〜 事故だろ 〜
「……ん、んんっ……」
苦しそうな晶の声が耳に落ちる。でも、離したくない。今、この唇を離したら、晶がどこかへ行ってしまいそうで、怖い。
だけど、それよりも、こんな事して……傷つけたんじゃないかって思うと、まともに顔を見れない気もする。
晶が、俺の胸を叩く。
もう、限界……か。
そう思って、ようやく俺は、指先の力を緩め、晶の唇を解放した。
それでも、体は離せない……触れていたい……こんなに我儘に縛るなんて思ってもいなかった。気持ちを伝える前に、行動が晶を束縛する。
「な、んで……?」
そう聞いた晶に、俺は思わず苦笑い。
「なにが?」
「ふ、ふ、ふざけてんじゃねぇよ」
「は?」
ふざけてなんかない……ただ、俺は……。
『相手の意志何も考えないなんて女の敵じゃない!』
姉貴の言葉が、また脳裏を過る。
晶の意志……聞いてないまま、また俺が暴走しちまった。
ただキスしたかった。ただ触れたかった。ただ……離したくなかった。
これは全て俺の意志だ。晶の事なんか、また考えなかった。
あの時と同じように……。
だけど、俺は心のどこかで確信してた。晶だって……俺の事……そう自惚れてた。
ごめん、そんな言葉が心の中にある。でも、素直に口から出てこない。
「じ……事故だろ?」
小さな声に、俺は耳を疑った。
事故?
その言葉は知っている……事故……?
「はぁ?」
お前を追いかけてきた事か? お前の腕を掴んだ事か? お前を助けた事か? もしかして、お前にキスしたことか?
「事故??」
それは俺が、今一番、聞きたくなかった言葉だ。
「この状況? それともキス?」
どっちでもいい事を俺は無意識に言っていた。
わかってるのに……その言葉の意味を十分に分かっているのに。
「俺はまた、アキに押し倒されたのかと思った」
なんで俺、こんな事言ってんだ……それはそれで嬉しい状況になるけど、今の晶がそんな事する訳がないんだ。何で俺、自分の望みばっかり押し付けてんだろう。
そんな事あるはずないってわかってんのに――……。
「んな訳ねぇだろ!」
やっぱりな……そんな訳ねぇんだ……『事故』って言葉を口にした時から、その心は分かってる。
俺が使った言葉だから……なんとも思ってない、好きでもない相手に使う言葉だから。
でも、聞かずにはいられない……晶を責めずにはいられない。
「は? なんで?」
こんなに俺は、お前が好きなのに――……。
ダメだ、晶を縛る俺の腕が、徐々に緩んでいく。
伝わらない想いが、悲鳴をあげて心から去っていく。残されたのは、こんな事した自分への怒り……そして、俺を好きじゃない晶への苛立ち。
「なんでって、なんでって……お、お前には、その、あ、亜美がいて、だな」
また、あいつの名前……なんで、どこまで俺に付いてくるんだ。俺が『事故』だと思った相手。
「何でそこで木下が出てくんだよ」
「だって、お前のせいで亜美が泣いて」
わかってるよ、あいつが泣いているのはいつも俺のせいだって事くらい。でも、なんで晶に言われなきゃならない。なんで好きな女の口から、別の女の心配しろだなんて聞いて冷静でいられない。
俺はそこまで大人じゃない……まだまだ、ガキなんだよ。
「だ、だから、こんなとこ見られるとやばいし……ただ、転んだ拍子に、こ、こ、こんな事になって……だな……どう考えても事故以外なくて……」
そうやってお前は、俺の気持ちを突き離すんだな。
俺は、そのまま晶の肩を掴み、引き離した。たぶん、そこに優しさなんかなかった気がする。
「まぁいいや、全然意味わかんねぇけど、じゃぁ、とりあえずそこ、どいてくれる」
そして、晶が俺の体から離れる。辛そうに足の痛みを我慢してるのがわかる。俺の気持ちを事故で済ませた晶だったけど、やっぱ見ていられなくて、手を貸す。
その時、俺の片肘が、ずん、と疼いた。でも、そこは悟られないようにしなければと思った。
震えてる……晶が、めちゃくちゃ震えてる。
――――俺、また悪い事した。
「送る」
でもせめて、それくらいはさせてくれ。
「え?」
俺の顔なんか二度と見たくないかもしれないけど、怪我したままのお前を放っておける訳ないんだから。
「その足じゃ、自分で帰れないだろ」
「何言って……いい、いいよ、そんな事してくれなくても」
「なんでだよ」
そこまで拒否るなよ。めちゃくちゃ悲しくなるじゃねぇか。
「今は、俺なんかより、亜美じゃ、ないのかよ」
また――――……なんでそういつもいつもその名前なんだっての。マジでイライラする。
「は? だから、何で亜美が出てくんだっての。さっきからお前しつこいぞ」
「だってお前は亜美を泣かせたんだぞ? 少しは罪悪感とかない? いくらなんでも、あんな言い方しなくてもいいだろっつってんの!」
罪悪感ならあるよ……いつもお前の気持ち無視して先走る事とか。
なんでそんなに辛そうな顔すんだよ。
もしかして、お前は自分の邪魔だから俺と木下をくっ付けたい訳?
