〜 事故だろ 〜
な、な、何考えてんだ、こいつ!?
そう思うも、全身が、骨の髄から溶けてしまいそうになる。
このままずっと……なんて感じてしまう。
「……ん、んんっ……」
く、苦しい……。
こ、こんな突然のキスに浸ってる場合じゃない、こ、これ以上やったら、マジで俺が茹であがっちまうじゃないか!
つうか、窒息する!
でも、触れ合う唇のせいで、どんどん心に想いが溢れていく。
このまま、俺の口から『好き』が零れそうになる。だけど、それは決して言ってはならない言葉だと思う。
脳裏に、また、亜美の泣き顔がちらつく。
思い切り俺は力を込めて、唇を離れようとした。けど、まだ、陽の力が緩まない。も、もう限界だ……息……い、い……でき……な。
俺は、陽の胸板をとんとんと叩いた。ようやく、陽が唇を解放する。でも、陽の腕が、俺の体を縛るように放さない。
「な、んで……?」
こんな事した……?
き、きき、聞きたいけど、恥ずかしくて聞けない。
「なにが?」
陽が悪戯っぽくニッと笑う。
この体制、おかしいだろ。もし誰かが来たら、なんて言い訳すればいいんだ。いや、そうじゃない……そうじゃないだろ。
陽には亜美がいる……なのに、何で俺に? こんな惑わせるような……こと。
「ふ、ふ、ふざけてんじゃねぇよ」
俺はそう言うしかないだろ。
お前は既に他の誰かのモノ……知ってるんだ、お前が、亜美とキスした事。
「は?」
「は? じゃねぇよ……た、助けてくれたのはい、いいけど……で、でも」
ダメだ、俺の頭ん中が沸騰する。さっきの熱さを思い出すと、自分が自分じゃいられない。ど、どうしたらいい? こんな場合、どうすればいい?
なんで、どうしてばかりがぐるぐる回る。おまけに眩暈まで。
そうだよ、なんで、陽が俺にキスなんか……キスなんか……。
思考回路を全開にしながら、俺はこんな事になった状況を思い出していた。
そ、そうだよ、俺をかばって、倒れて……で、陽が俺の下敷きになって……それから……それから……。
「じ……事故だろ?」
俺は咄嗟に、そんなことを口走ってた。
「はぁ?」
陽は、ムッとした声を漏らした。すると、ようやく陽の腕が、少しずつ緩んでいく。
「事故??」
そ、そうだろ、事故に決まってる……こんなんありえねぇ。俺は小刻みに首を縦に振って見せた。
「この状況? それともキス?」
そんなんどっちもだよ、どっちも陽の意志じゃなくて事故だっつってんの。でも、声に出せない……気持ちがあたふたして、喉の奥が熱くて、声が出せない。
嬉しいのと、悲しいのと、訳わかんないのと……いろんな感情が混ざり合って、涙に変わろうとしてる。でも、ここで泣けない。絶対に泣けない。
あ、だんだん陽の腕が、俺から、離れていこうとする。
この腕をどんなに掴み止めたいかなんて、陽は知らない。
「俺はまた、アキに押し倒されたのかと思った」
陽が突拍子もない事を言う。どこまでが本気なのか全然わからない。そんな事より、俺が襲ったみたいに、い、言うな。
「んな訳ねぇだろ!」
「は? なんで?」
その返しの意味が、まったくもって理解不能だ。
「なんでって、なんでって……お、お前には、その、あ、亜美がいて、だな」
更に陽が、ムッと眉間にしわ寄せた。
「何でそこで木下が出てくんだよ」
あ、不機嫌な声……。
「だって、お前のせいで亜美が泣いて」
ダメだ、自分で言ってて震えてる。辛くて堪んねぇ……苦しくて、今にも抉られるみたいに、喉が締め付けられる。
「だ、だから、こんなとこ見られるとやばいし……ただ、転んだ拍子に、こ、こ、こんな事になって……だな……どう考えても事故以外なくて……」
そう言っている間に、陽の腕が、スッと俺の肩を掴んで引き離した。
「まぁいいや、全然意味わかんねぇけど、じゃぁ、とりあえずそこ、どいてくれる?」
な、な、なんだよ……お、お前が放さなかったくせに、今さら俺の事を邪魔みたいに言いやがって。
でも――……少しホッとしてる……なんか怖かったから……なんでかわかんねぇけど……震えが止まらなかったから……。
俺はゆっくりと、体を起こした。そして、痛む足をかばいながら、立ち上がる。陽は俺に肩を貸してくれて、怒ってるみたいでも、やっぱりどっか優しくて。
どうしようもなく胸が苦しくなる。
でも、いつもみたいに、キュってなるやつじゃなくて、心臓が止まってしまいそうなほどに、痛くて苦しい。
「……送る」
「え?」
「その足じゃ、自分で帰れないだろ」
「何言って……いい、いいよ、そんな事してくれなくても」
「なんでだよ」
なんでって……そりゃ。
「今は、俺なんかより、亜美じゃ、ないのかよ」
自分で言ってて、嫌だって思うのは、俺の心が狭いせいか?
