〜 AVENGE 〜 メール




 電球の切れ気味な音に重なるように、携帯のバイブの振動が、かき消されている。

 

だが、アサミの中で「何も持って入らないで」という真紀子の言葉が、頭の中から飛んでいて、携帯を取りだしてしまった。

 

 そして開く。

 

 発信元不明のメールだった。

 

その時だ。

 

「アサミ―――――――――ッ!」

 

 絶叫に近い真紀子の叫びと同時に、病室のドアが予告も無しに大きな音と共に閉まった。

 

 電流が走ったように、アサミの体は硬直し、思わず携帯を落としてしまう。

 

 アサミは「しまった」と思った。「何も持たず」という真紀子の言葉を、今思い出したのだ。だが、遅かった。

 

何かが始まる。

 

アサミはそう直感した。

 

「何? 何なの!」

 

 動揺した可奈の叫びが、アサミの耳の奥を通りすぎて行く。可奈は怯えながら後退りし、後ろ手にドアノブを握り締めた。

 

 病室の外側では小百合がドンドンとドアを叩く。

 

「どうしたの! 開けなさい!」

 

 その行動から、ドアを閉めたのが小百合ではないのだと解かる。可奈も、必死にドアを叩く。

 

「あたしじゃない! ヤダッ怖い! お母さん! 開けて!」

 

「可奈?!」

 

 小百合は、開かないドアノブをガチャガチャと回し始めたが、何をどうしてもドアはビクともしないらしい。

 

――逃げ場が無い? 嘘でしょ? 何が始まるって言うの! あたしのせいなの? 有り得ない! 

 

 震える身体をどうしても止めることが出来ないアサミは、肩を小さく上下させ浅い呼吸を繰り返す。叫び声も上げられない。息を吸う事もままならない。

 

――苦しい……。

 

あまりの恐怖に動けないのだ。アサミは、震えた身体を自身の両手で包み込み、その場に立ち尽くすだけで精一杯だった。

 

 消えかかった電球と共鳴し合うかのように、鈍い光を放ちながら振動し続けるアサミの携帯。

 

 真紀子は、明らかに体が恐怖を感じているようで、ここから逃げようと必死に逃げ惑う。

 

「イヤ――――ッ!」

 

 背筋が凍るほどの不快な音を立てながら、真紀子は必死に病室の壁をかきむしる。

 

 真紀子の壁を引っかく音に、脳みそを抉られそうなほどの不快感をアサミは感じながらも、耳を塞ぐ事も出来ないまま、得体の知れない恐怖に、涙まで出て来る始末だ。

 

 携帯が、まるで生きているかのように振動を弾き出しながら、それは偶然なのか、だが、確実に真紀子の方へと動いているようだった。

 

「真紀子……ごめん真紀子! 逃げて!」

 

 やっとの思いで出た言葉がそれだった。何かが真紀子に迫っているのだと感じたアサミは、何も解らないまま、そう叫ぶ事しか出来なかった。

 

「イヤだ! 来ないで――――――っ」

 

 壁を掻き毟る、真紀子の剥がれた指先の爪から滲んだ血が、壁を赤黒く染めていく。

 

「助けて……助けてっ!」 

 

 繰り返される真紀子の、助けを求める涙声を、受け止めて上げられないもどかしさよりも、アサミには恐怖の方が上回っていた。

 

――何も出来ない! 何も出来ない!

 

 そう思いを繰り返すのは、送り主のないメールがアサミの脳裏に焼き付いて離れないからだ。

 

 携帯の画面に浮かぶように記された文字。

 

『やっと君に通じた。今すぐ迎えに行くから待ってて』

 

 不気味なメールに書かれた「君」はアサミではない。

 

 真紀子の事だ。

 

 すると突然、ガタガタとベッドが震えだしたかと思うと、真紀子を壁との狭い隙間に勢いよく落とした。

 

「ぎゃあ!」

 

 真紀子のけたたましい悲鳴が響く。

 

真紀子は、身もだえながらベッドとの隙間から這い出してきた。その形相は、とてつもなくおぞましい。

 

目を、それ以上開けられないほどに見開き、唇が切れるほどに歯を食いしばり、迎えに来る「誰か」から逃れようと必死だった。

 

アサミの足の力が抜けきり、床に腰は砕け落ちた。見てはいけない。そう思いながらも目をそらす事が出来ないでいた。

 

 真紀子の目が、徐々に白目を向いたかと思うと「ひっ」と、アサミは声にならない悲鳴を上げ、思わず両手で口をふさいだ。

 

 得体の知れない誰かが、真紀子の髪を引っ張っている。

 

「嘘っ、嘘っ、嘘っ! 有り得ない! やだ!」

 

 アサミの頭の中がパニックに陥った。

 

 壁から伸びる白く長い腕が、真紀子を壁の中へ引きずり込もうとしている。 

 

 アサミはぎこちなく息を飲んだ。だが、乾いた喉がそれをうまく飲み込んではくれない。

 