「俺さ、お前が何言ってんのかわかんねぇんだけど……つまり、俺に、木下を慰めろって言ってんの?」
そんな風には思ってて欲しくはないけど、ここまであいつの名前が出てくりゃ誰だってそう思うだろ。
なに黙ってんだよ、図星かよ。
そんなに俺が、お前を想ってちゃいけないのかよ。
「そういうことなのか?」
今一度聞く……でも、晶は答えない。そんなに言いにくい事か。この際、はっきりとお前の口から聞きたいのに。あやふやな答えじゃなく、はっきりとした言葉。
俺は、落ち着かない気持ちを、苛立つ気持ちを抑えるように深呼吸した。
「だったら何? 俺は今から木下を追いかけてって、慰めればいいのか? で、さっきの事を謝って、優しく抱きしめて、キスして、それから……」
ダメだ、何言ってんだ俺……この期に及んで晶に嫉妬でもして欲しいってか?
違うって言って欲しいのか……こんな女々しい俺、最低だな。
「それから、それ以上の事までして、あいつの気持ち受け止めてやればいいのかよ」
こんな思ってもない事を口にするなんて、俺はどこまでガキなんだ……ああ、こいつ、めちゃくちゃ困ってる。
こいつに、どこまではっきり言って欲しいんだ、俺。
晶を困らせるつもりはないのに……そんな事、晶が言うはずないのに……。でも、はっきり聞かなきゃ俺がやってらんねぇ……きっぱり振られなきゃ……諦められねぇ。
「はっきり言えよ…………アキ」
まだ、晶は俯いたまま、何も言わない。
早く、俺を振ってくれ。俺の目を見て、ちゃんと言え……俺の事なんかなんとも思ってないって……他に好きな奴がいるって……嫌いだって、迷惑だって。
「こっちを見ろ、アキ」
ちゃんと俺を見ろ、でなきゃ、俺が言うぞ……お前がずっと好きだった、だからキスした……本当は俺だけを見てて欲しい。
そう言って、もっとお前を困らせるぞ。
俺が気持ちを言ったら、届かなかった想いに、終止符を打ってくれるか?
もう、俺は止められなくなってんだ……溢れる想いを自分でも受けきれなくて、もっとお前を傷つける事を望んでしまう気がするんだ。
だから――……。
「アキ、俺は……お……」
「お、お前の事だろ? 俺には関係ねぇから好きにしろよ……お前が亜美に謝るのは当たり前だろうが……でも、その先の事までとやかく言う気はねぇよ」
晶の声を聞いた瞬間、心臓が止まるかと思った。
俺の事なんか、関係ねぇ――……か。
――お前が好きだ……その言葉は言えず終いだ。
それがお前の本当の気持ちなんだな。
「それが……アキの答えか?」
考えたくないけど、そうなるだろうな。
やっと、昔みたいな晶に会えたと思ってた。言葉使いも仕草も……でも、もう昔には戻れない。
昔みたいに、笑い合う事は出来ない。
「アキ――――っ!」
遠くで長田の声が聞こえた。どうやら、あいつも晶を心配して追いかけて来たらしい。
「あ、アキ! 探したよ、大丈夫なの足!」
言いながら、長田が晶の元に駆け寄る。
「やだ、めちゃくちゃ腫れてるじゃない! あ、江口君」
このまま、長田に任せてもいいか。
はっきりと聞きたいとは思った。でも、ここまでガツンと来るとは思ってなかった。分かりきってた答えだから、多少なり覚悟は出来てたつもりだったのに。
やばいくらいに泣きそうってなんだよ。
「そっか……わかった」
俺は、やっとの思いで声を絞り出した。
「え? 何が?」
「長田、お前、アキを送っていってやってくれないか?」
これ以上、ここにいられない。
「え、なんで? 江口君はどうするの?」
どうする……一人で失恋の痛手背負って泣く、とか……言えるかそんなこと。
「俺は……たぶん木下の奴、家に帰ってるだろうから、とりあえず謝ってくる」
それがお前の望んだ答えだから。
「そっか、わかった」
そのまま、俺は二人に背を向け、歩き出した。
俺が、これ以上、晶に構ってはいけない……晶はそれを望んでいない。