「は? だから、何で木下が出てくんだっての。さっきからお前しつこいぞ」
「だってお前は亜美を泣かせたんだぞ? 少しは罪悪感とかない? いくらなんでも、あんな言い方しなくてもいいだろっつってんの!」
もう、これ以上、亜美の名前言わせんなよ! どんだけ辛いかわかってんのかよ……なんで俺が、お前ら二人の事、心配しなきゃなんねぇんだよ……くそ。
送ってくれるなんて、俺が惨めになるだけだよ。お前といるだけで、亜美の事がちらついて、嫉妬して、どんどん心がみっとも無く、醜くなってくんだよ。
「俺さ、お前が何言ってんのかわかんねぇんだけど……つまり、俺に、木下を慰めろって言ってんの?」
彼女なら……当たり前なんじゃねぇの?
でも、言えない……もう、言えねぇよ。マジでこれ以上、言わせんな。
「そういうことなのか?」
再確認すんじゃねぇよ……何も言えなくて、俺は、ただ黙って俯いた。
陽は、大きくため息を落とした。荒げた心を落ち着かせるように、とても深く、震えるため息。
「だったら何? 怪我してるお前を放って置いて、俺は今から木下を追いかけてって、慰めればいいのか?」
いちいち言うなよ、しかも何度も慰め慰めって……でも、それが当たり前だろ、彼女なんだから……って、マジ俺も何度も同じ事ばっか考えて、辛ぇ。
「で、さっきの事を謝って、優しく抱きしめて、キスして、それから……」
なんで今言うんだよ……なんで、今、陽の口からそんな事……。
さっきまで触れていたはずの唇が、優しかった唇が……今はナイフのように心を突き刺す刃になっている。
陽の優しさが、俺をすり抜けていく。
「それから、それ以上の事までして、あいつの気持ち受け止めてやればいいのかよ」
もういいだろ!!
耳を塞ぎたかった。
なんで、ここまで意地悪に言う必要がある……俺はただ、亜美を泣かせるなって言いたかっただけなのに……自分で選んだ女を傷つけるなって言いたかっただけなのに。
昔みたいに、優しい陽でいて欲しいって思っただけなのに……。
――……ああ、そうか。
こいつは俺の気持ちなんか知らないんだった。
俺がどんだけ好きかなんて……知らなかったんだっけ。だから平気でこんな事が言えるんだ。
さっきのキスは、やっぱ幻……俺らにとっては事故だった。陽が抱きしめてくれたと思った腕も、何もかも夢の中の出来事だ。
俺をかばって倒れた拍子に事故っただけ。
もしかしたらって思わなかった訳じゃない……でも、あの言葉が邪魔をする。
『幼馴染でキスしないでしょ』
あの言葉が、俺を歪ませる。
お前は亜美とキスしてんだろ? そんなの関係ない女に、誰にでも出来るのか?
俺は信じたいんだ。
お前は、そんなこと出来る奴じゃないって。だから、さっきのは意志じゃなくて、事故。
そう思いたいんだよ。
「はっきり言えよ」
何をだよ。
「……アキ」
俺の名前を呼ぶな!
「こっちを見ろ、アキ」
呼ぶな!
