〜 五年生の初恋 1 〜 




 

 

 俺がアイツに初めて会ったのは、藤木北小三年の時だった。

 

 姉ちゃんがテニスの練習試合で、藤木南小に行った時、俺も付いて行ったんだ。

 

 まだ、俺はテニスのテの字も知らない頃で、暇だったからついて応援しに行った。そしたら、アイツがいたんだ。

 

 俺よりも少し大きな身長で、初めて見た時は四年か五年かと思った。そして、男だと思った。でも、それはすぐさま俺の中で否定された。

 

 笑顔が眩しくて、妙にドキドキしたのを覚えている。

 

「アキラ! シュートだ!」

 

「任せとけっ!」

 

アキラは、テニスコート脇の校庭で、サッカーをして遊んでた。男に混ざって、でもその中で笑った顔が印象的で……その時、アキラの名前を知ったんだ。

 

 俺はテニスを見に来ていたはずなのに、いつしか、ずっとアキラを見ていた。

 

 だから油断してたんだろうな。

 

 まっすぐに俺に向かってきたボールに気付いた時には、遅かった。

 

 顔面でサッカーボールを受け止めて、俺はしゃがみ込んだ。

 

 いってぇ……。

 

「おい、大丈夫か?!」

 

 そう言って心配そうに駆け寄ってきたのが、アキラ。

 

「あ、い、うん」

 

 俺は恥ずかしさのあまり何も喋れなくて、俯いた。

 

「おい、見せてみろ」

 

 そう言ってアキラは、強引に俺の顔を上げる。

 

「うわっ! お前、鼻血出てんじゃん!」

 

 血だらけになった掌を見て慌てる俺の鼻に、そっと柔らかい布が当たる。見れば、アキラは優しく自分の服の袖口で、俺の鼻血を拭ってくれていた。

 

「ちょ、それ、服?!」

 

 さらに慌てる俺を見て、アキラはニッと笑った。

 

「大丈夫だ、こんなの洗濯すりゃ取れるだろ。ま、洗濯するの親父だし……つうか俺、ハンカチなんか持ってねぇもん」

 

 笑いながらも丁寧に、俺の鼻血を拭って、でも、すごく心配そうに……。

 

「おい、アキラ! そんなんほっとけよ!」

 

 誰かが叫んだ。そしたら、アキラは物凄く怒って、その誰かに怒鳴った。

 

「はぁ?! ケースケが蹴ったんだろ! 謝れよっ!」

 

「やだよ、ぼーっとしてる方が悪いんだろ!」

 

「何だと?!」

 

「い、いいよ」

 

 俺は慌てて手を横に振ったけど、すぐにその手を掴まれて、アキラは真顔で見つめてきた。

 

「よくない! 俺だってやってたんだ、痛い思いさせて、ごめんな」

 

 なんで『俺』なんだろう。始めはそう思ったけど、でも、そんなのは関係ないってすぐに思えた。女の子なのに『俺』とか言葉使いが男っぽいのも、すべて含めてアキラなんだってわかったから。

 

「ちょっと待ってろ」

 

 アキラはそう言って、校庭の隅にある水飲み場まで走っていった。傍に居た子に、何か絡んで、更に何かを受け取って……奪い取ってって感じだったけど、それから水道をひねった。

 

 そのまま、それを絞って俺のところまで、また戻ってくる。

 

「顔出せ」

 

 差し出されたのは、濡れたハンカチだった。

 

「え、でも、これ」

 

「大丈夫、アイツには後で新しいの返しとくから、ほら」

 

「でも」

 

「ばーか、乾いてる血で顔中真っ赤だそ、拭いてやるよ。お前見えないだろ?」

 

 アキラは、強引に俺の顔を拭き始めた。でも、それは決して嫌な感じじゃなくて、優しくて、丁寧だった。

 

「お前、北小?」

 

「う、うん」

 

「へぇ、テニスクラブの試合に来てんの?」

 

「ううん、姉ちゃんが……」

 

 こんなに近くで話せるなんて思ってなかったから、妙にドキドキして、鼻血もすぐには止まらなかった。出来れば止まらないでほしいとさえ思ってた。ハンカチが真っ赤に染まっていく。

 

「そっか」

 

 そう言って、アキラがテニスコートを眺めた。

 

「でも、なんか格好いいよな、テニスって」

 

「え?」

 

「なんかさ、あれなんての? 高く来た球を、こう、パコーンって打つの」

 

