〜 ガキの頃から 〜
「アキ、女子は次、家庭科で移動だよ、行こう」
隣の席で長田に言われた晶が、やんわりと席を立つ。俺は頬杖を付いたまま、前を見据えていた。
「江口君、大丈夫? 腕……」
ふいに、長田が言い、俺の腕に視線を落とした。
「……あ、ああ」
言いざま、俺は、そのまま視線を晶に向けてしまった。
なんで、見たんだろう、自分でもよくわからない。でも、晶は困惑の表情を浮かべている。やっぱり、俺が傍にいるのはダメなのかもしれない。
そんな顔は、見たくないのに……。そう思って、俺はすぐさま視線を外した。
晶が、去っていく気配を感じる。
俺の元から、去っていく……。
今から、女子は家庭科か、って事は、俺らは体育だな。今日はなんだ、バスケだったか?
でも、どっちにしても俺は出来ない。
ふと、腕を見やる。
晶を助けた時に出来た怪我だ……あいつと、少しでも繋がっていられた時の……。
俺はやりきれない思いを抱えたまま席を立ち、その足で、屋上へと向かう。
どうせ、授業は受けられないんだ、脇で見学しているよりは、さぼった方がまだマシ。
そう思った。
屋上で、青い空を流れていく雲を見上げていると、なんだか自分が小さく見える。
小さい、そう、俺小さいんだよ。
思いながら、そのまま、空を仰いで冷たいコンクリートに背中を預けた。
あれから、晶との会話はない。
あんな光景を目の当たりにして、晶の顔をまともに見れないって言うか……経込んでるって言うか……。
もう、無理なのか。
そう思いたくもなる。
服部とのキス――……それがどれだけ俺の心にダメージを与えたか計り知れない。試合に負けた事よりも、そっちの方が頭から離れないほどに悔しい。
俺の気持ちを言わないまま、晶の口から何も聞けないまま……ただ、時間だけが過ぎていく。
腕の痛みよりも、遥かに痛いのは、心の方。
「陽」
その声の主が、大きな影となって俺を覗き込んだ。
木下か……。
「なに?」
俺はぶっきらぼうに答えた。
木下が、俺の横に座る。なんでここにいるのがわかったんだよ。
「今日、三年生と一年生の歓送別会だって、さっき久石先輩から伝言あったよ、一年生みんなにも伝えといてって、二年生が全部準備してくれるんだって」
「へぇ」
はっきり言って興味ねぇ。
「へぇ、って陽も行くでしょ? コート横でバーベキューの許可下りたって」
「わかんねぇ」
「なんで?」
「別に」
「一年生も関係あるよ?」
「ああ、そうだな……」
俺は、そのまま、木下に背中を向けるように寝返りを打つ。何も考えたくない、誰にも会いたくない……特に、服部には……。
「陽、試合の日からおかしいよ? 何かあった?」
何かあったどころの騒ぎじゃねぇよ……ったく、ほっとけっつうの。
ああ、三年と一緒に服部も出てってくんねぇかな……って、こんなことしか考えらんねぇ俺って、マジで小せぇ奴だよな、まったく。
「まだ、負けた事、落ち込んでんの?」
ちげぇよ……うるさいな。
「それとも……」
木下はそう言いかけて、やめた。
何を言いたいかは知らない、でも、何かを感じているんだろう。
前に言った『俺の好きな奴』ってのが『誰か』と言う事に気付いたのかもしれない。
でも、あえて俺は口にしない。木下の言葉の続きも聞かない。
黙ったまま、沈黙が過る。
暫くすると、木下が腰を上げたのがわかった。
「じゃ、私、次移動だから、行くね」
木下の足音が遠のいて行く音だけを耳が拾う。
屋上の出入り口のドアが、重い音を軋ませ、閉まる。
やっと、一人になれた……でも、考える事はあいつの事ばかりだ。
どこにいても、誰と居ても、考えるのは……。
そう思っていると、また、あの重い音が聞こえてきた。
誰だ……もうとっくに予鈴はなったはずだ。俺以外にも、ここでさぼる奴がいたとは。
そう思っていると、だんだん、その足音は俺に近付いてきた。
そして。
「よう」
聞き慣れた声が落ちる。
まったくもって予想外だ。しかも、今、一番会いたくねぇ奴。
服部。
「何だよ、お前までさぼりかよ」
言いながら、服部が俺の横に座った。
なんで……なんでお前が来るんだよ。
「さぼりじゃねぇよ、腕見ろよ」
俺が、冷たい声でそう言うと、服部は少し笑ったのか、くすりと声を漏らした。
「なに言ってんだよ、ここにいる時点でさぼり確定だっつうの」
そう言って、また笑う。つうか、お前に笑われたくねぇんだけど。
思いながらも、俺は体を起こす事はしなかった。
「そう言えば、今朝、久石と、あの木下って子が話してるの見た」
どうせ、今日の予定の話だろ。つうか、なんでその話……。
「何か、告られてるみたいだったけど……」
へぇ、久石が、木下を……ねぇ。ああ、久石がいつも見てたのは、木下だったのか……って、だからなんで、その話なんだっての。
「なんかさ、お前の名前出されてたみたいで、えらく久石の奴、怒ってたな」
服部の奴、盗み聞きとは大層な趣味だな。
「気ぃつけろよ」
は? 何を?