 外せない視界に飛び込んでくる光景をよく見れば、いくつもの手が真紀子に伸びている。アサミの震えが止まらなくなった。

 

と、同時にハッとした。その手の中に、見覚えのある手があったからだ。

 

薬指に光る指輪が、合間に発する電気に反射している。

 

『男に買ってもらったの』

 

 そんな言葉が、アサミの頭の中を反復していく。

 

 自慢げにそれを見せびらかしていたのは……――。

 

アサミは思い当るふしの限りに、記憶を辿り、思考を目まぐるしく回転させているのだろう。視線が定まらず泳ぐ。  

 

「あっ……アリサ! どうして? アリサの手なのっ?」

 

 アサミは、爆発してしまいそうな頭を、両手で抱え込んだ。

 

「いや――――――――っ!!」

 

 常識では考えられない光景が目の前に広がっているのだ。発狂しても不思議ではない。

 

「どうしよう。どうしたらいいの!」

 

「アサミ……助けてっ!」 

 

 真紀子の血塗られた手が、アサミに向かって差し伸べられた。

 

――手を伸ばしたい。でも怖い! 怖い! どうしても怖いっ!

 

 アサミは、恐怖には勝てなかった。

 

 首を大きく横に振りながら、アサミは立たない腰を引きずり後退してしまった。先程の床を這うような不気味な音とともに、何かがアサミの足の先に伸びてきた。

 

「いやぁっ! 何!」

 

 アサミは絶叫しながら、思うように動けない体を床に滑らせた。

 

 何かがアサミの足首に絡みついたかと思うと、グイッ! と引っ張られたのだ。

 

「いやぁ―――――――っ!」

 

 アサミは力の限りに抵抗しながら、バタバタと足を振り続けた。絡みつく不気味な物体は、太くて長い植物の蔓のようなもので、まるで生きているように、しなりを効かせアサミをも引きずり込もうとしている。

 

アサミは、自分を引きずり込もうとしている得体の知れない物体を、必死に蹴り上げ、抵抗した。

 

「アサミ! 助けて……た、す」

 

 次第に弱々しくなって行く真紀子の声など、もうアサミには聞く余裕などなかった。視界の隅に捉えていたはずの真紀子の体が、壁の中に半分も埋まる光景を拾った。

 

「真紀子―――――っ!」

 

だが、やはり、自分の事だけで精一杯だったアサミには、どうしようもできなかった。

 

 その内に、次第にアサミの足に絡まった蔓は、引く力を弱めた。その隙に、アサミは這いつくばりながらも、ドアのある可奈のところまで逃げた。肩で大きく息をしながら、ドアを開けようとノブに手を伸ばす。恐怖で震えた腕がうまく上がらない。

 

 同じく震えた体を静止させようとするように、可奈がアサミを力一杯抱きしめてきた。 

 

無意識に応えるように、アサミも可奈を抱きしめた。

 

「……アサ…可…奈……た…す……けて」

 

 得体の知れない蔓に、体中を巻かれた真紀子は、力尽きたのか仰向けになり、だらりとその身を預けていた。

 

「真紀子……」

 

 気を失いかけながらも、目を見開いた状態の真紀子の瞳が、アサミと可奈を恨めしそうに見ている。

 

 可奈は、その目に耐えられず視線をそらした。

 

 やがて、真紀子はゆっくりと、無数の手と共に壁の中に姿を消して行った。

 

 真紀子と同じように、アサミに絡み付いていた蔓も、跡形もなく素早く壁の中へと吸い込まれ戻って行く。

 

 すると、消えかかっていたはずの電気が、ようやく光を取り戻したかのようについた。明るく照らし出された部屋の中は、何事も無かったかのように静寂しきっていた。しかしこれが、夢ではない事だけは明らかだった。

 

 真紀子の姿はどこにもない。

 

 壁に染められた血痕と、痛たましい壁の傷跡だけが、あれが現実だったと語っている。

 

 アサミも可奈も、何が起こったのかさえ解らずに、ただ震えていた。

 

 そして、ようやくドアが開いた。

 

「可奈!」

 

 小百合の呼ぶ声に、二人はゆっくりと振り向いた。

 

「どうしたのよ?」

 

 小百合の問いかけに答える言葉は、到底見つからなかった。小百合は立ちあがれない二人を素通りし部屋に入る。


 勿論、絶句している。窓のない部屋の中から、人間がこつ然と消えたのだから無理もない。

 

 何もない部屋を、小百合は見まわしながら。

 

「……いったい何があったって言うの? 山根さんはどこ?」

 

 それは自分達が聞きたい。と二人はそう思った。

 

 アサミは「信じられないかもしれないけど」と一応、前置きをしてから、自分たちの見た光景を、震えながら小百合に伝えた。

 

 可奈もまた、顔面蒼白状態で、自分の両肩を押さえながら震えている。







    









              

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