〜 キス、したのか 〜
いろんな事を考え過ぎて、パニック寸前の俺の脳内。すでに考える力も残ってねぇ感じだ。ここまで走ってきた時は、頭ん中空っぽだった。
「あれ?」
ライトに照らされたコートが視界に入る。
「まだ練習してんのかよ……もう七時半頃だろ……」
呟きながら、俺は見やったコート外に人影がないのに気付く。
まだ男子は練習してるのに、亜美の姿がねぇ。先に帰ったのか?
ま、どうでもいいけど。って、良くない良くない。俺、めっちゃ亜美の事、彼女じゃないかって気にしてるっつうの。
一瞬の興味をすぐさまかき消し、俺は生徒玄関に向かう。
ああ、でも今は、そんなこと言ってらんねぇ……俺は、今から、この校舎に勝負を挑みに行かなくちゃならねぇんだ。
玄関に入り、俺はごくりと唾を飲み込んだ。校舎内には生徒の姿はない。
やばい、やばい。怖ぇ――――っ!
俺はかなり暗いとこ嫌いなんだよ! ダッシュするしかねぇ、そう思って足を踏み出し、周りを極力見ないで教室を目指した。
「つ、ついた」
何事もなく辿り着いたぞ!
誰もいない教室って薄気味悪い、そんな事を思いながら机の中を探り、鍵を手にした。
「あ、あった」
ホッと安心して、また仄暗い廊下を突っ切り、玄関に向かう。
薄暗い学校ってマジで苦手なんだけど――――っ!
俺は早くその場から撤退したくて、急いで玄関に辿り着き、靴を履いた。そして、つま先を地面に二回ならした時だった。ガタリ、という音を拾う。一瞬、肩がピクリと上がり、息を飲んだ。
だ、誰かいるのか? なんだろう、話し声……か?
下駄箱を三つほど挟んだ向こうから、何やら言い争うような声が聞こえた気がした。
嘘だろ、まさか……見ちゃいけないもん、とか聞いちゃいけないもんとかじゃねぇよな。
また、ガタリ、と下駄箱が揺れる。
ま、ま、マジで、ゆ、ゆ、ゆ、幽霊様?! ポルターガイスト?? 冷汗だらだらなんすけど――――っ!
俺は思い切り頭を横にブンブンと振った。
あ〜嘘嘘、絶対ないよ、ない、ない、ない。
そうだよ、そんな事ある訳ねぇじゃん! あ、自分に突っ込んでも面白くねぇけど、でもちょっと、そうちょっとだけ震える自分がいるのは確かだ。
帰ろう、そう思って、そろり、と足音をたてずに、息を殺し、玄関を出ようとした。
「あんた、目障りなんだけど」
は? なんだ、これ……ああ、ちゃんと人の声だよ。幽霊じゃねぇよ。ってか、俺?
「はっきり言って邪魔なのよ」
だ、誰もいねぇし、俺じゃねぇか……でも、ま、良かった、俺一人じゃないなら、もう怖くねぇぞ!
「なに毎日、彼女面してんのよ」
「あんたマジでウザいんだけど」
つうか、これは、なんだ忠告か、いじめか……って、いじめ?!
思わず息をごくりと飲み込んだ。複数の声がするって事は集団か?
あ、ここは出てった方がいいか? いいだろ、やっぱ。見過ごせないよな。俺、そういうの嫌いだし……そして、一歩を踏み出す。でもそれはすぐに止まる事になる。
また、ガタリと音がする。
「その汚い手、退かしてください」
亜美の声だ。アイツ、まだ帰ってなかったのか……。
「は? なに生意気言ってんのよ! 立場わかってんの?!」
「解ってますけど、先輩方には関係ないと思います」
「関係なくないでしょ?!」
「自分たちが相手にされないからって、文句言わないで下さいよ」
「なによ、あんた! ちょっと幼馴染だからって!!」
ああ、絶対にこれ、陽関係だろ。そう思って、俺は深いため息を落とした。
時だった。
「ふん、たかが幼馴染がキスしないでしょ?」
え?
今――――なんて言った??
――幼馴染がキスしないでしょ?
キス……した、のか?
ちょっと、混乱……心臓痛ぇ……。
「なによそれっ!」
「なにって、今言ったままですけど?」
「なに? 陽君があんたなんかにキスしたっての?!」
「ええ」
「そんなの! そんなの幼稚園とかそんな時じゃないの?!」
「違います……中学の時です、この高校入る、少し前」
耳を疑った……全身に震えが伝わっていく。
――やっぱり、彼女だったのか。
みんなの前では違うって言ってたけど、心のどっかで、それ信じようって思ってたけど……もう、ダメだ。
俺がどんなに気持ち伝えたって、届かないもんがある。
いくら好きだって思っても、ただ、苦しいだけじゃないか。
その時、甲高い乾いた音が響いた。
あ――……亜美、今、叩かれた?
「ふざけんじゃないわよっ!」
さっきよりも更に大きな音が響く。ガタリと大きな下駄箱が揺れるほどの衝撃が伝わる。
でも、もう何も考えられない。ただ、わかるのは、俺の恋が終わったって事だけで……。
俺はフラフラと足を前に出し進む。
「あんたなんか、消えちゃえばいいのよっ!!」
そう言って、目の前に大きく手を振り上げた女がいた。俺は、その腕を思い切り掴み止めた。
「だ、誰よ! あんた!!」
「ふざけてんのは、てめぇだろ」
「はぁ?」
俺、今、どんな顔してる? 引きつった顔が酷く歪んでないか? 怒りでいっぱいだ。
俺は、女の人の前に倒れ込んだ亜美を見やった。突き飛ばされたのか。
でも、この怒りは亜美への感情じゃない。
「聞こえねぇか? 寄ってたかって弱いもん一人虐めんなって言ってんだろ」
冷ややかにそう言って、俺は、その女の手を思い切り振り解いた。
「こ、この女が悪いのよ! 陽君とキスしたって嘘言うからっ!」
嘘? 嘘ならいいって思ってんのはお前だけじゃねぇよ。
「てめぇの決める事じゃねぇだろ」
「なによ!」
見た事ある女だ。確か、いつもフェンス越しに陽に黄色い声を発してる、先輩方?
