〜 vol :32




 

「結絵、あなたは二人のお父さんにすごく愛されている」

 話し終わってから、私は結絵を見つめた。

 結絵の目から溢れる涙。その涙を、私はそっと指で撫で、結絵の体を引き寄せ抱しめた。

「でも、お父さんは、そんなに私達を大切に思っていてくれてるのに、どうして私に好きな道を選ばせてくれないの?」

 結絵は小さな声で言った。

「私が画家になりたいって言った頃だったかもしれない……急に浜村を継ぐ話しかしてくれなくなったのよね?」

「きっと、怖かったんじゃないかと思うんだけど……」

「何が?」

 結絵は、わからない、といった様子で顔を上げ私を見つめた。

「たぶんだけど、結絵が私のように突然、家から出て行ってしまうんじゃないかって思ったんじゃないかな?」

 私の言葉に、結絵は悲しい目をして唇を震わせた。

「私とよりを戻してから、お父さんは本当に優しくしてくれた。それは結絵もわかってるでしょ?」

「うん、お父さんはどんなに忙しくても私と遊んでくれたよ」

「そうね……でも、大きくなっていく結絵と、どう接して良いのかわからなくなったんだとも思う。愛情は変わらなくても、年頃の女の子をどう扱えばいいのか、とかね。その矢先に、結絵は画家になりたいと言い出した。お父さんは戸惑ったのよ、きっと。それからお父さんは怒りっぽくなったじゃない?」

「……そうかもしれない」

「私は、そんなお父さんを責める事できない。私にも責任はあると思っているから」

「お母さんは……今でもその、本当のお父さんが好きなの?」

「ええ勿論好き。それは胸を張って言えるわ。でも、今のお父さんの事も大好きなの。わかる?」

 結絵は困ったように、ひと息おいてから答えた。

「……よく、わからない」

「そうよね」

 私は、そっと、心が戸惑う結絵を抱しめた。

「優しかったお父さんだったけど、時にはケンカもした。だからそんな時にはよくこの海を見に来た。あの絵を、お父さんに預けてから、どこにしまってあるのかさえわからなかったから。この海を見に来てた。結絵と一緒にね」

「うん。覚えてる。だから私も、この海が好きになったんだもん」

「ケンカして、何度かお父さんとは、もう別れようって思った事もあったけど、海を見ているうちに心が安らいでいくのがわかった。この海のどこかで今も義孝が……結絵のパパが眠っている。そう思うと、いつも傍にいて元気をもらっているように思えた。そして……頑張れ、俺はお前達をいつも見守っているって、言ってくれているようで落ちつく事ができたの。そして、結絵を受け入れてくれたお父さんに感謝できた」

 ふと、顔を上げた水平線には、いつのまにか日は落ち、暗くなった辺りに人影もなくなっていた。ただ、波の音だけが静かに私達を包み込んでくれている。その波の音も私に安らぎを与えてくれる、まるで、義孝の鼓動を聞いているかのように。

「帰ろうか?」

 私の一言に、結絵は軽く頷いた。

「愛するって幸せな時ばかりじゃなくて……辛い時もあるんだね」

 そう呟きながら結絵は涙を拭いた。

 私はエンジンをかけ、結絵の言葉に「そうね」と呟き、フッと笑いながらハンドルを握った。

「あのさ」

 結絵は、前を見据えたまま言った。

「なに?」

「あのさ……あたし……姉妹欲しかったな……って」

「え?」 

「いや、その……なんて言うか……妹か弟でもいれば、少しはお父さんも、私の存在に縛られなくて良かったのかなって、思って」 

 その言葉からは、結絵の優しさが伝わってくるようだった。きっと、いつも怒ってばかりいる武雄の事を思っての事だろう。

「そうね、でも……子供はいらないって望んだのはお父さんだから」

「お父さんが?」

「ええ。結絵だけを育てたいって……可哀そうだけど、それまで凍結してあった子供も諦めたの。結絵に自分の全ての愛情を注ぎたいからって……もしも妹か弟がいたら、きっと結絵が寂しい思いをするかもしれないって、お父さんが……」