「スマッシュ?」

 

「それそれ、ああいうの見てると格好いいって思うんだよな」

 

 そう言ってまた笑う顔が、俺の心に焼きついた。

 

 ようやく止まった鼻血を確認して、アキラは「よし、もう大丈夫だろ」そう言ってくれた。

 

「あの、服……」

 

「いいからいいから、俺らの方が悪いんだし」

 

「でも」

 

「気にすんな、じゃぁな、今度はちゃんと避けろよ」

 

アキラは、笑いながら仲間のところに戻っていった。

 

 それから、何度か試合について行っては、アキラの姿を探してた。

 

 たまにしか会えなくて、いや、見れなくてだな。俺は恥ずかしくて、いつも陰からしかアキラを見れなかったんだ。

 

 もう一度喋りたい、そう思っても恥ずかしくて、声をかけられなかった。だからアキラも、俺に気付く事もなかった。

 

 それから暫く、俺は姉ちゃんが全国大会をかけた公式試合で負けて泣いてるのを見た。

 

 すごく悔しそうに、しゃくりあげて、涙が止まらなくて……何だか俺まで悔しくなって、つい「俺が仇を取ってやる!」なんて叫んでたっけ。

 

 だから、俺はテニスを始めた。

 

 でも、本当のきっかけは、アキラが『格好いい』って言ったからだ。

 

 少しでも、アキラの瞳に映りたくて。

 

 でも、俺が入ってからは、てんで南小へ行っての練習試合が減って、あまり見る事が出来なくなってた。南に新しいテニスコートが出来て、主にそこへ集まってたからだ。

 

 アキラがわざわざテニスコートに来る事もなくて……ずっと会えなかった。

 

 そのまま時間だけが過ぎて、俺は五年になってた。地道にテニスの腕を磨いた。ジュニアの練習がなくても、いつも北区にあるテニスコートで、一人で練習してた。

 

 いつか会う事があったら『格好いい』って言って欲しくて……そう思ってた矢先だ。あれは偶然だった。

 

 いつものように一人で練習してたんだ。そしたら、フェンスの向こうにアキラを見つけたんだ。

 

 俺は、アキラより少し身長が大きくなってた。それだけで何だか嬉しかったのを覚えている。

 

 でも……アイツは泣いてたんだ。

 

 笑顔のアキラしか見た事なかったから、すごい衝撃を受けた。

 

 アキラが泣いてる……姉ちゃんみたいに、泣いてる……守らなきゃ、俺が、守ってあげなきゃ。

 

 そう思ったら、俺はいつの間にか声をかけてたんだ。

 

「おい」

 

 内心、俺がビックリした。心臓バクバクで、今にも止まるんじゃないかってほどに。

 

 アキラは、驚いたように、でも不機嫌に振り向いた。

 

 久しぶりに見るアキラ……フェンス越しに向き合って、懐かしさに胸が躍る。

 

 俺の事、覚えてるだろうか、そんな期待を胸に抱いてた。

 

「お前、俺の相手しねぇ?」

 

 でも、やっぱアキラは覚えてないようだった。

 

「はぁ?」

 

 そんな訝しげな声が返って来た。でも、それでもいい、前みたいに陰でこそこそ見てるだけじゃなくて、俺は今、泣いてるこいつを励ましてやりたい。願わくば、友達になりたい。触れたい。子供のくせに、そう思ってた。

 

 アキラは不審がっている。覚えてないんじゃそりゃそうだろ。アキラは思いっきり踵を返して、帰ろうとした。

 

 ダメだ、今、ここで離れたら、一生会えなくなるかもしれない! そんな大袈裟な気持ちが前に出て、思わず呼びとめた。

 

「ちょっと待て」

 

 俺は慌ててコートを出て、アキラに駆け寄る。

 

 捕まえなきゃ、今、捕まえとかなきゃ!