***
『謝ってくるよ』
晶にああ言った手前、やっぱり木下にはちゃんと謝らなきゃな。そう思って、俺は久しぶりに木下の家に行ったけど、あいつはいなかった。
どこ行ったんだよ……俺は失恋して泣く暇もねぇじゃねぇか。
ま、後で帰ってきたら謝っとくか。そう思って俺は自分の家に向かった。
でも、玄関に入るなり、見覚えのある靴がある事に気付く。
「ああ、それ亜美の」
そう言って出てきたのは姉貴……まだ帰ってなかったのか。
「なんで」
「なんか今日はしおらしく玄関から入ってきたわよ。珍しい」
そう言って、姉貴は俺に二階へ行け、と合図した。
なんで俺の部屋にいんだよ、ったく、世話が焼ける。
「木下」
言いながら部屋のドアを開けると、ベッドに突っ伏した木下を発見。
「なんで俺んちで泣いてんだよ」
「だって」
そう言って顔をあげた木下の顔は見れたもんじゃねぇ。
赤くなった目に、鼻水ダラダラ……って、それ俺のベッドなんだけど。
でも今日は大目に見るか……傷つけたのは俺だし。
そう思って部屋に入ったなりだ、木下は俺に突進してきた。そのまま、俺にしがみつき、また泣く。
しょうがねぇな……俺は、いつものように振り払うことはせず、思いっきり泣かせてやった。
「……陽……」
「なんだよ」
「私と組んでくれるよね?」
まだ言ってんだ、こいつ……そう思いつつ、俺は大きくため息をついた。
あんなに酷い事言っても、突き離しても、こいつは俺だけを見てくる。すげぇ根性入ってると思う。まぁ、どうせ晶も怪我で出れないし、一回くらいはこいつの望み、叶えてやっても罰は当たらねぇよな。
「ああ、わかった……その代り、負ける気はないから、お前、今まで以上に練習しなきゃダメだから」
そう言うと、木下は顔をあげ、信じられない、という風な表情をした。
「なんだよ、不満でもあんのか」
「……ない、でも」
「でも、なんだよ」
「だって、さっきまでめちゃくちゃ嫌だって言ってたのに、ダメもとで言ったのに……なんで?」
「なんでって言われても……」
「私と付き合ってくれるの?!」
「それは違う!」
なんでそうなるんだよ、こいつ、わかんねぇ奴だな。
「一緒に出てやるって言ってんだ、文句ねぇだろ」
「う、ん」
「でも……だからってお前の気持ちには応えられないから……それだけは言っておく」
「なんで?」
また、なんでって、いちいち説明しなきゃわかんないかな。
「お前がいくら俺を好きでも、俺の気持ちが他を向いてる……好きな人が、いる」
「その人は陽の事、好きなの?」
「いや……それは」
ストレートに痛いとこ突いてくんなよ、傷はまだ深いってのに……。
「だったら、まだ私が想っててもいいって事だよね?」
「おま、諦め悪……っ」
いや、そうか……俺だって、晶が他の奴を好きでも、気持ちが冷める訳じゃなくて、ずっと想っててもいいって気持ちがあるんだ。木下の事だけ悪く言えねぇ。俺だって諦め悪ぃのに。でも、そんな奴が俺だけじゃないって思ったら、なんか救われた気がする。
「いいよ……でも、俺、お前に振り向かない自信ある」
「そんな事、わかんないじゃん」
「わかるって」
俺があいつをどんなに好きか、わかってねぇな。
「私の入る隙間はない?」
「ああ、まったくない、これっぽっちも、一ミリも」
誰も入る隙間なんてない……どんだけ振られても俺の心ん中は、いつも晶でいっぱいだから。絶対に揺るがない、気持ちだから。
「そんなにはっきり言わないでよ」
木下が、また俺に顔を埋める。震えてるのがわかる。でも、悪いけど、病気かってくらいあいつに溺れてる。
「ねぇ……私の背中に腕をまわして、抱きしめてよ」
泣きそうな声で木下が言った。
「悪い……それは出来ない……でも、泣くためなら俺の胸、いつでも貸す」
「ばか」
俺の腕は、あいつだけを抱きしめるためにあるんだ。
そして、俺の心は、あいつを好きでいる事だけに、幸せを感じるんだ。