「私の為に?」

 私は静かに頷いた。

「自分では分け隔てなく育てているつもりでも、結絵はどこかで違いを感じてしまうかもしれないって恐れてたから……だったら、結絵だけでいいってお父さんがね……優しい人なんだよ」

 それ以上の事は何も話さず、家への道のり、結絵は何かを考え込んだように車窓を眺めていた。ただ、その頬は、止め処なく流れる涙に濡れている。そして、私達は家に辿り着いた。

 家に入ると、私が結絵を連れて浜村に戻ってきた時のように、武雄は何も言わず居間に座っていた。

 そして、結絵も何も言わず、テーブルを挟んで、武雄の目の前に座った。私はその武雄と結絵の間に座り、黙ったまま二人を交互に見つめていた。

 暫らく沈黙が続く中、何か話さなければと思った時だった。

「聞いたよ」

 そう、結絵がポツリと呟いた。

「そうか」

 武雄はわかっていた、という風に答えた。

「それで、どうしたいんだ?」

 そう続ける武雄に、結絵は真っ直ぐに目を見据え言った。

「私に……和菓子を教えてくれないかな?」

「えっ?」

「何っ?」

 思いがけない結絵の言葉に、私と武雄は同時に驚いた。

 そして、お互いの顔を見て、すぐさま結絵に視線を移した。

「考えたんだ……私。でもお父さんみたいに画家になるのを諦めたわけじゃないよ。お父さんの娘じゃないってわかって、画家になる事を反対されてるからって、お母さんや本当のお父さんみたいに家を出て行ったりもしない。ただ」

「ただ?」

 私は静かに聞き返した。

「ただ、人生を急ぐ必要ないんじゃないかなって思ったの。急いで将来を決めなくても、いずれは進む道が見えてくるんじゃないかなって。それまでは目の前にある幸せを満喫しちゃおう……なんてね。勿論、和菓子が甘い世界じゃないのはわかってるつもり。ずっと続いてる老舗だもん、伝統だってあるだろうし」

「結絵」

「でも、和菓子も絵と同じだとも思ってる。どっちにしてもデザイン絡んでくるだろうし、今の高校の授業も無駄なんかじゃないって。お父さんも絵が好きならわかるでしょ? 和菓子を作るのにデザインセンスも必要って……」

 結絵は、一気に自分の考えを話し終えると、私達を不安気に見つめた。

「……だめ、かな?」

 何も言わない私達を見て、結絵が残念そうに呟き俯きかけた時。

 黙って聞いていた武雄が深呼吸した。

「結絵……お前が二十歳になるまでは、と思ってたんだがな」

 そう言ってテーブルの下から、一つの包みを取り出し、結絵の目の前に差し出した。

「これっ……!」

 そう結絵は言うなり、包みに手を伸ばし開けて見た。

 それは紛れもなく「紫の海」の絵だった。結絵はすぐさま絵を目の前にかざし眺めた。

「……愛しい人」

 そう静かに呟く結絵の目が輝いている。

「それは、お前の父親が三歳の誕生日プレゼントにと描いた絵だそうだ。それを俺が……」

「知ってる……」

「そうか」

 武雄は間髪いれず言葉を返した結絵を見つめ、寂しそうに呟いた。 

「本当は、お前が二十歳になった時に全てを打ち明けてから、渡すつもりだった。でも、三年前お前はその絵を見付けてしまった。何をどう説明していいのかもわからずに、取り上げた形になったんだが……」

「お父さん」

「それまで俺は、お前に浜村を継いでもらおうなんて気はこれっぽっちもなかった。でも、画家になりたいと言い出した時期、本当の事を話せば、いなくなってしまうと思った。言う事も聞かず避けられた時期、本当の父親じゃないからかと自分を呪った。俺はどうしていいのかわからなくなっていたんだ。だから……」

