〜 キス、したのか 〜
「ただいま」
「おかえり」
「……なんでいんの? 姉貴……」
玄関に入ると、就職して一人暮らしを始めたはずの姉貴が迎えてくれた。
「なんでって……明日休みだし、つうか、食糧調達?」
「は、バッカじゃねぇの」
姉貴は俺の言葉に少しムッと頬を膨らませたけど、すぐさま、ニンマリと不気味な笑みを浮かべた。
「な、なんだよ」
「ふふ、さっき上で物音がしたわよ」
「は?」
まさか?!
そう聞いて、俺はすぐさま二階へと駆け上がり、自分の部屋のドアを思いっきり開け放った。
「てめぇ!」
そこには、当たり前のように木下が俺のベッドに腰掛け、漫画の本を平然と読んで座っていた。
「あ、お帰り……遅かったわね、少し待ってたんだけど……」
あっけらかんと、木下が言う。
「ふざけんな! 何度言えば分かるんだよ!」
「なにが?」
「なにがじゃねぇよ! いくらお前の家が隣だからって、窓から入ってくるのは不法侵入だろ?!」
「あら、だって昔からずっとやってたし、陽の家の人は何も言わないわ」
「そう言う問題じゃねぇだろ、もう、昔とは違うんだよ」
木下は、漫画本を静かに閉じると、俺をじっと見つめた。
「そうね、昔と違う……」
当たり前だ、もう俺たちは子供じゃないんだ。いつまでもこんな事されたんじゃ堪らねぇ。
「全然違う……なんで陽、部屋変わっちゃったの?」
「はぁっ?!」
何言ってんだコイツ、俺の言ってる事、わかってねぇ。
「前は私の部屋の隣で、行き来するのも嬉しかった。なのに、なんで急に……ここ、聖さんが使ってた部屋じゃない、なんで変わったのよ」
そうだ、こいつの言うとおり、俺は高校入学と同時に姉貴と部屋を変わってもらった。っていうか、姉貴はもうこの家を出るの決まってたんだ。それでも俺は、嫌だと言う姉貴に何度も頭を下げて変わってもらったんだ。
「ねぇ、陽……」
でも、お前に理由を言う筋合いはないんだよ。
そう思って、俺はため息を吐くと、木下を通り過ぎ、持っていたカバンを机に置いた。
「お前には関係ない、帰れ」
そんな言葉を吐きながら、木下に背を向けた。
だけど、背後で木下が動く気配を感じる。出ていくんだと思ってた。でも、そのまま背中にドンっという衝撃を受け、木下が俺にしがみついたんだってわかった。
こんな事されても、俺はお前に何も思わない。
「離れろ」
俺は冷静にそう言ったが、木下は俺の背に顔を埋めたまま動かなかった。
「いい加減に……」
そう言い、木下の腕を振り払おうとした時だ。振り向いて、木下の肩を掴み、体を放そうとした。なのに、不意を突かれ、木下は思い切り俺を押し倒した。
一瞬の事で俺はバランスを崩す。そして、そのまま脇にあるベッドに倒れ込んだ。
俺の上に、木下がいる。
今にも泣きそうな顔で、俺を見つめている。
「どけよ」
それでも、俺は甘い顔はしない。
「いや」
「お前とこんな事する気ないね」
そう言っても、木下は俺の上からどかない。
木下の体を跳ね返そうとすれば出来る、でも、そうすれば木下が怪我をするかもしれない。そうなれば、試合も近い事だし、厄介になると思えた。そのまま、俺は力を抜いた。
木下にしてみれば、俺がこいつを受け入れたと思ったのかもしれない。案の定、木下の顔が、徐々に近づいてくる。
たぶん、このまま俺にキスでもしようってんだろ……だけど。
「これ以上やったら、二度とお前とは口を聞かない」
今にも触れそうな瞬間、まるで子供のような言葉とは思ったが、そう言ったら、木下はピタリと止まった。
体を傷つけるより、俺は言葉で傷つける事を選んだ。
「絶対に許さない」
静かにそう言うと、木下の顔が離れた。
「な、んで?」
震える声が聞こえる。体も震えている。でも、俺は応えられない。