 

「おい!」

 

 その勢いに任せて、俺はアキラの腕を掴んで、無理やり振り向かせた。

 

 久しぶりに触れた感触に、俺の鼓動が一気に高鳴る。

 

「何すんだよ、放せよっ!」

 

 放さない……絶対に、この腕を放すもんか。

 

「いいから、ヤな事、忘れるぜ」

 

 そう言って、俺は無理やりコートに引きずり込もうとした。

 

「待て待て待て! 誰がやるっつった?!」

 

「え? 俺」

 

 拒む腕を何とかコートに引きずり込んで、あの時のアキラのように、俺は笑顔で言った。

 

「やろうぜ」

 

 案の定、アキラは困惑してる。

 

「でも、俺、ラケット持ってねぇ」

 

 相変わらず『俺』なんだ、変わってなくてよかった。なんか嬉しい。

 

「俺、二本持ってるよ」

 

「それに、やった事ねぇ」

 

「俺が教えてやるよ。俺、これでもジュニアのエース」

 

 そう言いながらでも、心臓は破裂寸前。でも悟られないように、俺はアキラにラケットを手渡した。

 

「何で一人でやってんだよ」

 

「あぁ、今日は休みだから」

 

「俺、区外の人間だぜ、ここ使っても……」

 

「い―のい―の、俺が区内だから」

 

 アキラなら俺が許す。

 

「俺の入ってるジュニアクラブってさ、月水金しか練習ねぇの。でも、俺は毎日、こうやって練習してるんだ。ちょうど相手探してたとこ」

 

 本当はずっと、アキラを探してたんだけど、今は、言えない。

 

「相手って、俺じゃ」

 

「いーのいーの。俺、強くなりたいから」

 

 それは本心だった。このコートに立てるのも、アキラのおかげなんだ。あの時、姉ちゃんが負けなくても、きっとアキラが『格好いい』って言ったから、俺はここに居られるんだから。 

 

「なんで、そんな強くなりたい訳?」

 

 アキラの質問に、正直、心が揺れた。

 

 そのまま言ってしまおうか、でも、俺を覚えていないのに、そんな気持ちが交差する。

 

 だから、俺はまだ言わないでおこうって思った。

 

「ん? ああ、倒したい奴がいて」

 

 もう少し、俺を見て欲しい。俺自身を、俺だけを見て欲しい。そう思ったから。

 

「は?」

 

「俺、始めはテニスなんかって思ってたんだけど、俺の姉ちゃんがテニスやってて、それでさ、試合見て、姉ちゃん負けて、泣いてたから……」

 

「へ、へぇ」

 

「すごく悔しそうに……だから、俺が仇を取ってやるって思ってさ」

 

「……仇って」

 

「んん、でもよく考えたら、姉ちゃんだろ? 既に中学行ってるし、っていうか女だしさ。だから俺がどんなにやっても、その相手とは試合できねぇって思って」

 

 こんな理由で大丈夫か、俺。ちゃんと質問に答えられてるか? なんかすごく心配になってきた。なんか俺、訳わかんねぇ事言ってないかな。

 

「考えなくてもわかる事じゃん、馬鹿じゃねぇの?」

 

「ん、馬鹿だった」

 

「変な奴」

 

「でも、やってるうちにテニスが楽しくなって、ほかの誰より熱は入ちゃってさ」

 

「やっぱ馬鹿だ」

 

「うるせぇよ」

 

 こんな会話が出来るなんて思ってなかった。本当は、もう会えないんじゃないかって思ってたから。でも、今、アキラが目の前に居る。それだけで、なんか幸せなんだ。

 

「お前、南小だろ? 何年?」

 

「五年」

 

 あ、年上だと思ってたけど、違ったのか……同じか、そか。

 

 やっぱ嬉しいや……なんか、アキラと同じ学年って言うだけで、すげぇ嬉しい。なんでもない事だけど、すごく近くなった気がするのは俺だけだろうな。

 

 そうだ、アキラは俺の名前を知らない。

 

 知ったら、もっともっと気持ちが近付けるんじゃないか?

 

「俺と同じだ、俺はアキラ、よろしく」

 

「え?」

 

「なに?」

 

「お、俺も……アキラってんだ」

 

 知ってる……知ってるよ、アキラ。

 

「へぇ、同じ名前かぁ、なんか呼ぶの照れくさいな」

 

 覚えていなくてもいい。今日から、お互いの名前を知るところから始まるんだ。それに、俺が覚えてるから、それでいいんだ。

 

俺が、すっと手を差し伸べると、少しアキラは考えた後、柔らかな感触が、掌に重なった。

 

 出来ればもう、この手を放したくない。そんな独占欲が心の隙間から顔を出す。

 

「じゃ、やるぞ、乱打」

 

「お、おう」

 

 やっとアキラもやる気になってくれた。俺は本当に嬉しくなって、はしゃいだ心を胸に、アキラと反対側のコートに立った。

 