「あいつ、嫉妬深そうだし」
嫉妬か……嫉妬なら、俺だってしてるっつうの。
だからって、何かをやろうとか、仕返しみたいな事はしねぇ……晶が、誰を好きだろうと、それは、あいつが決めた事……選んだ相手なんだし。
でも、簡単には踏ん切りがつかない。だから、こんなにもやもやしてるんだ。
はっきり聞きたい、そう思っても、聞きたくない自分もいる。
つうか、服部の奴、人の色恋話してるんだったら、他へ行けよ……そう思っていた時だ。
服部が「俺」と、真剣な声を弾き出す。
「晶が好きだ」
繋がった言葉に、俺は居た堪れず、思い切り上半身を起こした。そして、隣に座る服部を見流す。
知ってる……その気持ちは嫌というほど……でも、なんで今言う?
お前は、何を考えている。
「俺、晶が好きだ」
二度も言うな。
そのまま、俺はなにも返さないまま、服部と肩を並べるように座りなおした。
なんでお前と……そんな事を思いながら、重いため息をつく。
静かな風が、俺たちの間をくすぐるように流れていった。
「俺は、晶を、自分のものにしたい、俺だけを見て欲しいって思ってる」
それは、俺だって……。
「だから、この前、あいつにキスした」
その言葉に、俺の心が、落胆と言う感情で埋め尽くされた。
そんな事、見てたんだから知ってる……だから今、こんなに落ち込んでんのに、なんで、お前の口から聞かなきゃならないんだ。
俺の拳が震える、それを悟られないようにぎゅっと握りしめた。
服部を睨むように見据える。
勝ち誇ったような顔が、映る。もしかしたら、あいつが好きなのはこいつかもしれない、そんな感情が湧き出て仕方がない。
「お前は……」
今度は、服部がさっきまでにない重苦しい言葉を吐き出した。
「は?」
「お前は、なんで、晶にキスした?」
「……なっ……?!」
なんで知ってんだ!?
