〜 名前 〜
俺は、藤木に来ると決めてから、ときどきこの高校のテニス部に顔を出していた。
そんな交流があったせいで、そのまま入学と同時に部に入った。そして、毎日練習に参加している訳なんだが……。
いつまで経っても晶が入部してこない。
おかしいだろ。
中学で全国出てて、そこそこの成績をあげてるんだ。晶の入学と同時に顧問が目をつけない訳がない。でも、一向に晶が入部してくる様子はなかった。
まさか、普通に仮入部とかから入ってくる気じゃないだろうな。俺や晶なら即行で入れるはずなんだ。なのに、なんで。
でも、その予想が当たったと気付いたのは、少し経ってからだった。
俺は担任に頼まれて、クラス内で集められたプリントを提出しに職員室に向かった。そこで、テニス部顧問の机の上に、晶の入部希望の届け出があるのを見つけた。
『加藤 晶』
そこ書いてある名前を、俺はそっと指でなぞる。
晶……これは『アキ』じゃねぇだろ……『アキラ』だろ?
ガキの頃から、俺が好きだったアキラなんだろ……なんで今さら、こんなにお前の事で悩まなきゃならねぇんだよ。
でも、この用紙を出すのは、仮入部の希望者だ。
なんで晶が仮入部からなんだよ……そう思いもしたけど、まぁ、それでもテニス部に入ってくれるのだからいいか、そう思った。
思って安心したのに、いくら仮入部が個人の希望日に添うと言っても、遅すぎじゃないか、と思いはじめていた。
既に入学して一週間以上が経っている。俺はどうにも気が気ではない。
なんでまだ、来ないんだ、晶。いい加減に出ないと、体が訛っちまうぞ。
そう焦る気持ちを抱えながら、その日も俺は部活に出た。
いつものようにうるさいギャラリーに、心の耳を塞ぎながらコート内に入る。
「お願いします」
そのまま、俺は体をほぐすストレッチに入った。
「マネージャ―の試験いつでしたっけ」
一人の先輩が、新部長になった寺倉先輩に聞いた。
マネージャーか、そう言えばここはそんな試験みたいもんがあるって言ってたな。
「今年も多そうですね、マネージャー候補」
その言葉に寺倉先輩が「ああ」と、フェンス向こうを流し見る。
まぁ、俺や晶には関係ないけど……あのギャラリーはマネージャー狙いか。
「あれね、まだ本多は決め兼ねてるよ。あの通り、今年の候補がいっぱいいるみたいだしさ、難しい問題作ってやるとか張り切ってたし」
本多とは、テニス部の顧問だ。
俺はそんな話を耳にしながら、ラケットを持った。そして、ベースラインに立ち、サーブ練習を始めた。
打つ度に、女の声がうるさくて仕方がない。
頼むから、黙っててくれないかな、集中出来ねぇ。他にも目当ての部があるだろうに、バスケ部にも結構女子がたまってんのみた事あるし、サッカー部だってそこそこ、頼む、そっちに流れてくれ。
そう思いながら、ふと、そのギャラリーに目を向けた。途端に、俺は自分の目を疑ってしまった。
「な、んで……あいつが……?」
その中に、晶の姿を見つけたからだ。周りより一つ頭飛び出たでかい女だ、目立つっつうの。そ、そんな事より、なんでお前がそこに居るんだよ!
そう突っ込み怒鳴りたくもなった。
そのギャラリーは、お前のいる場所じゃないだろ! ほとんどがマネージャー希望なのに、なんでお前が……晶はプレーヤーだろうが! なにマネージャー候補の位置に馴染んでんだよ!!
それでも何も言えずに、ぐっとラケットを持つ手に力が入った。
早くコートに入れ!!
だけど、晶はなかなかコートに入ってくる気配がない。今日も来ない気か?