「なんでよっ?! 前は私にキスしたじゃない?!」
「はぁ?」
そう言われて、俺は考える……消えた記憶をたどり、思い出しもしなかった事が、脳裏に浮かんだ。既に俺の中では終わった事実だった。気にもしなかった記憶。
でも、こいつには忘れられない事だったのかもしれない……。
俺がまだ中学三年の時、熱を出して寝込んだ事があった。
こんな時、晶が傍にいてくれたら、なんて思いながら、意識が朦朧とした中、夢を見てた。
あいつと一緒にテニスをする事、一緒に笑い合う事、一緒に愛し合う事。
そんな夢の中でも幸せ気分で、それでも熱にうなされて。
あの時、まだ木下は俺の部屋の隣で、鍵が開いている日は窓から侵入してきていた。何度言っても直らなくて、半ばあきらめ半分、好きにしろと言っていた。
そして、あの日だ。
その朦朧とした意識の中で、俺に近付く木下を、晶と間違えたんだ。
自然に、俺の腕がこいつの髪を撫で、引き寄せた。
唇が触れた後、俺はハッとしたのを覚えている。自分の腕の中に居るのが晶じゃないって気付いた。
激しい自己嫌悪が襲ってきて、取り返しがつかない事をしたと思った。
すぐさま木下の体を引き放し「ごめん」と呟く。
それが、あの時の記憶だ。
「あれは、だから……事……」
「私、あの時幸せだったのに」
そう言われても、あれは事故のようなもんで、俺の気持ちは今も昔も木下にはない。
「ごめん、でもあれは……俺がどうかしてて、お前を好きだとか、そういう感情はないよ」
「なんでよ!」
「なんででも、頼むから忘れてくれ」
「私、ファーストキスだったのよ! 忘れられる訳ないじゃない! 陽だってっ!」
そう言いかけて、木下がぐっと言葉を飲んだ。その後に続く言葉は「俺も初めてなんでしょう」と言いたかったのか、それとも「はじめてだから忘れられないでしょう」とか。
そうだ、俺だって初めてのキスは忘れられない。
なのに、俺ってかなり酷い事言ったかもしれない……忘れろなんて、酷過ぎるよな。それで、木下も答えを聞くのが怖いんだろうと察しが付く。
でも、事実は事実だ。
俺はそのまま、木下に答えるように口を開いた。
「ごめん、お前を傷つける気はなかった……俺だって、初めてなら忘れられない……」
「それは……わた……」
木下の言葉を遮るように、俺は言葉を続けた。
「でも、それはお前じゃない」
俺の声を聞いた瞬間、木下はあきらかに動揺していた。更に体が震え、そのまま俺の上から離れた。
「うそ……なんで? いつ?」
俺は、上半身を起こし、ベッドに座る。目の前に、木下が床にへたり込んでいた。
「だれ?」
木下が、力ない声で聞いてきた。でも、これ以上答える理由はないはずだ。
「関係ない」
「なんでよ?! なんで関係ないの?! 私はずっと陽が好きなのよ?! だから私はあのキスが嬉しかった! なのにあの時、陽は私に事故だって言った! だったら初めて陽がキスした子もっ!」
「事故じゃないよ……俺、好きだからキスしたんだ」
「うそっ!!」
その言葉を聞くなり、木下は俺に縋るように苛立った表情を向ける。
「嘘じゃない……俺、今でも、その子が好きだから……」
それでも、木下は納得がいかないようだった。
激しく、俺を揺らし「なんで!」と何度も聞いてくる。
「いつもそばに居たのは私よ! ずっと陽の事見てきたのは私っ!」
それ以上、木下に何も答えられずに、俺は困り果てていた。
その時だ。
「はいっ! そこまで!」
そう言ってドアを荒々しく開け放ち、姉貴が部屋に入ってきた。
「聖さん?!」
木下は驚き、慌てて俺に縋っていた手を放した。
ドアの脇に、腕組をした姉貴が訝しく眉をひそめて立っている。
「亜美はもう帰りなさい」
「でも!」
「でもじゃない、女の子が一人、こんなむさ苦しい男の部屋にいつまでもいちゃダメよ、帰りなさい」