「あんたに何がわかるって言うの?!」
そう言って先輩は、手に持ったカバンを大きく振り上げてきた。俺に向かって振り下ろされるそれを、片腕で止める。
「暴力反対」
そのままカバンを奪い取り、地面に叩きつけた。
「きゃっ」
「あんたなにすんのよ!」
俺は横から茶々入れてきたもう一人の先輩を睨んだ。
「それはこっちのセリフだっての……俺、今むしゃくしゃしてんだよね」
そう言って、昂った感情を抑える事も出来ず、俺は真横の下駄箱を思い切り蹴った。そしたら、勢いあり過ぎて、今にも倒れそうなほどにぐらりと揺れる。
「言っとくけど、俺、喧嘩負けた事ねぇから、覚悟しろよ」
指を鳴らし、後退りする先輩ににじり寄る。
「な、何よ、男みたいなくせに!」
あ、なんか、今……プチって俺の頭の中で音がした気がする。
「ねえ、みんなでやっちゃえば?」
そんな囁きが聞こえる。ざっと見たところ六、七人ってとこか。でも、負ける気しねぇ。
「へぇ、やるんならさっさとやれよ、でも俺、強ぇよ? いいの? 綺麗な顔に傷ついても」
「は、はったりよ、言葉だけで脅したってそうはいかないんだから」
そう言って、後ろに回り込んだ先輩が一人、俺に向かって足蹴りをかましてきた。すぐさま俺は体を翻し、その蹴りを受け止めて、平手を一発お見舞いしてやる。
やっぱ、傷つけるっても、女の顔を拳で殴る事は出来ねぇから、手加減してやったんだ。でも、先輩は思いっきり後ろに飛んで、尻もちをついた。
「い、痛ぁい……」
「弱ぇ」
「な、なによ」
そう言って尻もち付いた先輩が、顔をあげた瞬間、その表情が凍りついた気がした。
「あんたらさ、こんな事して許されると思ってんのかよ。しかも好きな男の彼女に、こんな事したら余計に嫌われるだけじゃねぇの? それが嫌だったら、いい加減、諦めろよ」
なんか虚しい……自分に言ってるみたいだ……ちくしょう、なんだよ。
「あ、あんた一年の、テニス部の加藤?」
「は? そうだけど文句ある?」
「え? 加藤? やばくない?!」
やばいってなんだよ。
なんか、さっきまでは逆光で顔が見えなかったらしい。目の前の先輩が、怯えたように俺を見据えている。
「なにがやばいのよ?」
「何がって、こいつ、服部の女じゃない?」
あ、またプチっていった。
「はぁ? 誰が啓介の女だって?!」
こいつら、更に俺の傷口に塩塗る気かっ!!
そう思って、ハッと思う。そう言えば啓介が言ってた……俺を傷つけたら、何をするかわからないってファンに言ったって。
「やばいよ、服部に殺される!」
殺さねぇだろ。バカだ、こいつらも。
「あ、あたしらはあんたに何もしてないからね! その木下にしたんだからね!」
そう言ってあたふたと逃げていく先輩方……くっだらねぇ。
俺は、ふぅっとため息を落として、後ろで、まだ地面にケツ付けてる亜美を見やった。
しゃぁねぇな……俺は、亜美に手を差し伸べる。
こいつは、何も悪くない……悪くないんだ。
「腰でも抜けたか? ほら、起こしてやるよ」
でも、亜美は俺のその手を弾いた。
「自分で立てるわよっ!」
ちっ、可愛くねぇな。そう思いながらぼうっとしてたんだ。亜美が立ち上がって、俺の目の前に立って、上目遣いに睨む。
なに? 何でいつもの如く睨んでんの? 俺、あんたを助けたんだよ? お礼を言われる事はあっても、睨まれる覚えはないんだけど……。
「誰も助けてなんて言ってないわ!」
まぁ、そうだけど……知らん顔も出来ねぇじゃん。あんだけ囲まれてて、ほっとけねぇっつうの。
「あんたなんか……」
「は?」
亜美が震える拳を握りしめている。全身が、震えている。
「あんたなんか大っ嫌い!」
そう言って、亜美に突き飛ばされたとわかったのは、地面に背中を打ちつけてからだった。ガタガタと、傍にあった傘立てに足を引っ掛けて転んだ。
情けねぇ、つうか。
「いってぇ……なにすんだよ! てめぇ!」
「あんたみたいな男女! 大っ嫌い!」
そう言って、目に涙をためて走り去っていった亜美。
こんな光景、前にもあった気がする。
ああ、そうか、あの時。
コートから泣きながら出てきた女の子だ。
「そっか、あの時の……女の子だったのか……」
俺は、そのまま気力なく、やんわりと立ち上がった。スカートのほこりを払って、立ち竦む。
くそ、泣きたいのは俺の方だっての!
なんか、温かいもんが、頬を濡らしてるなんて、俺、らしくねぇよな。
一気に俺の心から何かがすり抜けて、落ちていった気がする。
それでも『好き』って感情だけが、取り残されてて。
――……やばい、涙、止まんねぇ。