思いもよらない服部の言葉に、一瞬だけ動揺した。でも、真っ直ぐな服部の表情にすぐさま、俺は落ち着きを取り戻した。
「いつ、どこで、とか言うくだらない質問はいらねぇから……お前の記憶にあるキスは、どれかわかってんだろ?」
こいつが聞きたいキスが、あの時のだって事は分かっている。
俺は、怪我をした右腕を握りしめた。
「俺も、お前と同じ気持ちだからだ。あいつだからキスした……」
そう静かに言った。
「へえ、やっと認めるんだ、お前が晶を好きだって……今まで、何も興味ない振りしてたくせに」
「なにが言いたい」
「あの時、どんだけ俺が嫉妬したかわかる?」
「お前、まさか、俺にも同じ気持ちを味合わせる為とか言うなよな」
俺の言葉に、服部は「まさか」と笑う。
「でも、同じ位置に立ちたいとは思ったよ」
「同じ位置?」
「そ、お前だけ晶に触れるのは許さない。晶の口から、誰が好きかも聞かないうちに、お前だけ、暴走すんなって事」
「……だからって」
そこまで言いかけて、俺はやめた。
服部に、俺が言う権利などない。
晶の気持ちを無視してキスするなんて、そんなのは俺も服部も同じだ。こいつにだけ、晶を傷つけるなとは、絶対に言えない。
一番大切にしたい気持ちなのに、一番傷つけた――……。
「お前は、いつから晶が好きなんだ?」
その答えに、何の意味があるんだろうと思いつつ、俺は、服部を見据える。
「俺はさ、幼稚園の時から一緒なの、わかる? その時から、俺は晶を特別な目で見てた……そりゃ、最初はガキの『好き』だし、それが恋だとか気付かなかったけど、でも、話しやすくて、一緒にいて楽しくて、安心できて……いつの間にか、気付いたんだよ」
「……」
こいつは、俺と同じ思いを抱えている。
何もかも、似過ぎていて、嫌になる。
自分を見ているようで、嫌になる……でも、こいつの方が一歩先を行ってる。
晶に、気持ちをぶつけている時点で……俺よりも晶に近いのかもしれない。
「俺には、あいつしかいないって……なのに」
あまりにも真剣すぎる服部の表情。
「なのに、突然現れたお前に……」
でも……。
「突然じゃない」
俺は、我慢しきれずに、服部の言葉をぶった切って入った。
「は?」
「俺だって、ガキの頃から、あいつだけ見てた。晶以外は考えられない」
服部が俺の言葉に苦笑いする。
「は? 俺にとっちゃ突然なんだけど?」
「そりゃ、幼稚園から一緒だってんなら、突然かもしれないけど、いつからとか関係ねぇ、あいつを想う気持ちは負けない」
「負けない……ねぇ」
服部が、俺から視線を外し、空を仰いだ。
「参ったな……そこまで言われると、俺も下がれないじゃん」
そう言って、服部は口端をあげた。
下がれない……そんな気、更々ねぇくせに……。
暫く、沈黙が過った後、服部は重たそうに腰を上げ立った。
「まぁ。お前と話せてよかったわ……お前がここ来んの見えたし、来たんだけど……お前の気持ちはっきり聞きたかっただけだし、授業戻るわ」
「……何のために聞くんだよ」
「あ? なんのって……」
服部は、次に繋ぐ言葉を考えている様子だったが、はっきりした答えは出さなかった。
「ま、いいじゃん……俺、負けるの嫌いだし、お互い頑張ろうぜ、恋も部活も勉強も」
そう言って、服部が俺に背中を向けた。
「あ〜でも、一応聞いとこうかな〜」
何を……。
「お前、この前の中間、何番だった?」
は? こいつ意味わかんねぇ、それ聞いてどうすんだよ。
あ、さっきの勉強も負けねぇっていう、あれか?
「ここってテスト順位発表されないよな……ちなみに俺、七番、ラッキーセブン」
服部が誇らしげに振り向いて笑った。
まぁ、そこそこなんじゃねぇの? 学年三百人弱もいる中で、その順位は相当だろ。
服部が俺の答えを、にこやかに待っている。
想像するよ、お前の落胆する顔……そう思って、俺は口を開いた。
「首席だけど、文句ある?」
そう答えた途端に、見る見るうちに服部の顔が、面白いほど蒼白になるのがわかった。
「なに?! 嘘つけ!」
「嘘言ってどうすんだよ」
「マジか?!」
服部は、頭を抱え込んでしゃがんだ。
「くそっ! 既に負け確定とかあり得ねぇ!」
そう言いざま、今度はスッと立ち上がって、俺を指差した。
「見てろ! 絶対にお前には今後何一つ負けねぇからなっ!!」
「ああ、見ててやるよ。精々頑張れよ」
そう言って俺は、笑ってやった。
服部は、面白くなさそうに屋上を後にしていく。
再び、静かな空間が戻ってきた。
そのまま俺はまた、空を仰ぎ、横になる。
負けない……か。
晶が、服部のキスを受け入れたと思っていた。
だから、俺にはもう無理だと思ってた。この気持ちを持ち続けるのは、晶にとって迷惑なんじゃないかって。
でも、服部の様子じゃ、まだ、その答えは聞いてなさそうだ。
だったら、俺は、ここで落ち込んでいる暇はないんじゃないか?
俺は――……まだ、お前を好きでいいんだよな。
ガキの頃から、ずっと、望んでた。
晶……お前だけが欲しい。他には何も望まない。お前以外、いらない。