 武雄は声を詰まらせ、ごくりと言葉を飲み込んだ。

 震える手で煙草を取り銜える。ライターを何度もカチカチとやってみるものの、なかなか火が付かない。

 武雄は、浅く一息つくと、銜えた煙草をテーブルに置いた。

 全身から、やるせなさが伝わってくる。

「思ってもなかったのに……お前は浜村の後継ぎなんだと自分に言い聞かせながら、心を押さえ付けようとしていた。その結果、お前を苦しめている事もわかっていた。でも、どうしても、可愛いお前を離したくない一心で……その絵を差し出した時には全てが終わると思っていたんだ」

「お父さん……」

「でも、今、お前は」

 そう言って武雄はテーブルに肘を付き、頭を抱え込んだ。

「何もかも聞いた今でも、ここにいてくれると言ってくれた。あの時の紫音のように……」

 かすかに嗚咽が漏れる。

 そんな武雄の話を静かに聞いていた結絵が、絵の淵を撫でながら微笑んだ。

「この絵……何度も見てもらってた跡がある。お父さんは、この絵を何度も何度も、見てくれてたんだよね」

「ああ。結絵とどうしていいのかわからなくなった時や、紫音とケンカした時。いつも、その絵を見てた。そうすると何だか落ちついてな……絵を描いた父親に、いつも相談してたんだ」

「武雄さん……」

 その事実に、私が一番驚いたのは言うまでもない。

 武雄は、密かにこの絵に溢れた義孝を見ていたなんて。私が海へ行くように、武雄も、同じ海を眺めていたのだ。

 私は唇を噛み締め、そっと、武雄の手を取った。

「ずっと、大切にしてくれていたんですね。ありがとう」

「私は……」

 そう言って、結絵は持っていた絵をテーブルに置いた。

そんな結絵を、私と武雄が手を握ったまま見つめていると、ニッコリと微笑んだ。その笑顔に、私もぎこちなくだが笑顔を返した。

「たぶん、お前なんか娘じゃない、ってお父さんに怒鳴られたって出て行かないくらい神経は図太く出来てるんだから。私は、同情でこの家にいるんじゃない。お父さんもお母さんも大好きだから傍にいたい……そう思ってるから。だって私も、みんなの事、これでも愛してるんだよね」

 と結絵は照れながら言った。

「……ありがとう」

 武雄は、目の前にある「紫の海」を眺めて呟いた。



 私達は、今、また強い絆で結ばれた気がした。

 義孝が残してくれた、紫色に輝く海のように、深い深い絆で。



 近くにいる「愛しい人」は、優しさで全てを包み込んでくれる。そして、いつでも傍にいる。

 近くにいない「愛しい人」は、心がずっと繋がっている。幸せを見守ってくれている。

 そう、いろんな愛があっていい。私も、私なりにみんなを愛していく。そう決めたのだ。





 そして、結絵の希望で、義孝の「紫の海」は玄関に飾られた。

 武雄も、それが一番良いと喜んで受け入れた。これからは、絵と向かい合い酒を飲む事が出来なくなるな、そう寂しそうに武雄は呟いていたけれど。



 次の日から、さっそく結絵は武雄と共に、色々と和菓子の新作を作るべく仲良く頭を抱えているようだった。私はその光景をこれからもずっと、こうやって微笑ましく見つめ続けるだろう。

 傍らに「紫の海」を感じながら……。





 例え血は繋がらなくても、愛情でしっかりと繋がった私達は、次世に浜村を受け継いでいくに違いない。

 幸せを求め、さ迷いながらも、互いに支え合い生きていける。

 惜しみなく最後まで私を愛してくれた人も、これからも愛してくれる人も……それぞれ嘘偽りのない心で生きていく。





 今日もまた、早朝から喧嘩をする声が響き渡っている。でもそれは、今までにない愛に満ち溢れた一瞬になる。





 愛してくれてありがとう。

 義孝……あなたの愛は、今でも、そしてこれからも生きています。





                          了 






    






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