 何度も何度も、俺からアキラへボールが飛んでいく。いっこうに返って来ないボールは、まるで俺の一方通行の気持ちのみたいだって思えた。 

 

「何で当たんねぇんだよ!」

 

 何度も、アキラは俺に打ち返そうとしてくれる。それがアキラの心だったら、どんなに嬉しいか……。

 

 アキラ、早く俺にボールを打ってこい。

 

 俺は何度でも、お前にボールを返すから。

 

 でもアキラは、息が上がってきている。

 

「じゃぁさ、こういうのはどう?」

 

「は?」

 

 俺は叫んだ。

 

「ムカつく奴の顔思い出して」

 

 言いながら、大きくボールをあげて、サーブを打ち込む。

 

「その球、そいつだと思って打つ!」

 

 案の定、アキラの表情が変わった。すると、綺麗にボールはラケットに当たり、俺の頭上を通り越して行った。

 

 ま、初めてだし、こんなもんだろ。

 

「ナイス」

 

 俺は思わず手を叩いて喜んだ。勿論、アキラを泣かせた奴は許せない。アキラから笑顔を奪った奴……どんな奴か興味が、いや、嫉妬はあったけど、今はこうして俺の前で笑ってくれる事で許せた気がする。

 

「すっきりした?」

 

「あ、ああ、まぁ」

 

「筋は良いから、絶対にアキラもテニスうまくなるよ」

 

 そう言って、何度もやってるうちに、自然とボールに当たるようになっていった。

 

 でも、アキラの返す球はほとんどがアウトコースで、俺はかなり走らされた。

 

 それでも、アキラの球は、ちゃんと返したい。その一心だった。

 

 それでも限界はあるようだ。

 

「ちょ、タイム!」

 

 俺はそう言って、その場でに倒れ込んだ。

 

「もう無理、休ませて」

 

「何だよ、だらしねぇな」

 

 口をとがらせて、アキラも、その場に座る。

 

 からかっていたはずのアキラの表情が、真剣に変わる。

 

「ごめん」

 

 なんでこう、いつもドキドキさせられるんだろう。

 

「は? 何謝ってんの?」

 

「いや、だって、ほら、俺、下手だし」

 

「始めは誰だってそうだよ、でも、ありがたいんだ」

 

「え?」

 

「ばっちし、俺の練習相手に相応しい!」

 

 俺は、アキラに向かって親指を立てて、笑ってみせた。だから、アキラもずっと笑っててよ。

 

 それから暫くして、コートの使用時間が過ぎて、二人で片づけ始める。

 

「あ、アキラは座ってていいよ、初めてで疲れてんだろ? それに俺が誘った側だし」

 

「いや、俺も使ったし」

 

 律義なんだな、アキラは……。

 

「そっか、じゃ、ネットの端っこ持ってくれる?」

 

「ん、ああ」

 

 二人で片付け終わって、コートを出る。俺が、夢に見ていた光景だ。二人で汗をかいて、二人で……どんなに嬉しかったか。だから、このまま終わらせたくはなかった。

 

 いつまでも、アキラと一緒に居たかった。

 

「また明日も来いよ」

 

 俺は思わずそう言っていた。

 

「はぁ? 何のために」

 

 きょとんとした顔のアキラが、目の前に居る。

 

「いいから、俺の練習相手」

 

「ヤダよ、もう、疲れた。絶対に明日、お前のせいで筋肉痛だよ」

 

 ヤダって言うなよ……へこむじゃないか……。

 

「はは、運動不足だからだよ」

 

「うっ……」

 

「じゃ、明日も待ってるから」

 

 それでも強引に、俺はそのあとの返事を聞かずに、アキラの頭を撫でた。

 

 返事はいらない……怖いから。そのまま、アキラから手を放して、俺は走りだした。

 

 何度も振り返り、夢じゃないよなって確認した。でもそこには確実にアキラがいて、俺は安心するんだ。

 

絶対に来てくれる、そう信じてた。

 

そして、その約束は守られたんだ。

 

アキラは、毎日「また明日な」って言う俺の言葉通りに来てくれてた。

 

嬉しかった。明日の約束が出来る事。そして会える事。

 

俺は、ずっとこのまま続くんだって思ってたんだ。そして、いつか俺は言うんだろうなって考えてた。

 

 

 

 

 

 

アキラが、ずっと好きだった――……って。

 

 





 

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