞳にも私が映る。

 きっとこれが本当の幸せだ。この熱い想いが、本来のあるべき二人だと感じる。

 私の恋は、すでに愛へと姿を変えている。

 まだ大人になり切れていなかった、幼すぎる恋は終わった。

「紫音……」

 義孝の指先が、頬を包み込む。互いの心を、私達は唇から惜しみなく感じ合った。

 抱しめ合った体が愛しくてたまらない。

 私達は時間を忘れて体を寄せ合った。



    ◇



 ライトに照らし出された暗い海を眺めて、どれくらいの時間が経ったのだろう。それでもまだ、離れたくない。

「本当に大丈夫なのか、家」

 きっとそれは武雄の事。

 せめて、二人でいる時は忘れたい存在。

「そんな事より、出稼ぎっていつから来てたの?」

「え?」

「ほら、毎年来てるって、そんなものなの?」

「え、ああ、まぁ」

「だったらもっと早く会いに来てくれればよかったのに」

 膨れっ面をする私に加え、繋がらなかった会話に戸惑った義孝だったが、何もなかったかのように、ふっと笑ってくれた。

「俺、北海道の農場で住み込みのバイトをしてるんだけど、冬には仕事がなくて……で、その半年間は他の場所で働くんだ」

「半年も?」

「そう、半年も」

「大変なのね」

「そうでもないよ……だって、こうやって紫音に会えた訳だし、辛さなんか吹っ飛んだ」

 言われて顔から火が噴き出しそうだった。

「で、でも、毎年毎年、仕事見つけるの大変じゃない」

「うん、俺もそう思ってたんだけど。ほら俺、高校の時にここの建築会社でバイトしてただろ? それでそこの専務に連絡取ったんだ。そしたら快く雇ってくれた。おまけに毎年来てもいいっていうから、その言葉に甘えちゃって」

「そうなんだ」

「でも」

 そう言って義孝は、真剣な眼差しを向けてくる。トクン、と鼓動が高鳴る新鮮さがくすぐったい。

「でも、ここ以外で仕事する気はなかったよ。どうしても紫音の傍が良かったから……だから、ここに来てるんだ」

「義孝……」

 いつも義孝は私を喜ばせてくれる。武雄には求められない愛で、心を満たしてくれる。

 ずっとこの人の傍にいれたら、どんなに幸せだろう。誰にも祝福されないとしても、それでも貫きたいと思うのが不思議だ。

 何も怖くない。義孝となら……。

 そう思う内に、ふと脳裏を過る影があった。

「そうだ、則子さんは元気にしてる?」

 ポツリと口を突いて出た名前が懐かしく感じた。

 私たち二人を応援してくれていたのはただ一人。義孝の母親だけだったことを思い出したのだ。

 だが、義孝は何も答えない。訝しく眉根を寄せ、今日、初めて私から視線を外した。

 不思議に思い、義孝の顔を見やる。

 すると、その目には、明らかにさっきとは違った涙が溢れていた。

「泣いて、るの?」

 その問いかけに、義孝は手の甲で涙を拭うと「別に」と言って顔を背けた。あまりにも辛そうな義孝に、私の心も泣きそうだ。

 まずい事を聞いてしまったのかも、そう思った時だった。

「母さんは死んだ」

 義孝は寂しそうに呟いた。

「え?」

「北海道へ行って、母さんが良くなる事はなかった。あれから一年ほどして……最後は本当に呆気なかったよ」

 そう言って涙を拭い、義孝は再び私に振り返った。

「あ、その、ごめんなさ……」

 とっさに俯き謝った私を、義孝は優しく引き寄せる。耳元で漏れる吐息がまだ、泣いている。微かな嗚咽に導かれるように、私の涙も誘われた。頬を伝う滴が、苦い。

 悲しい想い出を掘り返してしまった申し訳なさに、私はどうする事も出来なかった。ただ、同じように泣いてあげる事しかできない。

――則子さんに、いつか祝福してもらいたかった。

 そう言いかけて、私は口を噤む。

 まだ義孝の中で、母親が思い出になっていないと思ったから。

「あの頃の俺は……紫音を失って、母さんも失って辛かった。好きだった絵も、もう描けなくなって」

 一瞬、耳を疑った。

 絵が描けなくなった。それは、あまりにも衝撃が大きかった。

「描けなくなったって……」

「もう……ずっと描いてないんだ。絵はもう描くまい、そう決めたんだ」

 離れようとしない義孝の声が耳にかかる。甘いはずのその声が、切なく奥に響いて痛い。

「……どうして」

「思い出したくなかったから」

 間髪入れずに言った返事が、乾いていると感じた。

 あの頃の義孝が絵の話をする時には、一語一句に潤いがあった。嬉しそうに自分の夢を語り、弾んでいた声が……今は重い。

 あれ以来、義孝が筆を置いた事を知った私は、心底悲しかった。

「ごめん、そんな顔させる気はなかった」

 そう言いながら、義孝は私の目を見つめると、おでこに軽くキスをくれた。

「思い出したくないって言いつつ、俺って未練がましいから」

「それは私も同じよ」

 慌ててそう言う私を見て、義孝が笑う。

「何もかも過去を捨ててしまいたかった。でも、俺は弱かったんだな。毎年、冬になる度に未練がましくここに来てしまうんだ。会えるはずない、会ってはいけないと思っても、紫音をいつも探し求めてた」

 そんな義孝の寂しさを知った私の心が、とてつもなく軋んだ。義孝を支えたい、これからもずっと傍にいたい。それが私の望み。

 そう、これは始まり。

 義孝との再会は、きっと私に生きている喜びを与えてくれると信じてる。それだけでも十分、幸せを感じる事が出来た。でもきっと、それだけでは物足りなくなる。

 もっと触れたい。もっと感じたい。もっと、もっと……欲が出る。

 離れていた寂しさを、会えなかったもどかしい時間を乗り切ってきたんだ。これからは自分の時間を、自由を作りたい。

 それでも、不意に過る武雄の顔が脳裏にある。だけどそこには後ろめたさはこれっぽっちもなかった。

「義孝だけでいい」

 そう、私の唇が動いた。








    







               

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