もちろん俺は、そんな晶が、気になって仕方がない訳で……練習に身が入らない。
くそ、何キョロキョロしてんだよ、お前のいる場所はそこじゃねぇだろ。
そう思っていた時だ。その晶の背後に近付く影に気付いた。
あ、あれは……服部。
服部は、俺とほぼ同じくらいにテニス部に入部してきた。アイツも同じく、中学の頃から、藤木に来ていたから知らない訳じゃない。
南中出身で、上級者レベルに入るだろう。
でも、その服部がなんで、晶の後ろに……そう思っている間にも、服部は晶に声をかけたようだ。
慌てている晶が、両手で服部の口を塞ぐ。
何やってんだ! 晶の奴! なんでそいつに触ってんだよ、しかも仲よさそうにしやがって……離れろ!!
それでも、俺はポーカーフェイスを保ち、テニスに打ち込んでいる姿を崩さなかった。
内心は、それに反して嵐のように荒れ狂っているというのに。
あ――――っくそっ! イライラしてきた。
晶は、服部と知り合いなのか?
心がどうにも穏やかではない。
でも、そうだ服部は南中だ。その中学に行くのは南小の奴だ。勿論晶も南小だった……その頃の、知り合いなのか?
やきもきしながら二人を見ていると、晶が服部の手を引いて遠ざかるのがわかった。
あ、おい、どこへ行く!
そう思うも、あからさまに追いかける事が出来ない。
どうする、どうする……もしかして、晶が俺に昔の事を隠すのは、そいつのがいるからなのか? だから、晶は……嘘を……。
――そいつが、お前の好きな男なのか?
そうなると、既に俺の集中力は敢え無く崩されていく。
入るはずのサーブ練習も、うまく入らない。力が入り過ぎてネットに引っ掛けてばかりだ。
くそっ! マジで気になって練習にならねぇ!!
しかも、二人が校舎裏へと姿を消したってのは何だよっ!
あそこは誰も来るようなところじゃないだろ。なんで晶は、服部をそこへ連れていくんだ。
そのまま俺は、悶々とした気持ちがすっきりすることはなく、苛立った感情のままラケットを地面に叩きつけた。
「くそ」
「おい、江口……何してんだよ」
寺倉先輩の驚いた声が耳に届く。
「いえ、別に……」
そう言いながら、俺は手の甲で、額から流れ出る汗を拭う。
「なんか調子悪いのか? さっきから全然球も切れてないし、何より入ってない」
「……すみません」
俺は力なく呟いた。
わかってんだよ、そんなこといちいち言われなくても……原因だってわかってんだ。
俺はそう思いながら、晶が服部と消えていった方を見据えた。
この苛立ち半端ねぇ……俺、かなり嫉妬してる……。
「すみません、ちょっと」
そう言って俺はベンチに向かい、ラケットを置き、コートを出た。
はたから見れば冷静に見えるだろう。でも、心の中は全然、真逆だ。
なんで俺じゃないんだ。なんでそいつなんだ。晶、なんで俺に気付いてくれないんだ。
誰にも触れさせたくない。だれにも渡したくない。
そんな思いを募らせて、俺は、晶が消えた校舎裏へ向かった。
でも、そこへ行ってどうする? もしも、本当に晶が服部を好きだとしたら、俺は邪魔以外の何者でもない。なのに、この嫉妬が止められない。
どうしても、お前を、誰かのモノにしたくないんだ。
逸る気持ちが、俺の足を小走りにする。
どこ行った? 晶――……。
校舎裏に来て、晶の姿を探す。
ふと、女子の後ろ姿が視界に映る。隅っこの木の陰だ。
あき……いや、違う……あれは、晶じゃない……。
「長田?」
そう呟いて、足を止めた。少しホッとする俺がいる。
なんだ、陽と服部だけじゃなかったのか。なんだ……そうか……。
あの時、俺には二人の姿しか見えなかった。二人を追って長田がついて行ったなど、視界に入る余裕もなかった。
でも、いったい何を……俺はまた、三人のいる方へと歩き出した。
長田の前に、陽と服部がいる。
なんの話だ?