そう姉貴が促すと、木下は渋々と立ち上がった。昔から木下は姉貴の言う事だけは聞く。そして、帰り際、俺に振り向いた。
「私、明日の勝負、負けないから!」
「ああ、知ってるよ、でも」
「絶対に負けないから! 陽のパートナーは、今までもこれからも私だけなんだからっ!!」
そう叫んで、木下は走って自分の家に帰っていった。
嵐が去った後のようだ。部屋は、しんと静まり返り、姉貴のため息の声が妙に大きく響いた。
「まったく……わが弟ながら情けない」
何がだよ、そう思い俺は苛立った。
「あんた、亜美にキスしちゃったの?」
「どっから聞いてたんだよ……ったく、姉貴の方こそ立ち聞きなんて情けねぇだろ」
「聞いてたんじゃなくて、聞こえたの……で、どうなのよ」
「……ん……」
俺が返答に困っていると、察したのか姉貴はまた、ため息を漏らした。
「あんた、女の子のファーストキス奪っておいて、忘れろはないでしょ、バカね」
「ばっ……俺だってわかってるよ! でもあの時は熱があって……間違えて」
「間違えただぁ〜?!」
「そ、そうだよ、俺は木下にしたんじゃなくて、こう、朦朧としてて、あいつと木下を」
「そんなもん言い訳にならんっ!!」
人差し指を刺され、姉貴が俺に一喝した。
それ以上、俺は何も言えない。姉貴の言うとおり、俺は木下を傷つけた事には変わりないんだから。
「しかもあんた、いつも相手の意志何も考えないなんて女の敵じゃない!」
「なんでそうなるんだよ」
「だってそうでしょ?! あんたが言う『初めて』だって、寝てる子相手にキスしたじゃない!」
「なっ……!!」
俺の顔が一気に赤くなっていった。なんで知ってるんだ、姉貴の奴!? なんで?!
「おま、盗み聞きの前は盗み見かよっ!!」
こんな、恥ずかしさ極まりねぇ!!
「失礼ね、どっちも偶然よ」
そう言いながら、姉貴は俺の部屋に足を踏み入れ、窓際まで歩いた。カーテンが閉められたままの窓に近付き、それに手をやる。
「ちょ、なにす……」
あ、よせ……カーテンは開けるな。
でも、動揺しきって声が出ない。あたふたする俺なんか無視して、姉貴は容赦なくカーテンを開けはなった。
「ここもいつも閉めたまま、むさ苦しいったらありゃしない」
そう言って、俺を見流す。
よかった、まだ隣の主は帰ってきてないみたいだ。
姉貴、いったいどこまで俺の事知ってんだよ。
「始めは、あんたが危ない奴なんだって思った」
「は?」
何言ってんだ……なんで俺が危ないんだっつうの。
「しかも私をこの道に引きずり込んだのはあんたなのよっ!! いたいけな少女を腐女子の道に引きずり込んで!」
何を訳わからん事を……そう思っていると、すかさず姉貴は机の上に置いてあったものに目をつけ、それを手に持った。そして、俺の目の前に堂々とかざす。
さっき、木下が読んでいた漫画本、俺のじゃねぇ。
「な、んだよ、それ……」
「ここは前まで私の部屋だったのよ、忘れ物くらいするわよ……」
「は?」
「たまにあんたがいない間に入っては、ここに置いて行った私の本たちを読んでたの。あんた自分で部屋掃除しないから気付かなかったでしょうけど」
「マジかよ!」
「そうよ、初めてあんたがキスしてる子を見た時、男の子だって思ったの!」
「はぁ?」
また、突拍子もない事を……。
「だから、あんたは男が好きなんだってず〜っと思ってたの。でも、あのキスを見た時、すっごく胸がドキドキして、眠れない日々を過ごしたわ。私がおかしいんじゃないかってくらいにね……それでも、弟の恋だから一生懸命に理解しようとして、ボーイズラブ読むようになって、嵌って……萌え萌えで」
何言ってんだ、マジで……つうか、人の部屋でそんなもん読むなよな!