呼ぶなっ!!
心が乱れる……お前を求めてしまう……もし、今、お前を見たら、きっと止められなくなる……。
でも、そんなことしたら、また、あいつが泣いてしまう。昔も今も、大きな瞳に涙をいっぱい浮かべて、泣いてしまう。
「アキ、俺は……お……」
これ以上、何も聞きたくねぇ。
「お、お前の事だろ? 俺には関係ねぇから好きにしろよ……お前が亜美に謝るのは当たり前だろうが……でも、その先の事までとやかく言う気はねぇよ」
ホントは気になる。関係なくもない……ホントは、ホントは、亜美と何もして欲しくない。
俺の傍に居て欲しい!
まだ、陽と亜美が付き合ってると知らなかったら、俺の気持ちを言ってもよかった。
でも、知ってしまった以上、さっきみたいに事故で陽に触れる事があっても、気持ちは表に出しちゃいけないんだ。
俺は、誰かを泣かせてまで、そんな風にはなりたくない。
誰かの心を壊してまで、邪魔してまで俺の気持ちを伝えたくはない。
あれは事故だ……そう思うしかない。
そうだろ……――陽……。
俺の中の優しい陽を……昔のままの陽を、壊したくはない。
「それが……アキの答えか?」
答えってなんだよ……そんなもん、お前の中でも、とっくに出てるだろう。
お前が亜美とそういう関係だったって事は知ってるんだよ……それが答えだ。
「アキ――――っ!」
京子が俺を探しに来たらしい。その声が、だんだんここに近付いてくる。
「あ、アキ! 探したよ、大丈夫なの足!」
言いながら、京子が俺の元に駆け寄る。
「やだ、めちゃくちゃ腫れてるじゃない! あ、江口君」
俺は、まだ、まともに陽の顔は見れない。京子が俺と陽の間に入ってくれたおかげで、少し視界が狭まった。
俺の泣きそうな顔、見られなくて済む。
「そっか……わかった」
陽がポツリと呟いた。
「え? 何が?」
京子がキョトンとして陽を見ている。
「長田、お前、アキを送っていってやってくれないか?」
「え、なんで? 江口君はどうするの?」
「俺は……たぶん木下の奴、家に帰ってるだろうから、とりあえず謝ってくる」
そうだよ、初めから素直にそうしとけばよかったんだ。そしたら、俺は……こんなに苦しまなくてよかったんだ。
お前のキスに――――惑わされなくてもよかったんだ。
「そっか、うん、わかった私、アキを送ってくよ」
京子の返事を聞いて、陽は俺に背中を向けた。そしてどんどん離れていく。
本当はその背中に縋りたい……でも、出来ないんだろ?
お前は、あいつのものだから……俺の傍に居るべき人じゃないんだから……。
陽の気配が消えて、今になって、腰が砕けたように崩れ落ちた。
「ヤダ、どうしたの! アキ?! 大丈夫?!」
俺は……俺は……。
「なに、泣くほど痛い?」
京子が、そう言いながら、俺の髪を優しく撫でた。
「大丈夫よ、大丈夫……アキ、痛い時は泣いていいんだよ」
そう言ってくれたおかげで、俺は、生まれて初めて声をあげて泣いた気がする。足の痛みにかこつけて、なんとも情けない泣き方かもしれないけど、それでも、もう我慢が出来なかった。
陽……なんで俺に触れた?
そんな事したら、余計に忘れられなくなるじゃねぇか。
なんで、俺を追いかけてきた?
もしかしたらって、勘違いするだろ。醜い心が顔を出して、お前を奪いたくなるだろう? 好きなんだって言いたくなるだろ?
「アキ……大丈夫よ……」
京子の声が、物凄く優しくて、何もかもを察してくれているような気がした。
「……うっ、う……」
京子が俺を抱きしめてくれる。その胸を借りて、嗚咽が漏れる。
陽――……俺、こんなんで、お前を諦められるのかな……。
まだ唇が感じている。陽の温もりを忘れない。張り裂けそうな感情が、まだ、唇に残ってるんだ。
どうしようもないくらいに、昔以上に、お前を求める心があるんだ。