そう思った時だ。安堵したはずの心が、またざわめきを増すのがわかった。
服部が、小さくため息を落としたかと思うと、指先で晶の額にデコピンをかました。
「な……」
触るなっ!!
こんな事で嫉妬する俺って、なんか小さいかもしれないけど、それでも、するもんはするんだ。そのまま、俺は長田の後ろに立ちつくす。
「おい」
俺の声はかなり不機嫌だったろう。
そりゃそうだろ、晶はいつまで経っても部に来ない。やっとで来たと思ったら服部の手を引いて消える。その上、俺の晶にデコピンだと?
この状況のどこに、俺の心を救う余地がある。
「江口」
服部が言った。勿論、晶自身も驚いている様子だ。
なんだよ、俺が来たらやっぱまずかったのかよ。
「何だよ、江口。今、いいとこなのに」
このやろう……なにがいいとこだよ、ふざけんな!
「さっさと部活戻れよ、さぼんな、服部」
俺は腕組をしたまま、服部を睨みつけた。
「へぃへぃ」
服部は、渋々といった様子で舌打ちをする。
そうだ、そのまま晶から離れろ。
俺は、服部を呼びに来た状況になっている。このまま何もないなら退散するしかない。そう思って、部に戻ろうと踵を返した。
それでも治まらない何かが残る。晶の気配を背に、苛立ちは消えない。
このままでいいのか? 俺は、ここに何しに来た?
何があったかは分からない。服部と仲良くやってるのかと思ったら嫉妬した。だから邪魔してやろうと思った。でも、長田がいた事で二人っきりじゃないとわかってホッとした。そしたら、別のモヤモヤが残って……。
俺は、再び晶に振り向き、歩み寄った。
そして、晶を見下ろす。
「な、なに?」
なに、じゃねぇよ。
「アキ、お前もいつになったら部活入んだよ」
一番聞きたかった事だけど、アキ……そう名前を呼ぶだけで、心が締め付けられそうになる……晶……心ではそう呼べるのに、もどかしい。
本当に昔の事は、消したいとか思ってんのか?
「は?」
なにとぼけた声出してんだよ。何か意外な事でもあんのかっつうの。
ただでさえ、お前の名前をまともに呼べなくてイライラすんのに、これ以上、俺を振りまわすなよ。
俺の事を隠そうとしてるのか、避けようとしてんのか、それとも本当に覚えてないのか知らねぇけどな。
そのまま俺は、晶の片耳に指先を宛がい、摘みあげた。
「痛ぇ!」
当たり前だ! そんな叫びを心にあげて、思いっきり晶の耳元で、大声で怒鳴った。
「なにマネージャー候補のギャラリーに混ざってんだって聞いてんだろ!」
あ、大きすぎたか、声。
「な、なんで……」
なんか悪ぃと思って、すぐさま手を放してやった。
でも、なんで? ときたか……。
「先生の机に、お前の入部届けがあったから言ってんだよ」
これは嘘じゃないんだから、いいだろ。つうか、入部届け出す事態おかしいっつうの気付けよ。ま、俺の意志は伝えたし、このまま晶が入ってくれれば言う事ないんだが。
「早めに入れよ」
そう付け加えて、俺は再び踵を返す。
「行くぞ、服部」
でも、晶のあの驚きよう……可愛かったな。そう思い、歩きながら視線だけで晶に振りかえる。
そのまま、晶に向かって舌を出した。
早く気付けよ、俺の事。俺がどんだけお前を待ってると思ってんだよ。
いつか、またお前とテニスできる日を、どんなに待ちわびたと思ってんだよ。
早く来い。
俺と同じコートに、早く立て。
つうか、なんか、指先が熱い……晶に触れた、指先――……。
お前の一つ一つが愛しくて堪んねぇ……だから早く、来い……俺の元に。
そう願って止まないのは、やっぱ、お前じゃなきゃダメだって、俺の心が言ってるからだ。
そして、指先は、お前以外に触れたくないと感じている。