「じゃなくてさ」
そう言って、また姉貴は大きくため息を落として、今度はカーテンの向こうを見やった。
「なんであんたが、この部屋と変わってって言ったのかも、その時になってようやくわかった。そして、隣の部屋の女の子を見て気付いたの……どっかで見た事ある子だなって……」
「あ、それは」
「あの子でしょ?」
姉貴が、また俺を見据える。そして、いつもは鬼みたいな姉貴にしては珍しいほど、優しく微笑んだ。
「夏祭りの日に、あんたがキスしてた子なんだって気付いた……何だかそうわかったらホッとして……」
「姉貴……」
「だからって、ここ何年ももやもやとあんたの事で悩んでた私はなんだったの?! って思ったわよ」
「あ、ごめん」
なんで俺が謝ってんだよ……勝手に勘違いしてたのは姉貴の方なのに。
「でも、あんたが真剣に恋してるってわかって、一途なんだって知って嬉しかった……だから、渋ってた部屋を交換してあげたんだからね」
「あ、マジ、かよ」
「でも、あんたがこのカーテンを開けられないのは、まだ気持ちを言ってないから?」
姉貴の言葉に、俺はなにも返せなかった。恥ずかしい前に、当たってるから……なにも進めてない俺自身が情けなくて。
晶はまだ帰ってきてないみたいだけど、姉貴は、そっとカーテンを閉めた。
「でも、亜美だってずっとあんたが好きだったのよ」
「わかってるよ」
「だからってあんたに亜美を見ろなんて言わない……でも、ちゃんとはっきりしないと亜美に失礼よ。あんたの気持ちにだって失礼なんだから……」
「俺の、気持ち?」
「だってそうでしょ? 自分の気持ちに蓋をして、言えないでいるなんて可哀そう。今までずっと心に温めてきた感情なんでしょ、はっきりしないから、でも亜美もわかってるからあんなに焦ってるんだと思う。あんた自身の心に、嘘なんて必要なくない?」
「でも……あいつは……俺に昔の事を話して欲しくないみたいだから……言って傷つけるんじゃないかとか、思って」
「だらしないな……」
「そうだよ、俺はだらしないの」
そう言うと姉貴は、ぽかり、と俺の頭を叩いた。
「認めんな、ばか」
「……」
何も言えない、叩かれても、姉貴には何一つ……わかってるんだよ、自分が情けないってのは。
「まぁ、私は何もしてあげられないけど、応援はしてあげる……でも、もたもたしてるとあんな綺麗な子、誰かに取られるわよ」
姉貴はそう言って、ドアに向かう。その言葉に、俺の中に入り込んできたのは服部啓介だ。あいつも晶が好きだから……。
「あ、それと、亜美の事も早めにはっきりとしなさい。じゃなきゃ、あの子も前に進めないから」
そう言い残してドアを閉めた。
何もかも中途半端なのは俺だ。陽を傷つけないためにと思っていた行動が、他の誰かを傷つけている。どうしようもない男だな、俺……。
俺の気持ちか……それはもうはっきりしてる。だから、後は砕けても打ち明ける方が、みんな進んでいけるんだろうな。
俺は、閉められたカーテンを見据えた。
この向こうに、いつもお前がいる。でも怖くて開ける事さえ出来ない。いつも、一番近くに居るのは俺なんだって自惚れがないとは言えない。
だけど……本当は……。
お前を傷つけるのが怖いんじゃなくて……本当は俺が傷つくのが怖いのかもしれない。
俺を見てくれないんじゃないか、そう思ったら、怖くて堪らない。